<メッセージノート>

July 8th, 2012 Vol.19 No.28
惑わされるな (マルコによる福音書 13:1-13)
A. それらは「終り」の始まりにすぎない
1) 終りは来る (1-4)
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(1-4)
 
2) 偽キリスト、戦争、地震、飢饉 (5-8)
イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(5-8)
 
B. 耐え忍ぶ時が続いている
1) 使徒言行録の時代にすでに始まったこと (9-11)
あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(9-11)
 
2) 今もまだ続いていること (12,13)
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(12,13)
 
メッセージのポイント ここで、彼らの見ている神殿は紀元70年には実際に破壊されてしまいます。しかしイエス様が示されているのは「世の終わり」についてです。イエス様が天に帰られてから100年も立たないうちに、神殿は破壊され、ローマの支配が更に厳しくなり、迫害も酷くなってゆきます。当時の人々が、自分たちが生きている時代に終末が来ると信じていたのも無理もない出来事に満ち溢れていたのです。けれども、イエス様の考えは違っていました。「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない」のです。その働きは今でも続いています。そして、その働きが進められていくとき、反対する人々からの攻撃は様々な形をとって現れるのです。けれども私たちは、それに耐え忍ぶことが出来るように、聖霊を送られています。また多くの慰めや喜びも与えられています。終末はいつかやってきますが、ただ今までどおり愛に生きること以外に、私たちのできる特別な準備はありません。ですから、「終末がすぐ来る」といったような惑わし、偽預言に振り回されてはいけません。

話し合いのために

1) なぜ惑わされてはいけないのですか?
2) 何を耐え忍ばなければならないのですか?

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<メッセージ全文>

July 8th, 2012 Vol.19 No.28
惑わされるな (マルコによる福音書 13:1-13)

A. それらは「終り」の始まりにすぎない
1) 終りは来る (1-4)
イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」イエスがオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられると、ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」(1-4)
この時エルサレムでの三回目の神殿建設は着工50年近く、ようやく完成に近づいていた時期です。弟子たちには、信仰の本質がわかっていませんでした。目の前の新しく荘厳な建物の美しさに感嘆してイエス様にも同意を求めています。神殿こそが、純粋で素朴な信仰を失ったイスラエルの象徴であり、やがて滅びる虚しいものだというイエス様の考えを、この十字架の出来事の直前までも理解していませんでした。しかし、もし私達が、教会の建物、神様無しの人間関係、礼拝の方法に目を向けすぎるなら彼らと同じくらい分かっていないことになります。しかも、私達は彼らとは違い、十字架も復活も知っているのですから、それにもかかわらず律法主義や、神殿主義や、人間中心主義に陥るならどれほど神様を悲しませることになるでしょうか? 弟子たちには、神殿が立派に見えていただけに、こんな偉大な建物がすっかり破壊されてしまう、というイエス様の言葉に、やっと世の終わりを想像したのでしょう。後で、中心的な弟子たちは、終りの日のしるしを教えて下さいと尋ねたのです。
 
2) 偽キリスト、戦争、地震、飢饉 (5-8)
イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。(5-8)
ここに書かれている様々な災いを、彼らは同時代に経験します。初代教会の人々は、「終末は近い、自分たちが生きている間にやってくる」と感じていたのです。実際、40年後には神殿はローマによって破壊されてしまいます。しかし本当に終わりではありませんでした。そして2000年近くたった今も世界は存在しています。その間のあらゆる時代に、いろいろな事象を持ちだして終末は近い、果ては今年の何月何日にということを言い出す人まで現れているのです。自分が再臨のキリストだと言い出す人もしょっちゅう現れます。戦争や紛争、自然災害がない年などありません。どう考えたら良いのでしょうか?ここで、心に止めるべき言葉は「惑わされてはいけない、慌ててはいけない、これらは産みの苦しみの始まりだ」ということです。イエス様が来られて新しい時代は確かに始まりました。今は終りの時代なのです。終りの終りがいつ来るのか、誰にも知らされてはいません。2000年経ったということは、もう終りが近いということを意味するわけでもなければ、もう数千年は変わらないという事を意味するわけでもありません。戦争や災害、政変、自称キリストの出現で終わりは近い、と言い出す人に、惑わされてはいけません。そのような人々は、目前に迫る再臨に備えること以外の営みを無意味だとして、「愛する」ということさえ捨て去ります。弱い者に手を差し伸べる長期に渡る支援計画にも、(どうせ滅びてしまうのだから)地球の温暖化にも興味がありません。それが何千年先であろうと明日であろうと私達のすることには変わりありません。神様を愛し、人々を愛し、世界を愛することです。そこに心が向いているなら、その日がいつ来ようと、また自分の死がいつどのような形で起ころうと後悔することはありません。
 
