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August 21st, 2011 Vol.18 No.34
あなたは何を恐れますか?
ヘブライ人への手紙 25 (13:1-8) 鈴木みどり

A. 有限の「交わり」の中で ~五つの勧め (1-5a)

兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい (1-5b)


私たちは皆、様々な「関係」の中で生きています。親子、兄弟、夫婦、先生と生徒、クラスメートなどの様々な関係です。神様は、「人が独りでいるのは良くない」と言われ、私たち人間を、必ず自分以外の誰かとの、何かしらの関係の中で生きて行くように、社会的な存在として造られました。「関係」というのはそのように、特別私たちが何をしなくても、既に私たちの周囲に存在するものですが、そのままでは何も生まれません。私たちはその「関係」を、神様の愛と聖さをもって、積極的に作り上げていく必要があります。それぞれの「関係」において、受け身でいるだけでなく、より良い働きかけを自分から(能動的に)行っていくべきなのです。神様は私たちに、既にあるその「関係」を、「よい交わり」へと、私たちが自分で意識して(主体的に)発展させることを求めておられます。それは、神様の愛が現されるためです。そして、私たち自身がその交わりの中で成長するためです。そのような、必死に祈り、考え、自ら作り上げようとする、いきいきとした、心の通った「交わり」こそが、私たちが成長できる場なのです。この1節から5節の前半部分で、聖書は私たちに5つの関係を挙げて、それをより良いものとするための「勧め」をしています。  
一つ目は「兄弟として」の交わりについてです。神様から見れば私たち人間は1人1人愛する子どもたちですから、特にクリスチャンである私たちは、霊的な家族として、互いを尊重し、愛し合いなさい、と言われるのです。ユアチャーチでは、誰かが病気になった時、食べ物を持って、あるいはただ傍にいるために、すぐに駆けつける人がいます。災難に遭った時、落ち込んでいる時、逆に良いことがあった時も、私たちは本当によく祈り合い、助け合い、共に泣き、共に喜ぶ家族です。神様はそのことを喜ばれます。私自身、そんなみなさんにたくさん助けられていることを感謝しています。
またそうした日常的な関係以外にも、大切にしたい交わりがあります。それが二つ目の勧めです。教会には、人生という旅に疲れ、心の渇ききった旅人がたくさんたずねてこられます。その時私たちは、お茶やお菓子でもてなしながら、もしもその方が望むなら、話をよく聴き、心の荷物を降ろすのを手伝ってあげましょう。私たちはOur churchではなくYour churchですから、私たち自身が、旅人として初めて教会に行った時、Your churchに来た時、どんな気持ちだったか、1人1人が思い出して、新しい方の立場に立った愛のある交わりを心掛けましょう。 「ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」というのは、創世記18章で、アブラハムとサラが通りがかりの3人の旅人をもてなしたら、実はサラが子どもを授かることなどを伝えに来た主の天使たちだったお話のことです。アブラハムの時代はまだ教会もないですし、家もテントのようなもので、もちろんドアホンもありませんでしたから、通りかかった旅人に食事を与え、もてなしました。でもどんなに天使をもてなしたくても、自分の家にピンポーンと突然知らない人がやってきた時には、不用心にドアを開けないで下さいね。
3つ目の勧めは、相手が目の前にいないケースです。信仰のゆえに(日本では今はないけれど海外では今でも)牢屋に閉じ込められている人や、虐待されているような「弱い立場にある人たち」のことです。地震と津波で家も家族も失われた方や、まだ十分住める家なのに、放射線被害によって家畜も全て置いてそこを去らなくてはならなかった方の立場を、私たちはいったいどれだけ理解することができるでしょうか。どんなに想像してみても届かない、体験された方にしか知りようのない苦しみが、きっとたくさんあると思います。でも私たちはそれでも出来る限り被災者の方々の現状に寄り添おうと必死に考え行動し続けるべきです。ユアチャーチではリーダーズで何度も真剣に話し合い、4月から5月にかけて何人かのメンバーが福島の避難所や宮城県の教会にボランティアに行きました。また他のお一人お一人も、被災者の方々を思いやり、それぞれの最善を尽くして、今まで多くの祈りや献金や、あらゆる行動を献げてきたことと思います。私たちはそのことを、一過性の流行のように忘れてしまうのでなく、し続けていきましょう。たとえ離れていても、大切にしていきたい交わりです。
4つ目は「夫婦」の関係についての勧めです。というと、浮気はいけないなどということは当然だしわかっている、と思われるかも知れませんが、ここで聖書は「結婚はすべての人に尊ばれるべき」だと言っています。つまり、ある夫婦の婚姻関係というのは、その夫婦自身はもちろんのこと、周りの者も皆でその聖さを守るべきだということです。ですから私たちは、もちろん自分自身の潔さを守るために祈ることも大切ですが、もし友人の不誠実を知ったなら、そのことを黙って見過ごしたりせず、きちんと諭してあげることを求められています。私たち1人1人は弱い者ですが、チームワークで潔さを保つこともできるのです。
そして5つ目の関係は、相手が人ではなく、金銭です。金銭に執着してはいけない、という勧めです。お金をたくさん持っているのは悪いことではありません。要は使い方の問題なのです。多く与えられた人が、決して貪欲の罪に陥らず、自分は今持っているもので満足し、残りは全部仲間を愛するため、旅人をもてなすため、困っている人を助けるために使うなら、神様はその人をさらに祝福されるでしょう。
ところがこれらの関係はすべて、私たち人間の限界からくる様々な問題も伴います。お金の使い方にしても私たちは時に失敗しますし、仲間同士であれ、夫婦であれ、家族であれ、生きた、いのち溢れる「交わり」の中では、時に良いことばかりではなく、ちょっとした諍いや、意見の食い違いのようなこともあります。でも、愛し合うべき交わりの中で、互いにどうやってそうした問題を乗り越えるのか悩んだり、あるいは傷ついたり、また仲直りしたりすることを、私たち1人1人が主人公として、忍耐しつつ主体的に行う時、初めてその「関係」が他人事でなくなり、生きた「交わり」となるのです。  そのように、様々な「交わり」を自分のものとして体験する時、私たちの弱さや失敗、全てを通して神様の愛や憐れみが現されます。神様が決して私たちの欠けを責めたりなさらないように、私たちも相手の欠けを受け入れ、補い、失敗した相手を赦すことを学びます。そうした「交わり」の場においてこそ、私たちは試行錯誤しては失敗しながら、1人1人それぞれのスピードで成長していくのです。ですから失敗を恐れる必要はありません。
 

