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April 22nd, 2012  Vol.19 No.17


永遠の命を得る
 
(マルコによる福音書 10:17-31)


A. 正しい人、優れた人、豊かな人には難しい

1) あなたの持っているものは?(17-20)

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。(17-20)

ここに登場する人の態度は、よく話題となる律法学者やファリサイ派の人々とは違い、まじめにイエス様から教えてもらいたくて尋ねています。イエス様は旅に出かけようとしているところですが、いま聞いておかなければ、チャンスがないかもしれないという真剣な態度です。ユダヤ人は、この世の命が終えたあと二つの可能性があることを知っていました。ダニエル書の12章2節にそれが書かれています。一つは「ある者は永遠の生命に、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」とあります。彼は前者の道に進みたくて、またイエス様がそれを知っていると信じて尋ねたのです。イエス様を捉える口実を得るために質問してきた人々とは異なる「正しい」人でした。またもう少し後を読むとわかりますが「裕福な」人で、話しぶりからは教養のある「優れた」人のようです。しかしイエス様はこの人の問題を、すぐに見抜かれました。まずイエス様を「善い先生」と呼んだ彼の根本的な考え方の中に、神様中心ではなく人間中心の価値観があると感付かれたのです。人間である善い先生から、善い話を聞き、善い人になろうという考え方です。皆さんはこの考え方をどう思いますか?それほど悪いことではないのでは?と思われますか?そうですね、それは今の社会でもそれほど間違ってはいない、むしろ努力して向上を図る勤勉な善い考えだとされているのです。しかしこの考えは神様からの視点で言うなら、永遠の命を得るため、という観点で言うなら根本的な欠陥があるのです。それは何だと思いますか?今日最後にその答を言いますが、皆さんはきっと聞くうちに気付かれると思います。イエス様は、この人が自分の問題に気付くように具体的に問い返されました。「あなたは十戒を知っているはずだ」 彼はイエス様の思っている通りの答えをしたのでしょう。「そんな基本的なことは、私は子供の頃から守っています」少しむっとして答えたのではないでしょうか?彼にとっては、そんな子供でも知っている基本的なことではなく、高度な教えを期待していたのです。彼は十戒を守っていると自負していました。それは律法学者やファリサイ派の人々を納得させるレベルであって、神様のレベルからは十分ではなかったのです。本気で十戒を完璧に守ろうとするなら、それは人間には不可能だと知るでしょう。だから、律法の専門家たちは、財産と時間と教養があれば何とか守れるような抜け道を考え「こうすれば守ったことになる」という参考書を作ってそれでよしとしたのです。ここでイエス様に質問した人は直感的に、律法を、宗教家を満足させるように守っても永遠の命は得られない、と感じていたのです。けれどもイエス様の答えは彼の想像を超えていました。21,23節を読みましょう。

 
2) あなたに欠けているものは? (21,22)

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(21,22)

この人は自分が完全に近いと思っていましたが、自分では気付いていない、永遠の命を得られない決定的な問題がありました。それは神様に頼らず、財産に頼っていたということです。持っているものの多寡が問題ではないのです。あなたが持っていて、手放したくないと思っているものが、イエス様とあなたとの間の障害物となる可能性があるのです。「私はたいていの言いつけは守っています。けれども、この事だけは譲れません。イエス様、あなたにもです。」 もしそういうものがあなたにもあるなら、あなたは、いくらイエス様に従って歩んでいるといっても、実際は悲しみながら去っていった人と同様にイエス様から離れてしまっています。

 
B. 自分の力、資格、善行で得られる人はいない

1) 人間にできることではないが、神にはできる (23-27)

イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」(23-27)

弟子たちはこの言葉に驚きました。当時律法を満足に守ることが出来る人は財産を持っている階層の人々だったからです。そして律法を守ることが永遠の命に至ることだと考えられていたからです。ところがこの当時の社会の常識をイエス様は完全に覆されたのです。財産があればあるほど、それに頼って、神様に頼ることを忘れがちです。それはお金だけではありません。少しでも人が羨むような才能や素養があるとそれを頼りに歩みます。増えることを望み、減ることを惜しみます。弟子たちも気づきます、それではお金持ちだけでなく、自分たちだって、そんな資格はないだろう、と。その通りなのです。私たちの誰もが、自分の力で永遠の命を得ることなどできないのです。けれどもイエス様は希望のある言葉を付け加えられます。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」 つまり、自分に頼ることではなく神様に頼ることすなわち「信仰」を持つことだけが、永遠の命を持つための唯一のことなのです。

