<MP3 音声>

<ビデオ>


March 18th, 2012  Vol.19 No.12


自分の内に塩を持とう
マルコによる福音書 9:42-50

A. 小さな者と共に生きる

1) 小さな者とは (42)

「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい

小さな者とは、子供のことを指しているのではありません。子供もその中に入っていますが、当時の社会の中で取るに足らないとされていた弱い立場に置かれていた人々のことです。但し、ここでは「私を信じる小さな者」と限定されています。狭い意味に取るなら、イエス様の弟子となった者たち、あるいはイエス様を信じた人を躓かせる(Stumble)行為に対する警告と取れます。躓かせる(NIVでは罪に誘う)と訳されている元の言葉は、罠にかける(to trap) という意味の言葉が使われています。つまり、イエス様に従って歩んでいる人を、そうできなくするということです。イエス様に近づくことを妨害することも、イエス様から引き離すことも含まれると考えましょう。イエス様の愛の眼差しは、「自分は立派に律法を守って生きている」と考えている人々ではなく、自分の罪を認める人に向けられています。イエス様御自身の言葉を二つ紹介します。ひとつはルカによる福音書18章10-14節です。

「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

もう一箇所はマルコによる福音書2:16,17) です。

ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

一番広く考えるなら、何を信じて生きていけばいいのかわからない全ての人で、そのような人々は世界中にいるのです。そのような人々のためにできること、すべきことは沢山あります。しかし私達がまず目を向けなければならないのは、一番近くにいる家族や友人です。

2) 小さな者と共に生きることの困難と祝福 (43-48)

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。

ユアチャーチではここ数年で子供たちが増えていますが、親になると彼らを躓かせないで育てることがいかに困難であるかということを思い知らされます。極端な間違った解釈をするなら、子供が教会から離れたクリスチャンは、石臼に付けられて海に投げ込まれるよりもっとひどい目にあうということになります。臼といっても、餅つきの臼を連想してはいけません。それでは軽すぎるのです。当時のイスラエルの臼とは二頭のロバを動力に回転させて使う巨大なものです。つまずいて教会から離れた人の牧師はさらに酷い目に遭うことになります。天国に帰ったら牧師は誰もいなかったなんてことになってしまいます。躓かせないことに越したことはありませんが、それが出来る人はいないのです。 44,46節がありません。(NIVではカッコ内)それは、翻訳のもととした信頼出来る最新のギリシャ語の聖書にはないけれど、他のギリシャ語聖書にはあったということなのです。元々の聖書には章も節も付けられてはいませんでした。元々の聖書と言いましたが、最初から本として書かれたものでもなかったのです。言い伝えが、やがて断片的に記録され、それを取捨選択して一冊の本としてまとめられたわけですが、その過程で、新しい考古学上の発見や聖書学の発展によってより信頼性の高い選択がなされた結果、いまの聖書のような欠番が生じているのです。 話を元に戻しましょう。誰かを躓かせてしまうことが避けられないにしても、そうしないように、その人と神様との関係を最も大切なこととして配慮するということが私達に求められていることです。子供に、イエス様との関係を何よりも大切に思って欲しいなら、最初にすることは自分とイエス様との関係を見直すことです。あなたがイエス様を心から信頼していなければ、子供はそうはなりません。結局のところ、誰かを躓かせない努力というのは、自分がイエス様の近くにいるという努力です。そしてそれは皆さんと皆さんの回りにいる人への祝福となります。

 
B. 自分の内に塩を持つ

1) 人は皆、火で塩味を付けられる (49)

イエス様のたとえにはよく塩が出てきます。イエス様に従う者は社会の中で塩の役割を果たすというのです。小さな者と共に生きるためにも欠かせないのがこの塩味です。塩には、殺菌する、清くする働きがあります。腐敗を防ぎます。調和をもたらします。しかしこの箇所を読むとイエスさまの弟子になったからといって自然に塩味がつくわけではないようです。

人は皆、火で塩味を付けられる。

ここでは、火とは様々な試練、労苦のことを指します。それらを通してキリストの弟子は地の塩として成長してゆくのです。ペトロ第一の手紙は次のように表現しています。

それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。(1ペトロ1:6,7)

試練は、神様の罰でも、サタンの攻撃でもありません。神様からの成長のためのレッスンなのです。

 
2) 内なる塩をどう用いるか?(50)

塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。

試練をくぐり、苦労を知っている人が塩で味付けられているのは、苦しみの中にいる人に共感できるからです。イエス様は神様でありながら人の苦しみを知っておられました。だから小さいものの友となれたのです。最後に紹介するのはヘブライ人への手紙4:14-16です。

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

私たちが塩を持つのはイエス様のようになるためです。イエス様のように友となり、友を愛するためです。

 
メッセージのポイント
イエス様の価値観と世のそれとは正反対です。どのようなものが大切にされなければならないのか?それは弱い立場に置かれている人々のことです。イエス様はこのような人々を「小さな者」と表現しています。世は自分の利益のために「大きな者」=力を持った者を大切にして、小さな者を切り捨てる傾向を持っています。小さな者に寄り添って生きようと思うなら、自分の利益のために彼らを虐げることに加担することはできません。神の国の一員でありたいなら、この生き方しかないのです。この生き方をするために必要なのが「自分自身の内に塩を持つ」ということです。塩は腐敗を防ぎ、全体の味を調和させることができます。社会を清く保ち、しかも調和した状態にするような塩は、イエス様に従う者の心の中にこそなければならないのです。塩とはイエス様の性質である愛と義です。これを心に保ち、現してゆくことが私たちの使命です。

話し合いのヒント
1) 小さな者とはどのような人々のことですか?
2) イエス様が塩にたとえているのは何ですか?