<メッセージノート>

2012年8月19日
イエス様とユダ (マルコによる福音書14:10-21)池田真理
先週はイエス様の喜ばれることについてお話しましたが、今日は最後の方でその正反対にイエス様の悲しみについてお話しすることになります。

1. ユダがイエス様を引き渡そうとした理由(10,11)
10十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。

2. イエス様が過越の食事をした理由(12-17)
12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。 14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』 15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
 
3. イエス様の悲しみ(18-21)
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
・ 十二人のうちの一人が裏切る
・ 「生まれなかった方がその者のためによかった」

メッセージのポイント
イエス様が人々に逮捕されて殺されることは、神様のご計画であり、必ず起こらなければいけないことでした。それは歴史上一回限りの、神様が人間の罪を赦すためにご自分を犠牲にするという出来事でした。このことを当時理解していた人は誰もいません。ユダにも神の子を殺すという意識はありませんでした。でも事実、神の子を売り渡した者となり、その汚名を2000年にわたって負うことになりました。神様がユダにそうさせたのではありません。ユダがどう行動しようと、神様の計画は変わらなかったはずです。でも神様に与えられた自由な意志で、ユダはイエス様を裏切ることを選びました。イエス様はその選択をやめさせることはなく、ただ悲しまれました。なぜなら、イエス様が殺される理由は、正にそのような人間のためだったからです。

話し合いのために

1) ユダと私たちの共通点は何でしょうか?
2) なぜイエス様はユダに「生まれなかった方がその者のためによかった」とおっしゃったのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2012年8月19日
イエス様とユダ (マルコによる福音書14:10-21)池田真理
先週はイエス様の喜ばれることについてお話しましたが、今日は最後の方でその正反対にイエス様の悲しみについてお話しすることになります。

1. ユダがイエス様を引き渡そうとした理由(10,11)
10十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。 11彼らはそれを聞いて喜び、金を与える約束をした。そこでユダは、どうすれば折よくイエスを引き渡せるかとねらっていた。
先週も、イエス様が十字架に架けられて亡くなることが神様の計画だと理解していた人はこの時点でいなかったとお話しました。でも、イエス様が祭司長たちや律法学者たちと対立していて、彼らから反感を買っていることは、多くの人が知っていたのだと思います。知っていただけではなく、そのような権力者たちをイエス様が将来打ち負かしてくれると信じていた人々が多かったでしょう。多くの人々がイエス様をそのような新しい政治的リーダーとして誤解していました。だから、イエス様が繰り返し、自分が祭司長たちや律法学者たちに捕らえられて殺されることになっている、と予告しても受け入れることができませんでした。 ここに出てきたユダも、他の弟子たちと同じように、イエス様と権力者たちの対立には気が付いていました。権力者たちがイエス様を非常に憎んでいて、捕らえようとしていたことも知っていました。だからここでユダは、弟子の一人の自分が権力者たちに近づいてイエス様を売ると言えば、権力者たちは喜ぶと分かっていたのでしょう。彼は、イエス様を取り巻く権力者たちの動向をうまく察知して、自分の利益のために利用しようとしました。でも、彼は完全にイエス様から心が離れて、何の良心の呵責もなくイエス様を売ろうとしたのでしょうか?他の福音書では、ユダが後になって自分の行動を後悔し、祭司長たちからもらったお金を投げ捨てて自殺したということが伝えられています。彼はイエス様に完全に失望していたわけではなく、イエス様への信頼が一時ぐらつき、その時のお金の誘惑に負けてしまったのかもしれません。もしユダが何の良心の呵責もなくイエス様を裏切ったのなら、後で自殺したりはしなかったでしょう。 ユダはこうして、2000年に渡って裏切り者の代名詞になるほど、悪人として有名になってしまいました。でも、私たちは、ユダだけが特別な悪人で自分とは違うと言うことはできないと思います。ユダのようにイエス様を十字架に架ける計画に直接関わることはもうありませんが、イエス様が自分にとって大切な方であることを忘れて、自分の勝手な思いにとらわれてしまったら、私たちもユダと同じことをしていると言えると思います。自分勝手な思いからイエス様を忘れて行動するということは、私たちが一生繰り返してしまうことです。でも、イエス様はそんな私たちのことも知っていますし、ユダのことも知っていました。そして、知っていたからこそ、ご自分が十字架に架けられて殺されなければいけないということも知っていました。そして、イエス様はそのことを淡々とこなしたわけではなく、大きな悲しみを持って過ごされたことが分かります。続きを読みます。