B. 永遠の「交わり」の中で

1) 神様との「関係」も例外ではない (5b-6、申命記31:6、マルコ12:28-31、マタイ10:28-31)

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」(5b-6)


彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:28-31)


体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」(マタイ10:28-31)


先ほど、周りの人々との関係を、愛ある交わりに変えていくことの大切さについてお話しましたが、実はその前に、もっと変えるべきで、もっと大切にすべき関係があります。神様との関係です。マルコの12章にはこう書いてあります。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(30,31) これは、神様から私たち人間への、最も重要なリクエストでした。私たちは、まず第一に、神様御自身を心から愛するべきなのです。それなしにどんなに周りの人とよい交わりをしようとしても、助けようとしても、人間には限界があります。ですから私たちは、神様との関係も、ただ与えられた関係のままで他人事のようにしているのではなく、礼拝し、祈ることで主体的に関わり、愛ある交わりに変えていく必要があります。   このヘブライ書5節のbは、申命記とヨシュア記からの引用です。申命記ではモーセを通してイスラエルの民全体とヨシュアに対して語られ、ヨシュア記では神様が直接ヨシュアに語られました。そして今でも、神様は私たちに対して「決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と語られています。この言葉は、信じるに値するものです。なぜなら神様は、マタイ28:20でも「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と宣言して下さっているからです。 マタイ10章にあるように、神様は、私たちの髪の毛が今何本あるかもご存じの方ですから、この世で私たちの持っている様々な問題も悲しみも、すべてご存じです。また、私たちが耐えられないような試練はお与えになりませんし、逃れの道も用意して下さる方です。耐え難い状況におかれている時も、私たちが耐えようとするならば、耐え抜く力や、必要な慰めも、必ず神様は与えて下さいます。私たちはその方に、すべての悲しみや悩みを打ち明けることができるし、簡単には人に言えないようなそれぞれの個人的な問題も委ねることができます。そして誰より神様御自身が、私たちが自ら進んでそうすることを望んでおられます。 ですから私たちはどんな問題や状況の中にあっても、恐れる必要はありません。神様が傍におられるのです。むしろこの方を畏れましょう。畏れるとは、「怖がる」のではなく、神様の前に謙遜になり、この方を愛し敬うということです。6節の詩編118編の引用のように、「主は私の助け手」です。神様は私たちが願い求めるなら、必ず私たちを苦難から助け出してくださる方です。そしてその苦難さえ、信じる者にはすべてを益としてくださる善い方です。ですからその神様を、もっともっと信頼し、子どものようになって胸に飛び込んでいきましょう。
 

