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January 22nd, 2012  Vol.19 No.4
天からのしるし (マルコによる福音書8:11-13)

11
ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。 12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」 13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。

A.
しるし:従うべき権威の目にみえる根拠

1)
ファリサイ派の人々がしるしを求めた理由

「しるし」という言葉は、聖書にたくさん出てくる言葉です。特に旧約聖書においては顕著です。そして、指導者、預言者は、特別な「しるし」を見せることによって、その行いや主張、命令が人間のものではなく、神様からのものであることを強調したのです。たとえば出エジプトの指導者モーセは、全く自信のないリーダーでした。神様は彼のために、杖を蛇にするというしるしを民に見せることが出来るようにして下さいます。(出エジプト4:1-5) またファラオに対しては、多くの災いによるしるしを見せています。ですから、人々がここでイエス様に「しるし」を求めるのは至極当然のことだったのです。しるしを求めることの方が普通のことであって、むしろイエス様の反応のほうが異例だったのです。人々にとってみれば、しるしを見せてもらえなくてどうして信じられるのかということなのです。イエス様御自身も、ここまでの歩みの中で、かたくなに「しるし」を見せることを拒んでいたわけではありません。しかしなぜか、イエス様は目覚しい「しるし」を見せても、それを積極的に宣伝しようとはなさいませんでした。その理由は、今日の話を最後まで聞いていただければ、よくわかっていただけると思います。


2)
見ただけで誰もが納得するしるしはない
 
ファラオがどんなにたくさんのしるしを見せられても最後まで出エジプトを阻止しようとした(出エジプト7-12)ように、イスラエルの民が神様の意思に逆らってきたように、人はしるしを求めても、結局、しるしは多くの人を神様に近づける力にはなっていません。イエス様はそのことをよく知っておられたのです。目にみえるわかりやすい何かで、人を神様に引き寄せることはできないのです。教会もまた、そのようなしるしで人々を神様に引き寄せようとしてきました。神様に近づいてもらいたい。その動機は正しいのです。しかし、しるしはある人々にとってはきっかけにはなるかもしれませんが、十分ではないのです。ある人々はクリスチャンが政治的な力、権力を持つことがしるしだと考えます。ある人々は魅力的な文化やエンターテインメントを、しるしとして教会が力をいれるべきことだと考えます。教会のカレンダーを多彩なプログラムでいっぱいにすることが良いと考えて、実践し、しかしそれが弟子を増やすことにはつながらず疲れはててしまった教会や牧師をたくさん見てきました。イエス様がおっしゃるように、しるしにフォーカスすることは間違っています。それは現代の教会が陥りやすい誤りでもあるのです。


B.
唯一のしるしとしてのイエス様の十字架と復活

1)
イエス様という目にみえる「しるし」となった神様

イエス様の十字架と復活は、しるしということも出来ますが、他のしるしとは決定的に違います。それらはしるしとも見えますが、救いの本質でもあるからです。イエス様ご自身もそうです。目に見えない神様の目に見える印です。しかし単なるしるしではなく、神様ご自身なのです。舞台となっているこの時代、もう少しで起きる十字架と復活の出来事をとおして、イエス様御自身が、最終的なしるしとなろうとしているのです。イエス様は、その意味で、それ以外のモーセが行ったようなたぐいのしるしは、もう与えられないとおっしゃっているのです。マタイはこの出来事をもう少しわかりやすく「ヨナのしるし以外はあたえられない」と補足して伝えています。つまり真っ暗な大きな魚のお腹の中にいて三日後に生還したヨナのように、死んでよみがえること、十字架で死なれ復活されるイエス様というしるしだけが与えられるであろう、ということです。しかし、その出来事から2000年たった今の世界を見ても、この決定的なしるしでさえ、多くの人々にとっては受け入れがたいものであることがわかります。
 

2) このしるしも、信じて従うという決断をあなたに求める
 

十字架、復活、そしてイエス様御自身、こんな決定的な「しるし」でも、そうとは思えない人が多くいる。それでは、しるしをどう考え4たら良いのでしょうか? 神様はモーセに、あの杖のしるしを与える前に、もっと大切なしるしを与えようと提案されていました。「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ、私があなたを遣わすしるしである」(出エジプト記3:12) モーセは、それだけでは納得できず、人に目に明らかなしるしが必要だと考えたのです。しかし神様が私たちに受け取って欲しいと願われる最大のしるしは「私は必ずあなたと共にいる」という事実なのです。それ自体、目に見えない、この「しるし」を自分がどう受け取り、人にどう指し示すことが出来るのでしょうか?共におられるという「しるし」を受け取るには、信仰の父と呼ばれた「アブラハム」の歩みが参考になります。彼は故郷を離れて歩み始めましたが、それは神様の語りかけという、ファリサイ派の人々にも、モーセにとっても、そしておそらく現代の多くの人にとっても、とてもしるしとは思えないことに従った結果です。そして歩み始めると次々に、神様がアブラハムを祝福して多くの民の父とするという目的に向かっての「しるし」が道しるべのように現れて彼を力づけたのです。イエス様を主と信じて新しい人生を歩み始めた人は皆、アブラハムのように、第一歩を踏み出しました。つまり、しるしがあろうとなかろうと、イエス様の言葉を信じて歩みだしたのです。しかし一歩踏み出すと、その歩みの中で、確かに主イエスは生きて働いておられるという、多くのしるしを見せていただき、信頼はより確かなものになってゆくのです。 それでは、この神様が共にいて下さるというしるしはどう指し示せば良いのでしょうか?それは、目に見えるキリストの体としての人間関係の中で可能になります。ここに現れている人間関係が、神様が共におられるということに基礎づけられたものであるなら、人間の利害関係に基づくものではないということがわかるなら、教会はしるしとなることが出来るのです。それは、言い換えればイエス様の愛に基づく人間関係です。ユアチャーチが、心からの礼拝を捧げることと、互いの交わりを大切にすることを色々な催し物やクラスよりも強調するのは、私たちの間にある人間関係こそが、「私はあなたと共にいる」というしるしに相応しいからです。


メッセージのポイント

聖書の中に出てくる人々はしるしを求めます。しるしを見せてそれが神様からの権威を表すものであるなら、あなたを信じましょうということです。しかし実際には神様が遣わした指導者や預言者からどのようなしるしを見せられても、従いたいと思えば従い、そうでなければ従わなかったのです。どんなに決定的なしるしを見たとしても、それでも従いたくない人は従いません。イエス様の十字架と復活でさえ、従いたいと思わない人にはしるしとは認められないのです。ですから従うべき真理を見出すのに必要なのは、決定的な証拠を見せてもらうことではなく、あなた自身の信仰の決断なのです。


話し合いのヒント

1)
天からのしるしとは何ですか?
2)
あなたはなぜイエス様を救い主/神様と信じたのですか?