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October 16th, 2011 Vol.18 No.42
信仰を見せよう  ヤコブの手紙2:14-26

1) 行動が伴わない信仰と信仰の伴わない行動 (14-17)

わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(
14-17

この手紙の教える重要なポイントの一つが、イエス・キリストに従って歩む者の、信仰と行動の関係です。信仰と行動は対立するものではありません。信仰を取るか行動を取るかという事ではないのです。信仰は、イエス様を信頼する、愛するという私達の意志です。意志は心の中にあるものですから、そのままでは誰にも見えません。他の人にとってはないと同じ事です。意志は行動に表わされて初めて目にみえるものとなります。言葉で言い表すことも大切ですが、その言葉に行動が伴わなければ、それは虚しく響くエコーのようなものです。先週紹介したイエス様の言葉を覚えていますか?「あなたが誰かにしたことは私にしたことなのだ」とイエス様はおっしゃいました。イエス様を愛するということ、信じるということは、生活の中で関わる人々を愛し、信頼関係を築くという行動を伴うことが本当なのです。 ところが私たちの誰もが持つ自己中心性は、行うことを妨げます。自分さえ、自分たちさえ良ければ、人のことはどうでも良い、自分を犠牲にしてまで助けの手を差し伸べる必要はないと思うのです。自分をクリスチャンと呼ぶ者でさえもっともらしい理由をつけて良心の痛みを和らげようとするのです。「貧困からの救いより、魂の救いが重要です、この世界では貧しくても天国に帰ればもう飢えることはないのだから。」イエス様に従う者は、体に必要なもの与えることではなく、魂の救いに導くことを考えればいいのだとするのです。しかしそれはイエス様の考えではありません。肉体的な必要を積極的に満たしてやりました。私を信じるなら、癒してあげますと言ったのではありません。自分を、捕らえようとする者まで、何の条件も付けずに癒してやりました。 反対に信仰なしの行動ということは考えられるでしょうか?実際にこう考える人がいます。信仰では、飢えている人を助けることはできないから、信仰抜きで行動しようという人々もいます。人の体を助けることの方に心を砕いて、イエス様を紹介することを忘れてしまった人々です。しかし、どんなに富んでも、心の平和は得られないということも事実です。イエス様ご自身が、人々の体の必要を満たされたのと同じように、私達もまた必要に応えます。しかしイエス様がくださったのは、それだけではありませんでした。彼に従ってゆくことによって得られる、希望と平安も同時にくださったのです。
 

2) 行動が伴わない信仰は役に立たない (18-20)

しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。
(18-20)

神様を信じる、ということは、神様が存在すると思うということではありません。イエス様を信じるということは、イエス様が十字架にかかって私の罪を赦すために死を引き受けた、人類の救い主だと「考えている」という事ではないのです。そんな事なら、悪霊だって知っていますよとヤコブは言います。それでは聖書の言う、信じるとはどのようなことなのでしょうか?トランプをしています。次はハートのエースが出てくると信じるのはカードを引く人です。見ている人にはどうでも良いことなのです。そして自分がカードを引くときに、それを引けると信じなければパスするのです。鉄の塊である飛行機が飛ぶと信じる人は乗る人です。信じない人は決して乗りません。信じるなら行動が伴うのです。イエス様を信じるというなら、イエス様に従って歩むということです。イエス様がなさると思うことをするのです。イエス様ならこの人にどのようにしてあげるのだろう?その答えが、私達が目の前にいる人にするべきことです。イエス様はヤコブ以上に、私たちの信仰と行いの分裂を悲しまれます。イエス様が私達に一番してほしいことは何でしょう?主よ、主よと呼ぶことではありません。神が三位一体だと信じることでもありません。やがて再び来られるということでも、バプテスマを受けなければならないということでも、自分がひどい罪人だと自覚することでもありません。それらは間違いではありません。しかし第一のことではないのです。イエス様は一緒に歩くこと、ついて行くことを一番に願っておられます。イエス様について行くということは、できるだけイエス様のように考え行うということです。それこそが、行いの伴ったイエス様に対する信仰なのです。
 

3) 信仰は行動によって完成する (21-26)

神がわたしたちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう。「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。同様に、娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです。
(21-26)

ローマの信徒への手紙でパウロは、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われると行っています」 ヤコブはパウロに反対しているのでしょうか?それぞれのかかれた手紙の背景に気をつけて読めば、そうではないことがわかります。パウロが問題にしていたのは「律法の」行ないのことです。信じるだけではなく律法も守らなくてはいけないのだという考え否定するために、神様の前に正しくあるためには、行いではなく、主を慕う心であるということを強調したのです。ヤコブの使う「行い」とは律法の行いのことではありません。信仰が形となって表わされる「行い」です。私達にとって信仰の表現とは、宗教的な儀礼を規則正しく行うことではなく、イエス様について行く者として、そうせずにはいられない愛の行動なのです。 多くの場合、信仰のスタートは自分の満たされない心を何か確かなもので満たしたいという欲求から始まります。私の人生はこのままでいいはずがない、どうしたらもっと充実した人生を送れるのか?この重荷を誰が下ろしてくれるのか? 出発点はそれで良いのです。私たちは答えを見出しました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」マタイ11:28に記録されているイエス様の言葉です。しかしこの言葉には続きがあります。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。私のくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである(29,30) 「君は愛されるために生まれてきた」という歌がありますが、真理の半分しか表現されていません。全部いうなら「あなたは神様と人とに愛され、神様と人を愛するために生まれてきたのです。」
 

メッセージのポイント

イエス様は、正しい行いをすることによって神様に近づけるという律法主義に対して、私たちの神様に対する「心の向き」が問題なのだと教えて下さいました。律法を守ることではなく神様を愛すること、イエス様と共にいることを求められたのです。しかし、行動ではなく心の状態が問題なのだということを強調しすぎると、行動すること自体が軽んじられてしまうことにもなりかねません。私達にはバランスが必要です。社会貢献だけが強調されて魂の救いが軽んじられても、魂の救いだけが強調されても健康な教会とはいえません。神様は私たちにどのような教会になってもらいたいと思っておられるのでしょう。一緒に考え、共に健康な教会として成長してゆきましょう

話し合いのヒント

1) 行ないの伴わない信仰とはどの様なものですか?
2) 行ないと信仰にはどの様な関係がありますか?