 
2) 何もかも捨ててイエス様に従うとは?(28-31)

ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(28-31)

弟子たちはちょっと得意になりました。あの金持ちは悲しんで帰っていったが自分たちは、何もかも捨ててイエス様についてこられたんだ。確かに家業を継ぐことや、自分の仕事をやめてイエス様に従ったかもしれませんが、実際には何もかも捨てることができていたわけではありません。イエス様が政権についた暁には、相応の地位を期待していました。イエス様が十字架にかけられ、それが叶わないとわかった途端に、あの人と私は関係ないと逃げました。だから人間にはできないが、神様には出来るとイエス様はおっしゃるのです。 ここのイエス様の言葉を、文字のままで受け止めるなら、家出し、離婚し、子供を勘当し、持ち物をすべて処分して、換金し献金しなさいということになってしまいます。これでは恐ろしい洗脳カルト宗教です。イエス様はそのよう意味でおっしゃっているのではありません。だいたい私たちは、何も自分の命の長さ以上に持ち続けることはできないのです。その命ですら、自分の思いのままにはなりません。 それでは私たちは、このイエス様の言葉にどう答えれば良いのでしょう。ある人がイエス様に従って人生を歩んでゆきたいと決心したあとで見た夢を見たとしましょう。夢でイエス様は言いました。「私に従ってきたいのですか?」「はいそうです」「私に従ってきたいのなら、ボーリングをやめてもらえますか?」その人の趣味だったのです。でも、イエス様と一緒にいるのが楽しくて以前ほど夢中ではなかったので「はい」と答えると、次に「あなたの持っている一番暖かいコートを私にくれますか?」と問われました。「もちろんです、イエス様、あなたが寒いなら喜んで」イエス様はさらに続けます「あなたの自動車を私にくれますか?」と問われました。「不便になるかもしれないけれど、なんとかなるでしょう。はい」ところがイエス様の要求は更にエスカレートして「あなたの家」「あなたの家族」「あなたの命」その人は悩み悲しみながら、それでも思い切って「はい」と答えたのです。(夢でなければ、そういえなかったかもしれませんね) すべての質問を終えた時、イエス様はおっしゃいました。「それらは確かに全て私のものです。しかし今はあなたに預けます。今までどおり自由に使いなさい。あなたに不要になり、私に必要になった時には返してもらいます。死ぬまで持ち続けられるものはそれほど多くはありません。しかし神様は取り去られる時には、あなたが、それがなくてもやっていけるように備えをして下さいます。あなたはそう信じられますか?それが神様に対する信頼、信仰というものです。最初にお話ししたあの人には、それが欠けていたのです。イエス様を信頼しましょう、従ってゆきましょう。そうするなら、恵みと憐れみによって、永遠の命はあなたのものです。

 
メッセージのポイント
永遠の命とは、不老不死という事ではありません。私たちの魂が、私たちを造られた神様との正常な関係の中で平安・幸福であることを意味しています。それは肉体を失った後でも失われることのない完全なものなので「永遠」と呼ばれるのです。命の本質は肉体の健康ではなく、魂の健康なのです。永遠の命は神様が与えて下さるものです。人が自力で獲得できるものではありません。むしろ、自力で得た(あるいは得たと思い込んでいる)ものが多ければ多いほど、それらを惜しむあまりに永遠の命を得ることが難しくなってしまいます。神様は御自身に頼らなければ、本当の幸せが無いことを教えてくださっているのですが、多くの人は神様への信頼ではなく他のものに対する信頼によって幸せを得ようと考えますが、実はその考えこそが幸せを得られない原因なのです。

話し合いのヒント
1) 永遠の命とは何ですか?
2) 何もかも捨てて従うとは?