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April 15th, 2012  Vol.19 No.16


神の国に入る資格
 
(マルコによる福音書 10:13-16)


A. 世の基準とは異なる

1) 世の基準:多く持つことが大切(13)

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。

去年の震災の二週間後に、金融関係のブログで少し有名な人が「ソーラーなんて女子供のエネルギー。男は黙って原子力。」とツイートして話題になりました。これを見て私は、二重の反感を覚えました。一つは、こんな時期でさえ次善を考えないで原発を最善とする無神経さ。もうひとつは「男は正しい、女と子供は正しい判断ができない」という偏見です。皆さんはどう感じますか? イースターの前に、イエス様は女性に対する偏見を持たれなかったことをお話ししました。女性蔑視の傾向は全体的には弱まりながらも今も続いています。しかしさらに低く見られているのは子供たちです。子供に配慮することと、子供を甘やかすこととを取り違えている大人が多いので、子供が王子、王女のように扱われる社会にも見えますが、それはほんの少しの裕福な国でのことに過ぎませんし、そのように扱われる子供が幸せなわけでもありません。多くの国で、家の中で寝られない、一日に一回しか食事にありつけない子供がいるのです。このような事態がなかなか改善されないのは、彼らに投資してもリターンは少ないという、極めて単純な理屈です。多く持つこと、たくさん儲けることが良いことなのであれば、強い力を持ち、高い地位にいる人が価値のある人ということになります。 底辺から這い上がって高い地位に就く成功物語が好まれますが、見方を変えれば、底辺に居続けるのは、無能なのか、怠け者なのだから当然という考え方が受け入れられているということです。「イエス様が大切な働きをされているのだから、子供なんか連れてくるな」と言った弟子たちは、今でも、昔でも通用する常識人でした。 しかしイエス様はそうではなかったのです。

 
2) 神の国の基準:欠けを知ることが大切 (14)

しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。

随分前になりますが、「キリスト教は女子供の宗教だ」と言われたことがあります。それは最初に紹介したブロガーと同じ偏見を持った言葉ですが、もっと良い、積極的な意味で「キリスト教は女性や子供の宗教だ」というのは正しいとも言えます。実際、教会には、この社会の常識で言えば一番優れた、成人の男性は少なく、女性や子供が多いのです。それは女性や子供のほうがイエス様に近づきやすい、イエス様の基準により近い、世の中の基準にとらわれやすい男性よりも、神の国に相応しいからです。 男性にしろ、女性にしろ、子供にしろ、自身の弱さ、無力さを受け入れることができない人は神の国にふさわしくないのです。この社会では、強さは自分の弱さを認めないことのようですが、そのような人に限って、ある限界を超えると壊れて立ち上がれなくなってしまいます。しかし真の強さは、自分の弱さを認め、受け入れることができることなのです。弱さを認めたら、その途端に負けてしまうのではないか?それは信頼出来る神様を知らない人のセリフです。神様がいてくださるので強がることはないのです。 おとなになれないまま死んでゆく子供たちの確率が今よりはるかに高かった時代です。親たちも自分はともかく、子供たちがイエス様に祝福される必要があることをよく知っていました。だからイエス様に手をおいてもらおうと子供を連れて来たのです。 自分の欠けを認め、満たすことのできる方に頼るのが人生の正しい態度です。それは地上の常識ではありませんが、神の国の常識です。

 
B. 子供のようにとは? (15,16)

はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

1) 子供のような弱さ

この箇所で、イエス様が子供をどう見ているかがわかります。「神の国はこのような者たちのものである。」。子供たちと正反対な存在が当時の宗教指導者たちでした。律法を守ることのできない貧しい人々、女性、子供を汚れた者と軽蔑し、自分たちを聖い者と誇っていましたが、イエス様の目から見れば最も神の国に遠い者たちでした。 「子供のように」という表現で連想しやすいのは、純粋無垢で罪のないといった言葉ですが、それはあまりにもナイーヴな見方です。生まれれば程なく、この世の知恵を発揮してうまく立ち回ろうとする、歳相応の狡猾さは備えています。自分の望みを叶えるためには誰が一番弱いかを知っています。人は年を重ねて罪人になるのではなく、罪人として生まれたのです。ヤコブの誕生を伝える創世記25章18-34を読めば、聖書はそれをよく知っていた事がわかります。ヤコブは兄エサウと比べると外で元気に遊ぶより家の中にいることの好きな子だったようです。この双子が生まれる時ヤコブは先にとり出されたエサウのかかと(アケブ)をつかんで出てきたので、それでヤコブと名付けられました。なんとか先に出たかったのです。それは長男の特権に比べれば次男はないに等しいものだったからです。ヤコブは結局、長子の権利も、イサクによる祝福の祈りも、エサウを出しぬいて受け取ってしまいます。そしてこのヤコブの子らがイスラエルの12部族の創始者となったのです。神様はなんでこんなヤコブを選んだのでしょうか?自分の弱さを知っていて神様の祝福を必死に求めたからです。エサウは悪い人ではなかったかもしれませんが、思い通りに振舞うことができていたので、神様の祝福を求めることに真剣ではありませんでした。それが結局、創世記25章23節の通りの結果につながったのです

 
2) 子供のような信頼

自分が弱い、完全ではないと知るなら、完全な、信頼に足る誰かに頼らなければいきてゆくことはできません。ヤコブは、自分の弱さを知っていました。だから、神様の祝福を強く求めたのです。それが人には小心でずる賢く見えますが、神様の目にはエサウより神の国に近い人と認められたのです。 自分の弱さを知ることは、神様を信頼して生きることにつながります。神様に100%の信頼を置けるならどれほど気の楽な人生を歩めるでしょう。けれども私たちの「神様に頼らず好きに生きたい」という罪の性質がつい顔を出し、自分の手で色々画策し、結局、窮地に陥ることになります。子供は悪知恵があり、罪のない存在ではありませんが信頼という点では大人より優れています。大人がその点で乏しいのは、人間関係で痛い目にあう経験を重ねるからです。しかし神様を信頼するなら決して裏切られることはありません。  子供たちが小さかった時のことです。子供が飛び降りるのを私がキャッチするという遊びをしました、上の子より一歳半ちいさい下の子は、何の恐れもなく勢いよく何度もダイブして来るのですが、一年半分知恵をつけた上の子は、もし私が受け取りそこねたらなどと考えて恐ろしくなり結局飛ぶことができませんでした。もちろんこの世の知恵は必要です。盲目的に信じなさいといっているわけではありません。しかし世の知恵は、神様を信頼する時に邪魔になることもあるのです。神様を信頼する時、人にするように、もし裏切られたらと心配する必要は全くありません。私がその証人です。それだけではない、2000年の間に、この世界に生きたすべてのイエス様に従って新しく生まれ変わり、天に移された数えきれないほど多くの人がその証人です。

メッセージのポイント
子供はその親にとってはいとおしい存在ですが、社会の中では軽視されがちな存在です。子供は大人のようには出来ない、持っていない。体力、知力、経済力、あらゆる面で大人の助けを必要とする存在です。イエス様は神の国がこのような者たちのものであると言われます。子供は自分たちが弱いことも、けれども無条件で愛されていることも知っているので、助けの手が差し伸ばされれば素直にその手を取るでしょう。しかし危機を自覚しない大人は、神様が手を差し出されても、様々な思いが邪魔をして神様に助けを求めようとしません。

話し合いのヒント
1) 弟子たちはなぜ子供たちを連れてきた人々を叱ったのでしょうか?
2) 子供のように神の国を受け入れるとはどのようなことですか?