<メッセージノート>

July 1st, 2012 Vol.19 No.28

愛しなさい マルコによる福音書 12:28-34 申命記6:5 レビ記19:18b

A. 一番大切な掟
1)
第一の掟 (28-30, 申命記6:5)

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(28-30)

2)
第二の掟 (31, レビ記19:18b)


第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」
(31)

B. イエス様と当時の宗教家との違い (32-34)


律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。
(32-34)

1) 第一の戒めと第二の戒めを別々にとらえていた宗教家

2)
二つを切り離すことのできないものと知っていたイエス様


メッセージのポイント
私達が生きてゆく上で最も大切なことは神様を愛することです。神様を愛するとは、真心からお仕えすることです。それは礼拝すること、神様の意思を行うことです。しかも、それを心をこめて、知恵を尽くして、力を尽くしてするのです。イエス様は第一の掟は?と問われてこう答えました。これは律法学者の見解にも沿うものでした。ところがイエス様は続けて第二の掟として、隣人を自分のように愛するということにも言及して、第一の掟と第二の掟と合わせて「この二つにまさる掟はない」とおっしゃいました。この二つのことは切り離して考えることのできないことなのです。神様を愛していなければ、本当に愛することはできません。また人を愛さないなら、本当に神様を愛していることにはならないのです。

話し合いのために
1)
イエス様はなぜ第一の掟を問われて第二の掟についても答えられたのですか?
2)
神の国から「遠くない」とはどのような意味ですか?

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<メッセージ全文>

July 1st, 2012 Vol.19 No.27
愛しなさい (マルコによる福音書12:28-34 申命記6:5 レビ記19:18b)

A. 一番大切な掟

1) 第一の掟 (28-30, 申命記6:5)
彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(28-30)

自分たちを、厖大な律法の体系を隅から隅まで知っている専門家と誇り、イエス様を新興宗教の教祖か素人律法研究家ぐらいにしか考えていなかった律法学者の中にも、真理を追い求める人がいました。ユダヤ教はこのままで良いのか?本当に神さまの望まれる在り方をしているのか?と疑問を感じていたのでしょう。先週お話したようにイエス様が、サドカイ派の意地悪な質問に対して、ファリサイ派よりも優れた答えをされて、サドカイ派が何も言えないのをこの人は目撃したのです。それで、もしかしたらこの人は本当に信頼するべき方かもしれないと思ったのです。そこで彼は、「まず軽いジャブから」といった感じで、この重要で基本的な質問をしました。イエス様の答えの前半については、彼も当然、予想していたはずです。イエス様は申命記6:5を引いて答えとされました。この言葉は、子供に繰り返し教え、手に結びつけたり額につけたりして忘れずにいなさいと命じられていたほどに、ユダヤ人なら誰でも知っている大切な戒めだからです。 ところがイエス様の答えはこれだけでは終わりませんでした。聞かれてもいないのに「第二の掟は」とレビ記を引いてこうおっしゃったのです。

2) 第二の掟 (31, レビ記19:18b)
第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」

普通「一番は?」を聞かれた時に、2つ答えたら、片方があっていても答えとしては不正解です。しかしイエス様はあえて第二の掟についてもふれて「この二つにまさる掟はない」とおっしゃったのです。もしこの人も他の人々と同様にイエス様を捕まえる口実が欲しくて尋ねた人で、神様の真理を注意深く考える人でなかったなら、「第一の掟について聞いているのだから、余計なことは言わなくてもいい」と言ったかもしれません。しかし彼は違いました。この「第一の」と聞かれて、あえて2つを合わせた答えをされたイエス様が、当時のどんな宗教家よりも神様の意思を正しく理解していると確信したのです。
 

