<MP3 音声>

<ビデオ>


May 6th, 2012  Vol.19 No.19


あなたの信仰があなたを救う
 
(マルコによる福音書 10:46-52)


今日のテキストは、バルティマイという盲人の物乞いとイエス様の対話です。道端に座って、人々の憐れみにすがって生きるしかなかったバルティマイが、この短い対話の後にどのように変えられたかを学ぶことによって、私たちの信仰もより強いものとしていただけます。まず全体を読んでみましょう。

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。 盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。


バルティマイに学ぼう(1) - 叫んで求めた (46,47)

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。

イエス様の一行は、エルサレムに向かう自分の前を通り過ぎようとしていました。弟子たちだけではなく、群衆もついて行こうとしていたので、目は見えなくてもナザレのイエスの名を彼らから耳にしたのでしょう。このときイエス様はもうバルティマイの前を行き過ぎて先の方に進んでおられたのだと思います。でもイエス様を呼び求めずにはいられなかったのです。この方なら私の人生を変えられるかもしれない、と思ったからです。人々によって、生命を維持するだけの助けは得ていたのです。けれども彼は変えられることを望みました。現状を維持することに満足していたなら叫び求めたりはしません。あなたは自分の現状に満足していますか?イエス様に憐れんで頂く必要はないと思いますか?

 

バルティマイに学ぼう(2) - 周りに叱られても諦めなかった (48)

多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。


彼はイエス様なら変えていただける、自分にはイエス様の助けが必要だと確信したので、多くの人が彼を叱っても諦めなかったのです。人々は出発したばかりのイエス様を煩わせたくなかったのでしょうし、また当時の社会では神様から見放されたと考えられていたバルティマイのような人にイエス様が関心をとは思っても見なかったので黙らせようとしたのでしょう。しかしバルティマイにとってはこのチャンスを逃すわけにはいきません。どんな妨害にあっても叫び続ければイエス様の耳に届くかもしれません。彼は諦めませんでした。あなたにとって、イエス様に叫び求めることを躊躇させるものは何ですか?周りに叱る人がいなくても、私たち自身の心の中にはイエス様に叫び求めることを止めようとするブレーキが色々と存在します。憐れんで下さいと心から言えない自尊心、周りの目を気にすること、イエス様を信じて従ってゆきたいという願いと、それをとどめようとするものとがあなたの心の中で共存しているならバルティマイのように叫び続けることです。イエス様は必ず応えて下さいます。49節を読んでみましょう

 

イエス様の応答 (1) - 呼び出した (49)

イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」

イエス様はそのまま行ってしまいませんでした。そして、近くに来るようにと伝えました。イエス様は何も言わなくても、望みさえしなくても近づいてきてくださることもありました。しかし多くの場合バルティマイのように「来る」という行動を求められるのです。イエス様は私達にも私のところに来なさいと言われます。まだイエス様を主と信じていない方は誰かに誘われてここにいてくださるのだと思いますが、その誰かはイエス様にあなたを呼んで来なさいと命じられたからなのです。しかしイエス様は、既に信じて従っている人にも来なさいと命じられるときがあります。それは自分でも気が付かないうちにイエス様からの距離ができて、イエス様の言葉を聞けなくなっている状態に陥ることがあるからです。さてバルティマイはその言葉にどう応えたのでしょうか?50節に注目しましょう

 

バルティマイに学ぼう(3) - 躍り上がってイエス様のところに来た(50)

盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。

イエス様が私のために立ち止まり、私を呼んで下さった。バルティマイは上着を脱ぎ捨てて躍り上がるくらい嬉しかったのです。そしてイエス様の前に進み出ました。 私たちは、バルティマイと同じようにイエス様の助けが必要なのに、なかなかバルティマイのように切実になることができません。日本語では、イエス様に従う人々の集まりを教える会、教わる会と書く「教会」と訳されています。しかし原語のニュアンスからは違ってしまっています。ギリシャ語のエクレシアは「呼び出された者たちの集まり」という意味なのです。そして呼び出されているということほど、人生の中で喜ばしいことはありません。呼び出されたと知って立ち上がり、近づくことが新しいことが始まる第一歩なのです。なぜ私たちは、日曜ごとにここに集まるのでしょうか?クリスチャンは日曜礼拝を守らなければいけないからですか?それは律法学者の信仰であってバルティマイの信仰ではありません。イエス様はどちらの信仰を喜ばれるでしょうか?私たちも、イエス様の名前で集まる時、彼のような期待をもって集まりましょう。そうすればイエス様は、さらに新しい恵みを見せてくださるでしょう。次の51節は、やってきたバルティマイに対するイエス様の言葉とそれに対するバルティマイの言葉です。

 
イエス様の応答 (2) - 願いを尋ねた (51a)

イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。

イエス様は、バルティマイの願いを聞かなくてもわかっていたはずです。それなのに、こんなふうに聞くのは意地悪にも思えます。しかしイエス様は、自分の願いを、はっきりと言葉にして口に出すことを求められます。だから私たちは祈るのです。祈るのは神様に自分の必要を教えてあげるわけではありません。神様にはそんな必要はないのです。神様に思いを伝えようとする態度が必要なのです。私たちは心の願いを祈り、どのような形で神様が答えて下さったのかを経験していくうちに、神様の意思をより正確に知ることができるようになるからです。さてバルティマイはどう答えましたか?51節後半です。

 
バルティマイに学ぼう(4) - 願いを率直に述べた (51b)

盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。

見たいです!あなたの願いも「見たいです」ではありませんか?真実を、本当の愛を、イエス様を。見るべき大切なものが自分には見えていない。自分の前に現実とはなっていないことを「見たいです!」と願いましょう。イエス様は応えて下さいます。52節です。

 
イエス様の応答 (3) - 命じた (52a)

そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

行きなさい?確かにバルティマイの今まで読んできた行動は癒されるに相応しいものですが、「まだ癒されていないんですけど?」 行くんですか? わたしたちはここから、願いを述べたら、次にすることは願いがかなうことをじっと待っているのではなく、自分で一歩を踏み出すのだということを学びます。イエス様はただ行けと命じられます。イエス様が命じたのは「これからエルサレムに行くのでついて来なさい」ではありませんでした。踏み出す方向は自分で決断しなければなりません。この言葉の後、すぐに彼の目は開かれました。52節後半です。

 
バルティマイに学ぼう(5) - イエス様についていった (52b)

盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

今日最後に取り上げるバルティマイのアクションです。「行け」と命じられたのに彼はついてきてしまいました。しかしイエス様はそれに対して「来いではく、行けといったのです」とは言われませんでした。自分の意志で、エルサレムに向かうイエス様に従ってゆくことにした彼の決断をイエス様は尊重されます。私たちも、自分にとって主に従ってゆくとはどういうことなのか?を意識しながら、すぐこれからすることも、明日のことも、一年先のことも、二三年先、十年計画も、生涯の方向性も、イエス様との出会いや会話(祈ること、聖書を読むこと、礼拝や集まりで聞いたり話したり歌ったりすることで起こることです)をとおして、思いを巡らしたり、計画を立てたり、時には大きな決断をしてゆくのです。

 
メッセージのポイント
イエス様を神/主と信じ、導き守られていることを信頼し、行動することが信仰です。この信仰が私達にとって一番のエネルギー源なのです。バルティマイは病の癒しを、このような「信仰」をもって願いました。イエス様はこのような信仰に応えて下さいます。イエス様の応答は、リクエストに答えて下さることにとどまらず、「行きなさい」という命令に行き着くのです。今度は私達がイエス様に応答する番です。

話し合いのヒント
1) なぜ周りの人はバルティマイを叱ったのでしょうか?
2) 信仰が人を救うとはどのようなことなのでしょうか?