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April 29th, 2012  Vol.19 No.18

逆立ちして考えよう 
(マルコによる福音書 10:32-45)


A. 栄光について

1) 再び死と復活が予告される (32-34)

一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」(32-34)

私たちは、イエスキリストの復活を祝ったばかりですが、今日のテキストは十字架と復活の出来事がおこる一週前、ちょうどエルサレムに向かってゆく途中での出来事です。エルサレムに近づけば、どんな妨害が待っているかわからない。待ち伏せをされて襲われるかもしれない。それなのにイエス様は先頭にたって躊躇なくどんどん進んで行かれるのを見て「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」のです。イエス様がエルサレムで起こる出来事を弟子たちに予告されたのはこれで三回目のことです (8:31,9:31)。弟子たちの心の中は、これから起こるであろう、恐ろしい出来事の予感と、同時に誤ったメシア像に基づく期待が入り交じっていました。つかまって殺されてしまうということと、王としての栄光を受けるということは彼らにとっては相容れない矛盾です。イエス様は、ここでもう一度、しかも前の二回より、具体的に詳しく告げたので、雰囲気は更に重苦しいものとなってゆきました。

 
2) イエス様の杯を飲むとは(35-40)

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」 (35-40)

イエス様が、率直にこれから起こるであろう、恐ろしい出来事を伝えた直後のことです。重苦しい恐れの中でさえ、ヤコブとヨハネは自分たちの地位が上がることアピールすることを忘れませんでした。ほかの弟子たちも同じような気持ちを持っていたことは後の部分でわかります。二人ほど図々しくはなかっただけです。私達も同じです。それは誰もが持っている罪の性質の一つなのです。しかしイエス様と共に尊敬されることを求めるなら、イエス様の受ける苦難を共にすることを求めるということです。イエス様がここで言われる杯、洗礼とは、そのような苦難としを指していました。もちろんヤコブとヨハネにはその真意がわかりません。ただ地位を得たい一心で「できます」と応えるのです。しかしイエス様は、彼らが十字架の出来事にあっては逃げ出してしまう彼らが、復活の主に出会った後には、実際にそのような死を選びとることを知っていました。だから「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」と言われたのですが、この時点では彼らにとっては全く心に引っかからない言葉でした。 イエス様の言葉には続きがあります。たとえ殉教の死を遂げたとしても、他の誰よりもイエス様の近くにおかせて下さいと求める権利は誰にもないのだとおっしゃるのです。「それは神様のお決めになることです。」 私達は皆このイエス様の言葉を受け入れなければなりません。これは、努力をしないこと、考えないことを意味するのではありません。ベストを尽くした上で、しかし不本意な結果を受け入れることになっても、心安らかでいられることを意味しています。

 
B. 目指すべき自分の姿について

1) 全ての人の僕 (41-44)

ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 (41-44)

12人は決して素晴らしいティームではありませんでした。いつも互いの地位を気にしていました。一番の弟子を自認していたペトロが一番腹を立てていたのではないでしょうか?これはヤコブとヨハネだけの問題ではありません、全ての弟子、そして実は、全ての人に共通する問題です。だからイエス様は弟子たち全員を集めてこのように語られたのです。 神の国の権力の在り方はこの社会とは全く異なるのです。イエス様に従って歩みたいと思うなら、この世の価値観ではなく、神の国の価値観を持つ必要があります 仕える者になりなさい。僕となりなさい。イエス様が私達に求めておられることは、「偉くなりなさい、人の上に立ちなさい、人を使う者になりなさい」ではありません。イエス様はあなたに「仕える者になりなさい」と命じておられます。だから私たちは、「神様に仕え、互いに仕え合い、世界に仕える」ことを行動の原理としているのです。 そこには明確なお手本があります。45節を読みましょう。

 
2) イエス・キリストのように (45)

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」 (45)

私たちは、このイエス様を、私の主、私の神と信じ従っているのです。人の頭で考えられ、手で作られた神々は、黄金や大理石で豪華に作られた神殿で、人が仕えることを要求します。そして寄付や献金に応じて利益を与えると信じられているのです。しかし聖書が教えられているとおり、本当の神は、人の作った神殿に閉じ込められてはいません。献金の額に応じて、恵みを小出しに与えるようなケチな方ではないのです。逆立ちして考えましょう!イエス様はただ従ってくることを求められます。彼のように、仕え、愛することを求められます。気前よく与えていたら、仕えていたらなくなってしまうと心配になりますか?この心配に対するもっとも適切な答えはマタイによる福音書6:31-33に記されています。

だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

 
メッセージのポイント
イエス様の価値観は、この社会の価値観とは正反対に見えます。この社会の価値観を常識というなら、イエス様は非常識です。一番になること、大きくなること、名声を得ることを目指す、それが世界の常識です。しかしそれらを目的にするから人はいつまでたっても幸せを得られません。平和にもなりません。イエス様の弟子になるということは、逆立ちして考えなければ得られないような、大きな発想の転換をするということでもあります。しかし本当は社会が逆立ちをしているのであって、イエス様のように考えることこそ、無理のない自然な考え方なのです。

話し合いのヒント
1) 弟子たちの求める栄光とイエス様の与える栄光の違いは?  
  2) イエス様は何のためにこの世界にこられたのですか?