2) 永遠に変わらない方、イエス様 (7-8、ヨハネ16:33)

あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(7-8)

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

 私たちのために十字架にかかられ死なれた後、復活されたイエス様は、すでに死に打ち勝った方です。詩編102編にも、「しかしあなたが変わることはありません。あなたの歳月は終ることがありません」とあります。そのように、もう二度と、死なれることがなく、永遠に生きられる方です。またいつの日か必ずやって来られる方です。その日までいつも共にいてくださる、と約束もしてくださいました。また、「きのうも今日も、永遠に変わらない」ということは、過去から現在、未来に至るまで、なんの条件にも左右されないということです。人間のように、今日はちょっと調子が悪いから判断を間違えた、などということもありません。イエス様はいつも、そしていつまでも、正しく裁き、どこまでも赦し、愛して下さる方なのです。  この世での私たちの人生には、悩みや苦しみがつきまといます。でもイエス様はヨハネ16:33でこう言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。この、「既に世に勝っている」というのもやはり、死を含めたこの世のあらゆる条件に左右されない、変わらないということです。私たちにはどうしても苦難があるのですが、この、既にこの世に勝ち、永遠に変わらないイエス様に従う限り、私たちは自分の限界や失敗を恐れる必要はありません。この「しかし、勇気を出しなさい」という主の言葉に、私たちは一生励まされ続けるのです。  この永遠に変わらないイエス・キリストを信じることは、肉体のある間、もろもろの弱さをもってこの世を生き抜かなくてはならない私たちにとって、希望そのものです。そしてこの方を見上げ、どんな時も従い続けることは私たちの人生のメインテーマですが、弱い私たちには、信仰の手本も必要であることを、7節は示唆しています。ここで、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たち」というのは、当時の教会の人々が、直接その生き様を見て学んだ指導者たちのことです。中には殉教した者もいたでしょう。ユアチャーチのみなさんにとっては、教会のリーダーズにあたります。牧師を始めリーダーズも神様ではありませんから、失敗もしますし欠けだらけの人間です。でもそれでも、神様のご計画の中で、神様によって立てられた者たちです。イエス様に従う上でのお手本なのです。足りない者ではありますが、一つ一つ責任を果たします。そしてどこまでもイエス様についていきます。ですから私たちは共に、永遠に変わらずそばにいらしてくださるイエス様だけを信頼し、自ら祈り、罪も願いも正直に主に打ち明けましょう。そして心を静めて、その方の応答してくださる御声に、耳を澄ましましょう。そうすることで、父なる神様、イエス様、聖霊様とのより深い交わりの中に、共に進み出ていきましょう。

メッセージのポイント

神様は、私たち人間を、社会的な存在として造られました。私たちは、他者や周囲の環境と全く関係なく1人で生きることはできないのです。人は、そうした外部との交わりの中で、善かれ悪しかれ様々な摩擦を経験することによって、初めて成長することができます。そしてそのために、まず私たちは自分自身が神様とのより深い交わりの中に進み出ていく必要があります。神様は私たちにどんな欠けがあろうと、どんな問題を抱えていようと、決して見放さない方です。生きる力も現実的な必要も、すべて満たしてくださる方であり、永遠に変わらない方です。ですから私たちは目に見えるあらゆる存在からの攻撃や、大切な交わりがいつか終わってしまうことさえ、恐れる必要はありません。私たちの真の助け手であるイエス様にすべてを明け渡し、新たな一歩を踏み出しましょう。

話し合いのヒント

1) この箇所で、イエス様がどんな方であることがわかりましたか?
2) 自分の抱えている問題について、恐れず仲間に話し、祈ってもらいませんか?