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April 1st, 2012  Vol.19 No.14

十字架から世界を見よう
受難週のメッセージ (イザヤ53:2-6, マタイ27:46, ガラテヤ6:14-16, ローマ8:22-25, ヨハネ14:5-7)

今日から受難週と呼ばれる、私たちの信仰の原点である十字架と復活を覚えて過ごす特別な一週間が始まりました。イエス様に従って歩む者にとって、一年で最も意義深い時です。このイースター前の日曜日は棕櫚の日曜日と呼ばれています。この日、イエス様はロバに乗ってエルサレムの都に入られました。人々は新しい王を迎えるようにシュロの葉を振って迎えたのです。しかしイエス様が来られたのは王座につくためではありませんでした。実は殺されるために入られたのです。永遠の王は、武力や財力によって即位するのではありません。そのような力で得た地位はやがて奪われます。しかしイエス様は全ての人の身代わりとなって死ぬ事によって永遠の王となられたのです。その死は金曜日の夜のことでした、そして日曜の朝に復活という出来事が起こったのです。来週の日曜日には復活の喜びについてお話しますが、復活を本当に喜びとして受け止めるためには、まず十字架で苦しまれたイエス様、土曜日に墓の中に横たえられていたイエス様のことを受け止めなければなりません。十字架に至るイエス様の歩みは、その意味も含めて、既に旧約聖書の預言者たちが預言していました。イザヤの預言を聞いて、その意味をもう一度心に留めましょう。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のようにこの人は主の前に育った。見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。(イザヤ53:2-6)

十字架とよみがえりは切り離すことのできない一連の出来事ですが、私たちの信仰はそのどちらかを忘れたアンバランスな状態になりがちです。それではイエス様の従って歩んでいることにはなりません。前半Aで、その二つのアンバランスの状態を紹介し、後半Bで、健康な信仰を保つための視点を紹介します。


A. 間違った二つの信仰

1) 復活に届かない十字架止まりの信仰

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)

イエス様が十字架に掛けられてしまうと弟子たちは身を隠すように鍵のかかる部屋に閉じこもり恐れていました。十字架止まりの信仰は、喜びのない、力のない信仰です。十字架で罪赦されたけれども、実生活においては力もない、喜びもない、聖書の教えは相変わらず実現不能な高度なものに感じられて、自信なく生きています。自分がイエス様に従って歩んでいるということさえ、周りの殆どの人が知らない人もいます。自分が人生の勝利者だとは到底思えずにいます。それでも、世の光、地の塩として生きなさいと教えられているので、何とかできることをしようと自分の力で努めるのです。その結果はいつも疲れていて、希望がなく、聖書の教えを律法的な道徳のように受け取ってしまい、自分ばかりか周りの人々をも裁いてしまい、キリストの香りを放つことのできない者となってしまいます。それは復活の喜びが心を支配していないからです。この信仰が教会を支配しているなら、そこは暗く重たく冷たく居心地の悪いところになってしまいます。無力、愚かさ、罪深さを悔いているばかりで喜びが沸き上がってこないのです。彼らの魂は、復活という出来事は知っていても、復活された主に出会っていないのです。

 
2) 十字架を忘れた復活信仰

一方で、十字架の苦しみを忘れてしまい、復活の力、いまともに神様がいてくださるということだけを重視して道を踏み外す人々もいます。そのような人々は、「イエス様を信じましょう、クリスチャンになりましょう、教会のメンバーになりましょう、そうすれば神様の力はあなたのものです。あなたは繁栄し、祝福された人生をエンジョイできます。クリスチャンになることや献金をすることは、自分の幸せになるための投資です。」と勧めます。そこにはイエス様が注がれた小さな者たちに対する憐れみの視点はありません。このような人々にとってイエス様は自己実現のための奉仕者にすぎません。 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。

この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように。(ガラテア人への手紙6:14-16)

この信仰が教会を支配するなら、そこは十字架止まりの信仰に比べれば、明るく楽しく、活気に満ちた魅力的なところではあるでしょう。しかし、そこにあるのはイエス様の弟子となって、苦難の中でも愛してゆこうという勧めではありません。イエス様を、お金を入れて恵みを引き出す自動販売機の神々と同じ高さまで引きずりおろしてしまうことになるのです。

 
B. 暗黒の土曜日の意味

十字架の金曜日と復活の日曜日の間に土曜日があります。聖土曜日とか暗黒の土曜日と呼ばれています。それはイエス様が墓の中に横たえられて時です。そしてこの期間が十字架と復活をつないでいるわけです。

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマ人への手紙8:22-25)


