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June 10th, 2012 Vol.19 No.24

罪とは?救いとは?
(マルコによる福音書 12:1-12)

A. 罪に支配されてきた過去

1) 世界は誰のものかを忘れた罪 (1)

先週お話しした、イエス様と宗教家たちの問答を憶えていますか?宗教家たちはイエス様に質問して捕らえる口実を得ようとしたのに、反対にイエス様からの質問に困って「分からない」と答え、もう何も言えなくなってしまいました。そこで今度はイエス様が、その場で彼らに語りかけました。

イエスは、たとえで彼らに話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、これを農夫たちに貸して旅に出た。

ストレートに言い直しましょう。「神様は世界のすべてを丁寧に作り上げ、それを人間が正しく管理するように命じて委ねられました。」 この事は創世記一章の要約ともいえます。しかし私たち人間はこの世界を委ねられたものとしてではなく、所有者として、しかもそれをだめにしてしまうような愚かな所有者のように振る舞っています。この世界が神様のものであることを忘れ、自分たちの欲望に任せて振る舞ってきました。力ある者が神様からの恵みである資源を独占して富を蓄える一方、最も底辺では、生まれたばかりの赤ちゃんが、飢えて死ぬしかない環境に置かれています。水を汚し、空気を汚し、動物や植物を滅ぼしてきました。それは今に始まったことではなく、神様がこの世界の管理を私達に任せた次の瞬間から始まった不幸な状態です。私たちは、その結果生じた悲惨を「罪深いことだ」といいますが、罪の原点は、自分の立場を忘れていることなのです。被造物なのに、創造者に従わず、自分が神様のように振る舞うこと。それが、罪の本質だと聖書は一貫して教えています。私たちが「罪深いこと」と感じているのは、この本質的な罪の結果なのです。続きを読んでみましょう。

 
2) 神様からのメッセンジャーを無視する罪 (2-5)

収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。

旧約聖書は、神様に逆らい続けてきた私たちの罪の歴史の一例です。神様は、自分たちを主人のようにみなして、本当の主人である神様に背を向けることによって、悪循環を続け滅びてゆく民に、御自身に立ち帰るように何人もの使いを送って来ました。それが旧約聖書の預言者たちです。けれどもイスラエルは、耳を貸さずついに完全に滅ぼされてしまいます。イエス様の時代にはかろうじて、ローマの属国として存在していましたが、やがて完全に滅びてユダヤ人は世界中に散らされることになるのです。  神様が様々な人々を通して警告されたのはイスラエルだけではありません。世界史の中で、どの国においても、神様は様々な人を用いて警告を与えて下さってきました。けれども、そのような良心的な声は、やはりどの国においてもかき消されがちなものです。私たちの、すべての主としての神様を認めない原罪は、今でも様々な悲惨を生み続けています。救いはどこにあるのでしょうか?望みはどこにあるのでしょうか?

 
B. 救いの始まり

1) 御自身についての譬え話的預言 (6-9)

まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』 そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない

神様はそれでも私たちをお見捨てにならなかった。それがこの世界にイエス・キリストとして来て下さったことによってわかります。ここでイエス様は、御自身について、農場主の息子に譬えて、この数日後に起こることを暗示しています。実際に起った出来事は皆さんも御存知のように、捕らえられ十字架にかけられて処刑されるということでした。その後イスラエルは、実際この地を追われることになります。イエス様を処刑することによってその地位を守れるはずだった宗教指導者たちはついに国が滅びることに伴い真の神様の祭司の地位を奪われるのです。イエス様の復活の出来事は否定してもしきれず、かえって世界中に広がってゆきました。神様は御自身の祭司として、十字架にかかり復活したイエスキリストを信じ、彼に従う者たちにその地位を与えたのです。この復活について次の部分を読んで考えてみましょう。

 
2) しかし神の国は始まっている(10-12)

聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」彼らは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

イエス様が引用したのは、詩編118:22,23です。ここに国家を超えた新しいイスラエル。旧約聖書では完結しない新しい教えの登場が預言されています。アブラハムはすべての民の父と呼ばれるはずでしたが、イエス様が来られるまではそれは実現しませんでした。エルサレムはすべての民の祈りの家となるはずでしたが、実際には、ほとんど一民族宗教の域を超えることは出来ませんでした。十分に弱いもの小さいものの見方になることは出来ませんでした。そして堕落は、神様の許容範囲を超えたのです。最後に送られたイエス様までが殺されてしまいましたが、死はイエス様を任すことができませんでした。「復活」です。イスラエルの人が期待していた神の国は、始まっているのです。そしていまや、地域や国や地位、身分とは関係なく、ただイエスキリストに従う者なら誰でも、神の国の民とされるのです。

 
メッセージのポイント
イエス様は、世界の初めから現在に至るまでの、人間の根本的な罪の本質を誰にでもわかる易しい譬え話で語られました。それは一言で言えば「神様の主権を認めない」ということです。イエス様が来られる前にも何度も改めるチャンスはありましたが、私たちは聞き入れませんでした。最後のチャンスとして、ご自身が一人の人間としてこられても、当時の人々は、ごく一部の弟子たちを除いて従うことができませんでした。そして、十字架にかけてしまったのです。十字架の上では罪が勝利したかのように見えましたが、そうではなかったことが三日目に明らかになりました。今、最初の弟子たちに続いて、それよりもはるかに多くの従う者たちが、勝利者とともに神の国の完成目指して働き続けています。

 
話し合いのために
1) なぜ農夫たちは主人の下僕や息子を殺してしまったのでしょう?
2) このたとえには希望がないように見えますが、どこに希望を見いだせるのですか?