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June 24th, 2012 Vol.19 No.26

聖書と神の力を知ろう
(マルコによる福音書 12:18-27)

A. サドカイ派とその考え方(18-23)

復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」(18-23)

1) サドカイ派

先週、ファリサイ派とヘロデ派のことをお話しましたが、今日登場するのは、イエス様に敵対するもう一つのグループ、サドカイ派です。彼らは伝統的に祭司の職を担って来た裕福な貴族的階級の人々でした。イエス様が生まれる約60年前にイスラエルがローマに占領されるまでは、政治的にも宗教的にも支配的地位にありましたが、ローマとローマに協力的なヘロデ王家に政治的な権力を奪われてからも、宗教的な権威としては大きな力を持っていたのです。しかし紀元70年に、彼らの拠点であった神殿がローマによって破壊されたことによって、彼らは完全にその地位を失うことになります。

2) サドカイ派の信仰

彼らは、旧約聖書の最初の五書(モーセ五書)だけを守るべき律法と考えていたので、五書以降の思想には否定的でした。そこがファリサイ派と対立するところで、死者の復活や天使の存在を認めていませんでした。またローマに対しては、神殿での宗教活動さえ認めてくれれば、占領に協力するというスタンスでした。宗教界の代表的な勢力でしたが、人々の心を慰め、励ます宗教本来の在り方から離れ、儀式、伝統を守る事に専念していたのです。

 
B. イエス様の反論(24-27)

イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」(24-27)

1) 旧約聖書は復活を教えている

彼らのこの質問は、もともと死者の復活を主張するファリサイ派を困らせるために考えられた質問です。生涯、七人の夫を持った女性は、七人みんな復活したら、誰の夫人となるのか?という質問に対して、イエス様は質問自体が間違っていると教えられます。死者の中から復活する時、夫婦の在り方は地上のものとは違い、天使のように、めとることも嫁ぐこともないとおっしゃいました。また、彼らが復活を信じない根拠である五書に記されていないという主張に対して、出エジプト記3:6を示して、それが考え違いであることを指摘されます。そこには、既にこの世を去ったアブラハム、イサク、ヤコブと神様との関係が今でも継続しているという書き方がされている事に気付きなさい、と言われるのです。

 
2) 神様の力や考えの全容は人には分からない

しかし、イエス様のこの説明でサドカイ派が納得できたわけではありません。皆さんはどうですか? 復活とはどんなことなのか?生きている者の神と言われても、アブラハムは今どこでどうしているのか?それでも何らかの意味で、この世の命を終えても生きているとしたら、アブラハムたちとは異なり「本当に」死んでいるといえる者がいるのか?聖書は「死んだら人はどうなるか?」という疑問に様々な角度から答えているように思えますが、幾つものことなった解釈が可能です。私たちは、解釈が分かれることに関しては謙遜でいる必要があります。自分の解釈が絶対だと考えてはいけません。イエスキリストを主、神と信じて従う者は、その罪を赦され永遠の命を与えられる。これが、福音、良い知らせと呼ばれる、聖書に記された神様の約束です。サドカイ派のように目に見える物事しか信じられない人は、永遠の命の意味も価値もわかりません。みなさんはわかりますか?ときどき永遠の命を不老不死と勘違いされる事があります。しかし永遠の命とは不老不死以上に価値あるものなのです。イエス様が口を開かれた時、まず彼らの誤解の原因を指摘しました。サドカイ派の人々は聖書の専門家です。他の誰より聖書を正しく知っていると自負していた人々です。イエス様は、そんな彼らに向かって、あなた方は聖書を知らない、神様の力も知らないと言われたのです。彼らにとっては最大の侮辱です。しかし、それは残念ながら事実でした。だから、聖書の教師でありながら、聖書の中心テーマである「永遠の命」の希望を教えることが出来ませんでした。聖書をどんなに詳しく学んでも、その中心を見失っているのでは意味がありません。「論語(Analects of Confucius)を読んでいるのに論語を知らない人」という表現がありますが、聖書でも同じことが起こるのです。聖書で様々な解釈が可能となるところは聖書の中心ではありません。そのような場所に関して、人間が結論を出す必要はありません。わからないところはわからないでいいのです。神様が聖書を通して教えたいことは、人とは死んだらどうなるのか?ではありません。主イエスキリストを信じて永遠の命を得なさい、ということです。そのことは私達に、今を生きる力を与えてくれ、どのように生きるかということについての導きを与えてくれるばかりか、肉体の限界、目に見える世界の限界を越えて、時を超えても失われることはありません。この事を受け取る事こそ聖書を正しくしることです。そして永遠の命を与えて下さった神様を100%信頼するということこそ「神の力を知っている」ということなのです。

 
メッセージのポイント
天国について、体のよみがえりについて聖書は具体的にすべてを語っているわけではありません。そこで、私たちはいろいろな解釈を試みます。どう終わりが来るのか?誰が天国に入れ、誰が入れないのかといった疑問についても、いろいろな考えが紹介されてきました。しかし忘れてはならないのは、私たちの想像には限界があるということです。聖書と聖書の解釈を混同してはいけません。聖書はこう言っていますと言いながら自分の解釈を押し付ける人や著作に警戒してください。私たちが信頼するべきなのは、66巻の聖書とそこの記されている神様の力なのです。

話し合いのために
1) サドカイ派はどのような思い違いをしていたのですか?
2) イエス様はどのような意味で、 神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ、とおっしゃったのでしょう?