<メッセージノート>

2012年9月9日
心は燃えても肉体は弱い (マルコによる福音書14:32-42)

A. イエス様の場合
1) 恐怖と悲しみで苦しまれた (32-36a)
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。
 
2) しかし、御心が適うことを願った (36b,41b-42)
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」
時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
 
B. 弟子たちの場合 (37-41a)
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」 更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。 イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。
1) イエス様に従ってここまで共に来られた
2) しかし、事態が深刻でも肉体の欲求には勝てなかった
 

メッセージのポイント
イエス様の恐れ、悲しみはただご自身のこれから直面する苦しみと死によるものではありません。全ての人の持つ恐れ、悲しみ背負うという重いものでした。イエス様は肉体を持った一人の人としての弱さを、御心へのあこがれによって克服されました。私たちは弟子たちと同様の弱さを持つ者です。イエス様を愛し慕っていても、身体の基本的な欲求は避けがたいものです。また身体の苦痛や恐怖感にも弱いのです。しかしイエス様は決して私達に失望なさいません。「立て、行こう」とともに歩み続けてくださいます。

話し合いのために

1) イエス様は何を恐れておられたのでしょう?
2) 心は燃えても肉体は弱いとはどのような意味でしょう?

<MP3 音声>

<ビデオ>(画面をクリックすると再生が始まります)

<メッセージ全文>

2012年9月9日
心は燃えても肉体は弱い (マルコによる福音書14:32-42)

A. イエス様の場合
1) 恐怖と悲しみで苦しまれた (32-36a)
一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。
死を恐れるのは自然な感情です。しかし一般的には、自分の死を静かに受け入れることが美徳とされています。日本ではその傾向が強いので、本人が冷静ではいられなくなることを恐れて、家族は死に至る可能性の高い病の告知を避けようとする傾向が強いのです。また死をいたずらに美化することがどれほど民衆を苦しめるかということを私たちは経験してきたはずです。しかし、潔い死、勇ましい死、美しい死といったことに価値を置きすぎる傾向は相変わらず続いています。イエス様は、そのような考えを持つ人にとって「情けない、弱々しい」と感じられるでしょう。「この杯を私から取りのけて下さい」とは「これから起ころうとしている恐ろしい目に合わせないでください」ということです。イエス様より勇ましく死んでいった人は沢山います。しかし、聖書はひどく恐れているイエス様の姿を率直に報じています。聖書がキリスト教の宣伝文書なら、もっと格好良く脚色したことでしょう。この事は、聖書が信頼できるものであることを証明しています。 しかしなぜ死を覚悟し、復活も知っていたイエス様が、このようなことをおっしゃったのでしょうか?それは負わされた罪の呪いがあまりにも大きかったからです。全ての人の罪を担うということを、私たちは十分に理解することはできません。自分一人の罪責感でも重く恐ろしく感じる私たちです。救い主とはいえ、私たちと同じ肉体を持った方として、罪の呪いの結果を引き受ける恐ろしさは、耐え難いものであったのです。ですからこの時、イエス様には特別な祈りの時が必要だったのです。
 
2) しかし、御心が適うことを願った (36b,41b-42)
けれども、イエス様の祈りは、「どうかここから助けて下さい」で終わるものではありませんでした。
しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(36b)
ここで私たちは、祈りの力の本当の姿を見ることができます。イエス様の祈りには嘘偽りはもちろん、強がりも虚勢もありません。かつて、「力強い、肯定的な祈りをしなさい、そうすれば祈りが叶えられます」と教えられたことがありますが、それは間違いです。そのようなものは祈りと言うよりは自分を励ます暗示かスローガンのようなものでしかありません。祈りは自分の願いを叶えるものではありません。神様の意思が行われることを求めることなのです。イエス様は、恐れを隠さず率直に祈りました。そして「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と結ばれたのです。そしてこの祈りを二度三度と繰り返されたました。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」という祈りは、イエス様に実際に困難に立ち向かう勇気を与えました。 私たちも見習うことが出来ます。情けない祈りを何度繰り返してもいいのです。しかし、必ず「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と付け加えましょう。恐れの中で、悲しみの中で、しかしイエス様が傍らにいてくださることがわかり、心は落ち着きます。 この祈りによってイエス様の覚悟は、恐れと悲しみに勝ったのです。そしてイエス様は言われました。
時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(41b,42)
 