B. イエス様と当時の宗教家との違い (32-34)
律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。(32-34)
 

1) 第一の戒めと第二の戒めを別々にとらえていた宗教家
前にも触れたように、「神である主を愛しなさい」という掟が、第一であることはユダヤ人であれば当然のことでした。しかしイエス様はそれで終わりにせずに、第二の掟にまで言及し、二つ合わせて最も大切だと答えられました。これが彼にとっては目からうろこの体験だったのです。第二の部分はレビ記の目立たない部分に記されている言葉です。当時の宗教家たちは、どのグループに属している者も皆、イエス様の指摘された第二の掟をそれほど重要だとはみなしていませんでした。しかしそれこそが、イスラエルの罪の本質だったのです。確かに彼らは「神である主を愛しなさい」という掟に従うことに熱心でした。しかしそれは、社会の中で人々を愛するということは切り離されて考えられていたので、人間不在の、温かみのない、「愚かな民に」規則を守らせようとするだけの宗教になっていました。人を愛するという現実から離れれば宗教は力を失い、命を失い、かえって社会に害を及ぼすものになってしまいます。本当に愚かだったのは民ではなく宗教家たちでした。人は、互いに愛し合うことを通して、忍耐すること、神様に信頼をおくことを学ぶのです。第二のことがなければ、教えが観念的で形式的になってしまうことは避けられません。この人は隣人愛よりも捧げ物やいけにえを重視する現状に疑問を持っていたので、イエス様の答えに驚き、喜んだのです。
 

2) 二つを切り離すことのできないものと知っていたイエス様
彼にとってイエス様の答えは、待ち望んでいた真理でした。それはまさに、これまでのイエス様の言葉と行いを、旧約聖書の二つの言葉で言い表したものでした。そして、イエス様の十字架こそが、神様を愛することと、人を愛することとが一体となって現されたものなのです。 「わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 この事が、第二のこととは入れ替えることに出来ない、第一の掟であることには間違いはありません。自分が地上で最後の生存者となったら第二の掟には意味がなくなりますが、第一の掟に従うことは出来るのです。しかし実際の社会の中で人々とともに生きているなら、人々を愛することなしには、本当に神様を愛している事にはならないのです。本当に神様を愛するということの中には人を愛するということが含まれています。そしてまた、本当に人を愛するということは、神様を愛していなければ出来ないのです。だから当時の宗教指導者たちは、この両方の言葉を知っていたのにもかかわらず。実際には、神様も、隣人も愛することの出来ない人々だったのです。 イエス様は、適切な答えをした人に「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。遠くはないけれど、イエス様と共に十字架にかけられた罪人の一人が「あなたは今日わたしと一緒に楽園にはいる」と言われたコンディションには、まだ一歩足りません。彼に必要なもう一歩はイエス様に従う、ついて行く、信頼するという一歩です。私達にも求められている一歩なのです。「イエス様、愛しています」とは言えても、色々と理由をつけて「でもあの人を愛せません」というのが私達の状態です。しかしそれでは、本当に神様を愛していることにはなりません。絶望的な気持ちになりそうですね。でも、心配しないで下さい、それはあなた一人ではありません。誰にとっても困難なことなのです。イエス様を信じる者になった今でも、私達はこの最後の一歩を苦しんでいるのです。神様が、このことのためにこそ聖霊を送って下さったのです。このプロセスは聖霊の助けなしにやり遂げることはできません。だから私は、皆さんがイエス様を知った今でも、礼拝を献げ、神の言葉という糧をいただき、祈り求めることによって、聖霊に満たされて進むことを強くお勧めするのです。

メッセージのポイント

私達が生きてゆく上で最も大切なことは神様を愛することです。神様を愛するとは、真心からお仕えすることです。それは礼拝すること、神様の意思を行うことです。しかも、それを心をこめて、知恵を尽くして、力を尽くしてするのです。イエス様は第一の掟は?と問われてこう答えました。これは律法学者の見解にも沿うものでした。ところがイエス様は続けて第二の掟として、隣人を自分のように愛するということにも言及して、第一の掟と第二の掟と合わせて「この二つにまさる掟はない」とおっしゃいました。この二つのことは切り離して考えることのできないことなのです。神様を愛していなければ、本当に愛することはできません。また人を愛さないなら、本当に神様を愛していることにはならないのです。

話し合いのために
1) イエス様はなぜ第一の掟を問われて第二の掟についても答えられたのですか?
2) 神の国から「遠くない」とはどのような意味ですか?