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February 26th, 2012  Vol.19 No.9


悪霊を追い出す
マルコによる福音書 9:14-29

A. 私たちには悪霊を追い出す権威が与えられている

1) 悪霊はいまでもこのように働くのか (14-18a)

一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。(14-18a)

聖書を素直に読むなら、悪霊の存在を否定することはできません。それらは堕落した天使である悪魔に従う霊です。神様に似せられて造られた人間が、神様に背を向けて神様のように振る舞うことを求めさせ、破滅に向かわせる意思を持った人格的な存在です。イエス様も、悪魔の試みにあい、それを退けたことが、ヨハネを除く3つの福音書に記録されています。今でも、人を神様に近づけさせない、神様から引き離すために悪霊は働き続けています。しかし私たちは、旧約の時代の人々のように無防備ではありません。イエス様の勝利は既に十字架で確定しているのです。ところが、戦争でどちらかの勝利が決まっても、局地的な小さな戦いが散発的に起こるように、悪魔が勝利したと思われる出来事が起こるのです。そのような悲劇は、全ての人が勝利者イエス様の側に立っているわけではないということから起こるのです。ナルニア国物語のCSルイスが「悪魔の手紙」という本を書いています。ナチスドイツの台頭という悪魔的な出来事が世界を恐れさせていた時代に書かれました。悪魔からの視点で書いているので価値観を逆転させて書いてあるので理屈っぽいのですが、とても参考になります。    私自身は二回、悪霊の追い出しをする機会がありましたが、あまり楽しい体験ではありませんでした。現代では、ここに出てくるような典型的な「悪霊の追い出し」を体験することはほとんどありません。医療が発達して、悪霊の直接的な働きではなく病理として説明できる場合が多くなったからです。しかし、それは悪魔が、人間の知恵に屈服したわけではありません。むしろ悪魔は、悪霊に大暴れさせたりするようなあまりスマートではない方法ではなく、もっと巧妙に働いています。悪魔にとって一番都合のよい人は、彼の存在を信じない人です。そのような人は、悪いことを自分のせいか、他人のせいか、神様のせいにして、決して悪魔に立ち向かおうとはしないからです。悪魔にとっては、その存在を悟られないほうが好都合なのです。次に都合の良い人はイエス様を信頼せずに、ただ悪魔、悪霊を恐れている人です。彼らにとって一番厄介なのはイエス様と共に歩んでいる人です。悪霊の存在を知っていて、警戒はしているけれど、イエス様と共に歩んでいるので付けこむ隙がないからです。

 
2) 私たちも信仰のない時代に生きている (18b-27)

この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。(18b-27)

信仰のない時代は今も続いています。誰を信頼することが出来るのか?この確信をもって生きている人は多くはありません。神様が御自身を現されて2000年以上経つのに、イエス様を信頼して生きる人は少ないのです。ある人は自分を信頼し、ある人は偶像を信頼し、ある人は宗教を信頼して、家族や友だちを信頼して生きています。結婚を申し込む時「私は一生、あなたを裏切らず、必ず幸せにします」と言ったりしますが、この約束を守れる人は少ないのです。そして、どうしようも無くなったとき、ここに出てきた人のように、誰かに何とかしてもらおうとすがるのです。弟子たちがこのケースでは癒せなかった理由は後でお話ししますが、この人の態度にも問題があったのです。彼は弟子たちを医者か霊能力者とみなして追い出しを頼みました。信頼や、神様に対する信仰ではなかったのです。だからイエス様は、子供を癒される前に、親の信仰の言葉を引き出したのです。私たちはイエス様を主と信じています。主にできないことは何もないと信じています。その私たちの、この時代における役割は 困難に直面している人に、イエス様が父親に言われたように「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」といって励まし、イエス様に頼ることを勧めることです。 私たちが不信仰の時代に幸せで平安でいられるのは、イエス様と共に歩んでいるからです。この本当の主に仕えることによってのみ与えられる幸せ、平安を一人でも多くの人が得られるように、私たちはこの時代に遣わされている者です。

 
B. なぜ弟子たちにはできなかったのか?(28,29)

イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

 以前に弟子たちは、イエス様に悪霊を追い出し、病を癒す権威を与えられて派遣されたことがありました(マタイ10:1-15,マルコ6:7-13, ルカ9:1-6)。その時には多くの悪霊を追い出し、病を癒すことができたのです。しかし今回は、出来なかったのです。イエス様の答えは、「この種のものは祈りによらなければ決して追い出せない」というものでした。わかりにくい答えですね。イエス様はここで何か特別な祈りをしてから追い出したのではありません。ただ単純に命じただけです。そうすると口に出して何か特別な祈祷が必要だということではないようです。もっと根本的に神様としっかりと祈りに連携していなければ、反対する者や信仰を持って求めない者の中では難しいということです。後でやってきたイエス様は、その権威をはっきり示す会話の中で、父親の神様を信じてすがる信仰を引き出した上で瞬時に癒されたのです。聖書に出てくる悪霊の追い出しを全部ケーススタディーしても、追い出しのエキスパートになれるわけではありません。イエス様の権威を心から受け入れ、日頃から近くで仕えている者、与えられている権威を理解して、力として発揮する者でなければ、悪霊を追い出すことはできません。  私たちに必要なことは、その道のエキスパートになることではありません。悪魔、悪霊がその時代に相応しい戦略で働き続けているのだということと、しかし私たちは主と共に歩んでいるので恐れる必要はなく、むしろ悪巧みを見破って、目の届く範囲から追い払うことが出来るのだということを知っていることが大切なのです。ある教会は、聖霊の働きを喜び神様の力を喜ぶ力強い教会のように見えましたが、悪霊の追放にフォーカスしすぎて悪霊の研究に熱心になりすぎて、福音の中心を見失ってしまい、もはやキリストの体とは似ても似つかないものになってしまいました。悪霊が働くことに無神経でいてはなりません。しかしそれ以上にイエス様に従い続ける、見上げ続けることのほうがはるかに大切です。

メッセージのポイント
聖書は、悪霊が、悪魔あるいはサタンと呼ばれる人格的な存在に仕えて、人をサタンの奴隷である状態に留めておくという使命を与えられている、霊的な存在あることを教えています。サタンや悪霊はホラー映画の中にだけ登場する、空想上の存在ではなく実在するのです。そして現実では、映画よりはるかに巧妙に働きます。彼らの務めは人を怖がらせることではなく、人を神様から引き離し続けることなのです。イエス様は、このとき子供が病気ではなく、悪霊の直接的な働きによって苦しんでいたので、出てゆくことを命じられました。イエス様に命じられるなら、悪霊は出てゆくしかありません。このようなことに遭遇することは殆どありませんが、私たちには悪霊を追い出す権威と力が与えられていることには変わりありません。権威を与えられているのに力が発揮できないのは、神様との親密さが足りないからです。イエス様はそれを「祈りによらなければ」と表現しています。

話し合いのヒント
1) 「信仰のない」とはどのような意味でしょう?
2) 弟子たちが悪霊を追い出せなかったのはなぜですか?