B. 弟子たちの場合 (37-41a)
次に、この一連の出来事に際して弟子たちがどうであったかを見てゆきましょう。
それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。(37-41a)
電車の中や、カウチでうとうとすることには、ベッドでぐっすり眠るのとは別の気持ち良さがあります。緊迫した自体の中でも、体の疲れや睡眠不足は眠気を起こすのです。

1) イエス様に従ってここまで共に来られた
弟子たちは、無邪気に、遠足のような気分でここまでイエス様と共に来たのではありません。イエス様のなさろうとしていることを理解していなかったとはいえ、皆、自分の生活、職業、それまでの人生を捨てて3年間、イエス様と行動を共にしてきたのです。特にこの最後の一週間、緊張感は頂点に達していました。身体はすっかり疲れて板に違いありません。しかし彼らの心は熱かったのです。私たちは、弟子たちがイエス様の受難に際して一人残らず逃げてしまったことに注目しますが、3年間従って歩み続けた彼らを、少しほめてもいいのではないでしょうか? イエス様はここで、言いつけを守れず寝てしまった弟子たちを非難しているのではありません。そう受け取るなら、やはり「私たちは肉体の弱さに負けずに祈り続けてがんばらなければいけません」という律法主義に陥ります。肉体の弱さを、信仰で、精神力で克服しなさいという教えではないのです。最初の祈りを終えてイエス様が三人のところに来た時、彼らは眠っていました。そこでイエス様は再び目を覚ましていなさいと命じます。但しこの時には、「誘惑におちいらないように祈っていなさい」と付け加えられました。そうか、祈っていれば、眠くならないかもしれない。弟子たちは祈りはじめたに違いありません。しかし、祈りながらまたうとうとし始めてしまったのでしょう。イエス様が教えたかったことは「弱さの自覚」です。弱さを責めているのではありません。<自分の弱さを知らないこと>を気付かせようとされているのです。自分の弱さを知らないので、イエス様に頼ろうとしないのです。イエス様を知らない人は勿論。信じていると言いながらやはり自分に頼っているところのある人に対する警告です。自分の弱さが十分に分かっていないから誘惑に乗ってしまいます。自分の弱さを知っているということは、イエス様のことがよく見えるということ、つまり信仰の目が覚めているということです。
 
2) しかし、事態が深刻でも肉体の欲求には勝てなかった
イエス様は一人で祈り始める前に、ペトロ、ヤコブ、ヨハネに「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」と命じました。他の弟子たちは少し離れたところにいますが、三人はイエス様の祈りの声が届くような場所にいることを指示されたのです。イエス様は、眠くなるのも無理のないほど彼らが疲れていたことをご存知でした。しかし目を覚ましていてほしかったのです。神様の愛をすべての人に伝える働きを、これから中心的に担う三人が、この時御自身とできるだけ近くにいて欲しいと願われたのは、単に実際の距離だけではなく、心の距離のことでもあったのです。イエス様は人の罪の重さとそれを引き受ける恐ろしさに襲われていました。そのことを三人には感じていてほしかったのでしょう。こんなに近くにいたのに、疲れているとはいえ、なぜイエス様と同じ気持ちになれなかったのか?それは私たちの誰もが持つ弱さのせいです。どう克服するのか?完全にというわけにはいかないでしょう。しかし改善の余地はあります。それはもっとイエス様に近づくことです。あなたはペトロたちと同じくらいイエス様の近くにいるのでしょうか?それでも彼らは目を覚ましていられませんでした。もっと近づいて下さい。遠慮しないで下さい。イエス様はあなたには、少し離れてそこで動かないでいなさいと命じられてはいません。

メッセージのポイント
イエス様の恐れ、悲しみはただご自身のこれから直面する苦しみと死によるものではありません。全ての人の持つ恐れ、悲しみ背負うという重いものでした。イエス様は肉体を持った一人の人としての弱さを、御心へのあこがれによって克服されました。私たちは弟子たちと同様の弱さを持つ者です。イエス様を愛し慕っていても、身体の基本的な欲求は避けがたいものです。また身体の苦痛や恐怖感にも弱いのです。しかしイエス様は決して私達に失望なさいません。「立て、行こう」とともに歩み続けてくださいます。

話し合いのために

1) イエス様は何を恐れておられたのでしょう?
2) 心は燃えても肉体は弱いとはどのような意味でしょう?