<メッセージノート>

2012年9月23日
イエス様の栄光/ペトロの挫折 (マルコによる福音書14:53-72)

A. 遠く離れてついて行ったペトロが見ていた出来事
1) 偽証に反論されなかったイエス様 (53-61a)
人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。(53-61a)
 
2) 死刑の決め手となった決定的な言葉 (61b-65)
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。(61b-65)
 
B. はっきりと自分の弱さを知ったペトロ
1) イエス様を否定し続ける (66-71)
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。(66-71)
 
2) 鶏の鳴き声ですべてを知る (72)
するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(72)
 
メッセージのポイント
イエス様が人々の証言が偽りであることさえ主張せず黙っていたように、ご自身に問われた質問にも黙っていれば、彼らはイエス様を死刑にすることはできませんでした。しかし、イエス様は、ご自身が救い主であるかと問われて肯定したので、神様を冒涜したとして有罪とされました。対照的に、弟子の中で誰よりも死を恐れずイエス様について行くと強く言い張っていたペトロは、誇りであったはずの救い主の弟子という自分のアイデンティティーを、イエス様の預言どおり、激しく否定して逮捕を逃れました。ペトロの一番弟子という誇りは打ち砕かれ、自分の無力をはっきりと知らされました。神様は、徹底的に自分の無力を知ったペトロに、教会のスタートを委ねたのです。

話し合いのために
1) ペトロはなぜ逃げ出さず、遠くからついて行ったのでしょう?
2) ペトロはどのような気持ちでイエス様を否定し続けたのでしょうか? 
 

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<メッセージ全文>

2012年9月23日
イエス様の栄光/ペトロの挫折 (マルコによる福音書14:53-72)

A. 遠く離れてついて行ったペトロが見ていた出来事
1) 偽証に反論されなかったイエス様 (53-61a)
人々は、イエスを大祭司のところへ連れて行った。祭司長、長老、律法学者たちが皆、集まって来た。ペトロは遠く離れてイエスに従い、大祭司の屋敷の中庭まで入って、下役たちと一緒に座って、火にあたっていた。祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、得られなかった。多くの者がイエスに不利な偽証をしたが、その証言は食い違っていたからである。すると、数人の者が立ち上がって、イエスに不利な偽証をした。「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」しかし、この場合も、彼らの証言は食い違った。そこで、大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」しかし、イエスは黙り続け何もお答えにならなかった。(53-61a)
 
イエス様を捕らえた人々の立場は様々です。ただイエス様を処刑したいという願いだけで一致していたのです。真実ではない嘘の証言は多く積み重ねられるほど、食い違いが出てきます。それは、公平な裁判でなくても有効な証言とは認められないほどにお粗末なものだったのです。しかしイエス様は、そのでたらめな証言に一切反論しようとはなさいませんでした。イエス様は、十字架にかかることを固く決意されていました。でたらめな証言にいちいち反論してまで、自分の無罪を訴えるつもりはありませんでした。イエス様に対するいわれのない中傷は今でも、イエス様に従って生きる人々に向けられます。特に従う者が人口に比して少ないこの国では、悪意というより無知のゆえの的はずれな非難が多いのです。私たちには一つ一つの非難に、いちいちがっかりしたり腹を立てたりしている時間はありません。イエス様は、向けられている非難に対抗することに時間やエネルギーを浪費することよりも、イエス様ご自身が与えられている使命に向かって集中しておられたように、私たちも与えられている愛の働きに心を注ぐことを願っておられます。勿論、人間の組織としてのキリスト教会には多くの問題があり、改めなければならないことも出てくるのです。実際教会は、道を誤り、悔い改め、方向転換をするという経験をしてきました。ですから、非難される時、それがイエス様に従っているためのものなのか、それともイエス様の教えから外れてしまっているからなされる非難なのかはよく吟味しなければならないことはいうまでもありません。