2. イエス様が過越の食事をした理由(12-17)
12除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。 13そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。 14その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』 15すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」 16弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。 17夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。
 
過越祭がユダヤ人にとって大切なお祭りだということは先週もお話しました。そして、この時期になると、大勢の人が都エルサレムに集まったということもお話しました。エルサレムの住民は、そのようにエルサレムの外からやってきた人々を自分の家に迎えて、過越の食事ができるように場所を提供したそうです。だから、ここでイエス様と弟子たちに自分の家の二階を貸してくれた人というのも、そんなに特別なことをしたわけではありません。ただ、多くのユダヤ教の規則や伝統的習慣を批判したイエス様が、なぜこの過越しの食事は重んじたのでしょうか?それは過越祭の持つ意味に関係がありました。 過越祭の由来は、出エジプト記12章に書いてあります。イスラエル人たちがモーセに率いられてエジプトを出ることをファラオが許すように、神様がエジプトに10の災いをもたらしました。そのうち最後の災いは、イスラエル人は特別な準備をすることによって免れることができました。その準備の中心が、小羊を屠って、その血を自分の家の戸に塗っておくということでした。その血が神様へのしるしとなって、神様はその家の前を「過ぎ越し」、エジプト人にもたらす災いをその家にはもたらしませんでした。 イエス様は、この小羊のように、ご自分の血が流されることによって、その血を受ける者(イエス様の死が自分のためだと受け入れる者)を救うことになるとご存知でした。戸に塗られた小羊の血が神様へのしるしとなって、その家の人を救ったように、イエス様の血が私たちのしるしとなって、私たちの罪が赦されるということです。イエス様は、この過越祭で屠られる羊のように、ご自分が人間の罪を赦すために殺されるということを知っていました。だから、過越の食事には特別な意味がありました。今日の続きの箇所、来週読む箇所では、この過越しの食事の後半でイエス様が聖餐式を行っています。毎年ユダヤ人が祝ってきた過越祭は、イエス様の十字架によって今私たちも行っている聖餐式となりました。私たちは、もう過越しの小羊を屠る必要はありません。イエス様が全ての人にとっての過越の小羊となって下さったからです。 この時、弟子たちにとっては、毎年祝っている大切なお祭りを祝おうとしただけのことだったでしょう。でも、イエス様はこれから起ころうとしている神様の計画を知っていたからこそ、この食事を弟子たちと共にしようとされました。 ただ、この食事の席で次にイエス様が言われたことは、神様の計画の中にあったわけではなかったと思います。

3. イエス様の悲しみ(18-21)
18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。 20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。 21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
・ 十二人のうちの一人が裏切る
イエス様は18節と20節で、繰り返し、「あなたがたのうちの一人」が、「わたしと一緒に食事をしている者が」「十二人のうちの一人」が、自分を裏切ろうとしているとおっしゃっています。その場に一緒にいて食事をしていたのは十二人の弟子たちだけだったので、「あなたたちのうちの一人が裏切ろうとしている」と言えば、それで弟子たちには伝わったはずです。でもそれを繰り返して言ったのは、やはり十二人の中から裏切り者が出るということを強調したかったのだと思います。この十二人はイエス様ご自身が自分のそばにおくために選ばれた弟子たちです。イエス様は、ユダを自分の弟子として選んだ時から、自分を裏切ることになると知っていたのでしょうか?ユダには、最初から裏切り者としての役割が与えられていたということでしょうか? そうではないと思います。

