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May 27th, 2012  Vol.19 No.22

聖霊に満たされることを求めよう
(使徒言行録1,2章より)


A. 教会は聖霊に満たされることから始まった。

1) エルサレムを離れず約束されていた聖霊を待ちなさい (1:3-5, ヨハネ14:16-19)

イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

この日曜日はキリスト教会のカレンダーではペンテコステと呼ばれる特別な日曜日です。クリスマスはイエス様の誕生日ですが、ペンテコステは教会の誕生日です。十字架にかかり死んで葬られ、復活されたイエス様は40日にわたって、その復活の姿を現されましたが、ついにその姿は見えなくなりました。その時イエス様は、「さあ、全ての民を弟子にする働き:教会を始めなさい」とは言われず。「父の約束されたものを待ちなさい」とおっしゃったのです。それはイエス様の十字架以前の地上の歩みの中で予告されていたことでした。

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。

これらの記録から聖霊に満たされるということが、私たちの働きに不可欠であることが良く分かります。使徒言行録では、この出来事の後で主に従い始めた人が、先に信じた人に手をおいてもらい聖霊を受けていることが記録されています。教会の中には、このようなことは使徒言行録の時代だけに起こった事だという見解を持つ人も多いのですが、私たちは、今でも聖霊を受ける、聖霊に満たされるということの必要を信じています。

 
2) 耳に聞こえ、目に見えて聖霊は下られた (2:1-4)

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

それはとても不思議な出来事でした。五旬祭(過越から50日目の祭りという意味のギリシャ語からペンテコステと言われています。キリスト教を理性的な教えだと思いたい人は、こんな神秘的ないかがわしいことからは目を背けたいと考えます。聖書から、自分たちが理解できないことは全て、信じないでいい部分として、カッコに入れてしまい、力ある福音を平凡な道徳に、イエス様を力ある神から道徳の先生に引き下ろしてしまいました。しかしここに書いてある通り、それは誰かの心理的錯覚ではなく、多くの人の視覚や聴覚に同時に届いた実際に出来事だったのです。

 
B. この出来事の意味

1) 預言の成就 (ヨエル書Joel 2:27-29)

イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。わたしの民は、とこしえに恥を受けることはない。その後わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ

この出来事はイエス様が予告されていただけではなく、もっとずっと昔に預言されていたことでした。それはヨエルというイエス様が地上に来られる##年前に活動していた預言者によって語られました。それは特定の祭司、預言者ではなくごく普通の人々が神様の霊を注がれ、霊の賜物を与えられ預言をしたり、特別なヴィジョンを与えられたりして、神様の働きを担う時が来るという預言です。それがこのペンテコステの日に成就したのです。それは私達みんなが、牧師・宣教師・リーダーの働きの応援団、ましてやお客さんなのではなく、老若男女全てが、神様から派遣されたものとして、聖霊の力で教会の働きを担うということです。この意味で私は「皆さん自身がそれぞれの遣わされた場において牧師です」と励ますのです。

 
2) 教会の誕生 (2:41-47)

ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

このように聖霊が人々に下り、教会は始まりました。民衆全体から好意を寄せられていました。けれども人間の組織としての教会は、すぐに堕落が始まります。神様は、そのたびに聖霊に満たされた人々を用いて教会を刷新されました。教会史は堕落と刷新の繰り返しです。目に見えるひとつひとつの教会も、私たち個人も同じように成長と停滞を繰り返します。ですから私たちにも、最初に人々を力強く押し出した聖霊の力に満たされる必要があるのです。しかし聖霊に満たされるということについて教会内で見解は一致していません。先に触れたよううに、聖霊の満たしは使徒言行録の時代だけのことで、今は求めるべきではない、という考えもあれば、聖霊に満たされるということは理念として求めても、しるしや不思議、奇蹟を期待してはいけないと教える人もいます。またある人々は逆に、しるし、不思議、奇蹟を求めることに重点を置きすぎ、異言や、預言を語ることを信仰の中心テーマのように教えます。私達は、そのどれもが誤りであると考えます。私たちはこう信じます。神様の霊でありイエスキリストの霊である聖霊に満たされなければ、与えられている務めを果たすことができないのです。聖霊による力、聖霊による知恵で活動しているのでなければ教会ではなく、人の集まりに過ぎません。教会の目的は一人でも多くの人をイエス・キリストとの関係に導き入れることです。私たちは、この働きのために、一人一人が聖霊に満たされ、自分に与えられた賜物を活かすことを願います。聖霊の賜物は、胸につけて誇るための勲章ではなく、働く人に必要な道具です。あなたがイエス様の弟子として、もっと愛深く、力強く、賢く仕えたいと願うなら、聖霊に満たされる事を求めましょう。それは一人で祈っている時でも、ミニチャーチでも求めることができますが、このあとのワーシップタイムは、多くの人が求め、応えられてきたよい機会です。期待して求めましょう。

 
メッセージのポイント
イエス様は、弟子たちがその働きを始める前に、聖霊に満たされることを待たせました。私たちは、神様の霊でありイエスキリストの霊である聖霊に満たされなければ、与えられている務めを果たすことができないのです。聖霊による力、聖霊による知恵で活動しているのでなければ教会ではなく、人の集まりに過ぎません。教会は二つの極端に気をつけなければなりません。一つは聖霊の働きを無視すること。もう一つは逆に、しるし、不思議、奇蹟を求めることに重点を置きすぎることです。私達の目的は一人でも多くの人をイエス・キリストとの関係に導き入れることです。聖霊の賜物は、胸につけて誇るための勲章ではなく、働く人に必要な道具です。

話し合いのために
1) なぜ聖霊に満たされるべきなのですか?
2) 最初の教会の特長は?