1) 十字架と復活の間の土曜日のような世界に生きている私たち

実際にイエス様が墓の中に横たえられていたのは一日半でしたが、私たち自身の救いと体の復活の間、つまりいまこの世界にイエス様に従う者として生きている今は、ちょうどイエス様にとってのあの土曜日のような時を過ごしています。イエス様が来て、解放を宣言してくださったにもかかわらず、世界はまだ悪魔の支配下のあるように見え、暗闇の中にいるように思えます。しかし私たちは信じています。2000年前にイエス様が暗黒の土曜日を経て復活されたように、私たちもまたこの肉体の限界から解放される日が来るのです。真っ暗なトンネルを列車が進んでいる時、誰もその暗闇が続くとは思っていません。トンネルを抜ける時が来ることを確信しています。ここに共にいて下さるイエス様は、暗闇の中でも確実にトンネルの外に向かう線路のように 私たちの軌道となって神の国に向かわせます。だからイエス様はこうおっしゃったのです。

トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(ヨハネ 14:5-7)

 
2)不条理な苦しみの中でも主は共におられる

私達が苦しみながらもキリストにある希望によって救われていることを確信している、この時、イエス様は、天の神さまの右側でそれを見物しているわけではありません。イエス様は物理的にどこかへ帰ったのではなく、栄光を受けて再び神様の高みに上られたということなのです。ですから私たちは世界の外側から私たちを見物しているイエス様を想像すべきではありません。むしろ目に触れないところで、私たちのうめきを知り、支えて下さるイエス様を想像すべきです。それは「死から新しい命へ」という、私たちにとっては自分で越えることのできない深い裂け目を、身を横たえて橋となって、「私を通って死から命に移りなさい」と呼びかけているような、死の床に横たわっているイエス様です。ハンス・ホルベイン (Hans Holbein) という画家がいます。彼は「墓に横たわるキリストの遺体」(The Body of the Dead Christ in the Tomb (and detail, lower) という、このメッセージにぴったりの絵を残しています。 30.5 cm × 200 cm というサイズを聞いただけで衝撃的な絵であることを想像できます。スクリーンに映しださないでおきます。十字架の絵よりはるかに強く、私たちの罪とイエス様の苦しみに直面させられる、と同時に「道である私の上を、神の国に向かって歩いてゆきなさい」という呼びかけが耳に届きそうな絵なのです。暗黒の土曜日にインターネットで検索して自分でご覧になって下さい。実は、私はこの絵の存在を知らずにいましたが、神様は時々不思議な方法で、礼拝メッセージのために思いがけない人を使ってヒントを下さるのです。先々週、東北大震災を神学的にどう受け取るのかというシンポジュームに出席したのですが、最後の講演者は私の神学校時代の学長で、まだまだお元気で今も別の大学に移られて第一線で活躍されている、現役の牧師でもある方なのですが、彼がこの震災を機に私達がなすべきことは、暗黒の土曜日の横たわったキリストを通って終りの日に向かって歩み続けるということを実践し、また伝えることではないかと語って下さったのです。そしてホルベインの絵を、その際に紹介して下さったのです。講演から帰って今日のメッセージノートを確かめたら、(講演は今日のメッセージの100倍難解でしたが)伝えたい内容は同じだったのでびっくりしたのです。 絵画とか神学とかに興味を持てない人のために、1969年の歌を紹介して終ります。それはこのときのイエス様の呼びかけを想像するのにぴったりな歌なのです。

Bridge Over Troubled Water (by Simon & Garfunkel)
When you're weary, feeling small When tears are in your eyes, I will dry them all. I'm on your side When times get rough And friends just can't be found Like a bridge over troubled water I will lay me down
When you're down and out. When you're on the street When evening falls so hard I will comfort you I'll take your part When darkness comes And pain is all around Like a bridge over troubled water I will lay me down

あなたが疲れきって 自分が小さく感じて 涙が目に溢れるとき 私がその涙をすべて拭きとります 私はあなたのそばにいます あなたが辛いとき 友達も見つからないとき 荒れる水の上に掛かる橋のように 私は身を横たえてあなたを向こう岸に渡します

あなたが挫折して 希望を失い 一人で通りをさまよい 辛く寂しい夕暮れを迎えるとき 私があなたを慰めます 私はあなたと共にいます 暗闇が訪れ 苦しみに包まれるとき 荒れる水の上に掛かる橋のように 私は身を横たえてあなたを向こう岸に渡します
 

メッセージのポイント
十字架は悲劇の結末でないのはもちろんですが、復活のための序章でもありません。十字架と復活は世界で最も偉大な出来事の二つの側面なのです。どちらかを忘れてしまうなら、そのような信仰は力を発揮しないばかりか、伝えられた福音とは異なるものになってしまいます。十字架の苦痛を甘んじ、神様に捨てられた状況にまで来て下さった神様は他にはいません。イエス様は十字架の上から世界を見る視座を与えて下さいました。それは、体の完全な贖いを未来の事として期待している私達が、不条理のなくならないこの世界での歩みを続けるために不可欠な視点です。

話し合いのヒント
1) 十字架はあなたにとってどのような意味がありますか?
2) 十字架からの視点とはどのようなものなのですか?