B. 耐え忍ぶ時が続いている
1) 使徒言行録の時代にすでに始まったこと (9-11)
あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。(9-11)
 
ある人は、何らかの理由で再臨が遅れていると考えます。しかし私達のもつ時間の感覚と神様のそれは同じではないということです。この期間になされることは福音があらゆる民に宣べ伝えられるということです。聖書は多くの言語に翻訳されていますが、いまだに自分の言語で聖書が読めない民族は少なくありません。何をもって「あらゆる民に宣べ伝えられた」といえるのかも意見がわかれますが、まだそのことも完成してはいないのでしょう。ここで注目すべきことは、イエス様を紹介することを宗教家や権力者は嫌がるということです。権力を持ちたいと思う人間の共通点は、気付いていようがいまいが、自分が王、主とみなされなければ気が済まないということです。それは独裁者でなくても、集団でも同じ事です。それが迫害はあからさまなときもあれば、日本の戦国時代の権力者たちのように、利用できると考えれば協力を惜しまないというゼスチュアをとり、都合が悪くなれば突然迫害に転じるということもありました。そんな時代は来そうにもないと思われるかもしれませんが、終末と同様、それはいつどうなるかわからないことです。皆さんにとってははるか昔と思えるかもしれませんが、私自身は、日本での最後の迫害の時期、第二次世界大戦が終わってたった十年後にうまれたのです。しかしこの事についてイエス様は、取り越し苦労してはいけないといわれます。そのようなところに立たされることがあったとしても、離すべきことは教えられる、いえあなたの中に住む聖霊ご自身が語ってくださるからです。

2) 今もまだ続いていること (12,13)
兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(12,13)
無理解なのは権力者だけではありません。肉親の間でさえ理解してもらえない、憎しみさえ向けられるようなことが起こります。あなたが悪いことをして憎まれるのではありません。イエス様に従って愛するから憎まれるのです。こんな理不尽なことはありません。しかしその理不尽は、イエス様が体験されたことです。本当に愛に生きようとすれば摩擦が生まれます。ただ気をつけていただきたいのは、多くのカルトが、心配する親や友達が本人をそこから引き離そうとするときに、それを真理に対する迫害と思い込ませるために利用される部分でもあるということです。しかし、彼らのように、内向きになり、社会から(そこが邪悪だからといって)背を向け、自分たちのいう真理を守り、純粋さを保つという考え方は、イエス様とは正反対です。イエス様は自分の組織を守るどころか作ることさえなさいませんでした。イエス様は確かに、御自身の体である教会を形成することを命じられましたが、それは社会から孤立して純粋性を守る組織としてではなく、世界に出てゆくための組織であるということを忘れないようにしましょう
 
メッセージのポイント ここで、彼らの見ている神殿は紀元70年には実際に破壊されてしまいます。しかしイエス様が示されているのは「世の終わり」についてです。イエス様が天に帰られてから100年も立たないうちに、神殿は破壊され、ローマの支配が更に厳しくなり、迫害も酷くなってゆきます。当時の人々が、自分たちが生きている時代に終末が来ると信じていたのも無理もない出来事に満ち溢れていたのです。けれども、イエス様の考えは違っていました。「まず福音があらゆる民に宣べ伝えられなければならない」のです。その働きは今でも続いています。そして、その働きが進められていくとき、反対する人々からの攻撃は様々な形をとって現れるのです。けれども私たちは、それに耐え忍ぶことが出来るように、聖霊を送られています。また多くの慰めや喜びも与えられています。終末はいつかやってきますが、ただ今までどおり愛に生きること以外に、私たちのできる特別な準備はありません。ですから、「終末がすぐ来る」といったような惑わし、偽預言に振り回されてはいけません。

話し合いのために

1) なぜ惑わされてはいけないのですか?
2) 何を耐え忍ばなければならないのですか?