・ 「生まれなかった方がその者のためによかった」
21節をもう一度読みます。
「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」
「生まれなかった方が、その者のためによかった」これは、ユダに対する呪いの言葉でしょうか?自分を裏切るユダに対して、イエス様は怒りをこめてこの言葉を言ったのでしょうか? イエス様は、「生まれなかった方が、その者のためによかった。」と言っています。ユダのために、言っている言葉です。イエス様は、自分を裏切るなんてことをするくらいなら、そんな者は生まれてこなかった方がましだった、と怒っているのではありません。イエス様は、ユダがどう行動しようと、自分は神様が計画されたとおりに、人々に捕らえられ、殺されることを知っていました。だから、過越しの食事をしたのだし、これまで何回も予告してきたように、ここでも再び「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。」と言っています。ユダが裏切らなかったとしても、イエス様は必ず殺されなければなりませんでした。でも、ユダはあえてイエス様を裏切る側にまわりました。ユダにはイエス様に従い続ける選択もあったはずです。神様が、イエス様殺害の計画を進めるために、ユダに最初から裏切り者の役目を負わせたのでもありません。ユダには、イエス様に従う自由も自分に従う自由もありました。ユダはイエス様ではなく自分を選びました。 神様は、私たち人間を、自動的に神様に仕えるロボットのようにお造りになったのではありません。私たちが、自分で決めて、自発的に、神様を選べるようにお造りになりました。それは、私たちが神様の言いなりになるロボットや召使いではなく、神様と愛し合う関係を持つためです。私たちに自由な判断ができなかったとしたら、私たちは神様に服従するだけで、神様との愛し合う関係は成り立ちません。神様は私たちの考えることやることを全て知っていますが、私たちが自由に判断することを望んでいます。だから、私たちが神様を選べば神様は喜んでくださいますが、逆に自分を神様のようにして、神様を拒否するときも、神様はそれを知っていても強制的にやめさせることはありません。私たちが間違いに気が付いて、神様の方に戻ってくることを待っておられます。 このことが、歴史上ユダだけにはあてはまらないということはないと思います。イエス様が人々に捕らえられて十字架に架けられて殺されるというのは、確かに歴史上ただ一回限り、神様が定められた計画です。イエス様だけは、最初から運命が決められていた、と言ってもいいかもしれません。でも、その出来事に直接かかわった人々は、私たちと同じ人間です。イエス様はその時代の人々のためにも、現代に生きる私たちのためにも、地上に来てくださった神様です。イエス様は、ユダがご自分を裏切ろうとしていることを知っていても、とめませんでした。イエス様が十字架に架けられたのは、正にユダのように神様を神様と認めずに自分中心に生きる人間のためだったからです。イエス様は、ユダが後に自分の行動を激しく後悔し、生きていけなくなってしまうほど罪悪感に苛まれることも知っていたのでしょう。「ユダは生まれなかった方が彼のために良かった」という言葉は、自分で死を選んでしまうほど、自分の犯した過ちに苦しむユダはかわいそうだ、というイエス様の悲しみと憐れみの言葉だと思います。神様は、ユダのような人間を憐れむからこそ、十字架の計画を実行しました。 今日初めに、ユダと私たちは同じだとお話しました。ユダも私たちも、イエス様への信頼が揺らぎ、自分の勝手な思いにとらわれてしまうことがあります。イエス様よりも、自分の利益になりそうなものを選んでしまうことがあります。自分勝手な期待をイエス様に持っていて、それがかなえられない時に、本当は自分が間違っていると気が付かなければいけないのに、イエス様に失望しそうになります。私たちは自分の意志で、神様を喜ばせることも悲しませることもできます。先週出てきた、イエス様に香油を注いだ女性は、どうやってイエス様を喜ばせたのでしょうか?イエス様だけを見て、心からイエス様によいことをしたいと願ったからです。彼女がしたこと自体の良い悪いは関係ありませんでした。ユダはなぜイエス様を悲しませたのでしょうか?イエス様から目を離して、自分の思いにとらわれてしまったからです。そして、悲しませただけではなく、彼のような人間のために、イエス様は十字架で苦しまれました。私たちは誰も、イエス様に十字架の苦しみを思い出させるようなことはしたくないと願っていると思います。そのためにできることは、イエス様の喜ばれることを求めることしかありません。そしてそれは、先週お話した通り、とてもシンプルなことです。イエス様との一対一の関係の中で、イエス様の望みを求めることです。

メッセージのポイント
イエス様が人々に逮捕されて殺されることは、神様のご計画であり、必ず起こらなければいけないことでした。それは歴史上一回限りの、神様が人間の罪を赦すためにご自分を犠牲にするという出来事でした。このことを当時理解していた人は誰もいません。ユダにも神の子を殺すという意識はありませんでした。でも事実、神の子を売り渡した者となり、その汚名を2000年にわたって負うことになりました。神様がユダにそうさせたのではありません。ユダがどう行動しようと、神様の計画は変わらなかったはずです。でも神様に与えられた自由な意志で、ユダはイエス様を裏切ることを選びました。イエス様はその選択をやめさせることはなく、ただ悲しまれました。なぜなら、イエス様が殺される理由は、正にそのような人間のためだったからです。

話し合いのために
1) ユダと私たちの共通点は何でしょうか?
2) なぜイエス様はユダに「生まれなかった方がその者のためによかった」とおっしゃったのでしょうか?