2) 死刑の決め手となった決定的な言葉 (61b-65)
そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」大祭司は、衣を引き裂きながら言った。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒涜の言葉を聞いた。どう考えるか。」一同は、死刑にすべきだと決議した。それから、ある者はイエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めた。また、下役たちは、イエスを平手で打った。(61b-65)
あれほど黙っていたイエス様が口を開きました。当時の宗教界ナンバーワン、大祭司が「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と聞いた時です。誰かが自分を神と並ぶものであるというなら、それははっきりと神様を冒涜した罪とみなされました。それは死に値するほどの罪です。しかし当時ローマの支配下にあったこの議会は死刑を宣告する権限は与えられていませんでした。そこでローマから派遣されていた総督ピラトに働きかけるしかなかったのです。何週間か後に改めて取り上げますが、ピラトもイエス様が死刑になる理由を見いだせませんでしたが、ユダヤ人からの評判を気にして死刑を決めました。 それにしてもイエス様は、なぜここで口を開いたのでしょうか?それはこの質問が本質を突くものだったからです。この事をはっきりと全世界に記憶させる必要があったのです。もう一度このやりとりを聞きましょう。 祭司長「お前はほむべき方の子、メシアなのか」 祭司長はイエス様が、神様からの特別な任務を受けたイスラエルを救う最高指導者としてきたのか?と尋ねています。それは、アブラハムやモーセ、ダビデのような特別な「人間」か?ということです。有罪とするにはそれで十分なのです。しかしイエス様の答えは、祭司長の想像を超えるものでした。 イエス様「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」 イエス様の答えは「じぶんがご自分を単に神様の意思を行う指導者ではなく、神様と同等な者」それは自分が神だと理解させるものだったのです。しかも、聞かれてはいないのに、最後の時に再び来られるということまで言って、彼らの死刑を求める確信を更に強めさせたのです。大祭司を始めとして多くの人は怒り狂いました。こうして十字架は実際に避けられないものになったのです。ペトロはこれを遠くから聞いていました。彼はこの後、自分の弱さに打ちのめされるような経験をしますが、そのあとイエス様が神様であることを信じて、キリストの体:教会を建て上げる働きに命をかけることになった原点であるかもしれません。

 
B. はっきりと自分の弱さを知ったペトロ
1) イエス様を否定し続ける (66-71)
ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」しかし、ペトロは打ち消して、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言った。そして、出口の方へ出て行くと、鶏が鳴いた。女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。(66-71)
ペトロは、他の弟子たちのように姿を消してしまったわけではありませんでした。そうしていれば、人々に問い詰められるように危険な目に合うこともありませんでした。しかし彼は遠くからイエス様について行って、自分で事の次第を見たかったのです。火にあたれば、その光で顔は明らかになります。人々とイエス様の問答を聞きながらペトロは、イエス様がただの革命家ではなかったことを悟り始めたのだと思います。だからといって彼の恐怖心が消えてしまったわけではありません。何度も関係を打ち消し、イエス様を呪う言葉か、あるいは自分が真実を述べていないなら神様に呪われて死んでもいいということまで口に出したということです。真実に気づき始めても、恐れから、正しいことを言い表すことの出来ない私たちの共通の弱さです。しかし、イエス様は私達が弱いことを責められたりはしないのです。前にもお話ししたので繰り返しになりますが、問題は弱いことではなく、弱いことを知らないことなのです。 弱さを知って本当に強い方を知ること、言い換えれば自分の罪を知って本当に正しい方を知ることこそ、本当の強さ、正しさを持つ唯一の道です。

 
2) 鶏の鳴き声ですべてを知る (72)
するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。(72)
薄々自分の弱さに気付き、苦しい思いをしていたペトロを打ち倒す決定的な出来事です。それは同時にイエス様が本当のメシアだったということの気付きです。しかしこの時には、自分はメシアの計画を邪魔してだめにしてしまった。取り返しのつかないことをしてしまった後悔で心はいっぱいになっています。この思いは復活したイエス様に会うまで続くのです。彼の人生の中でもっとも暗く苦しい三日間でした。自分の徹底的な弱さを知人が、神様に徹底的に信頼をおいて生きることができます。 イエス様が逮捕される時、大祭司の手下に切りかかった時のペトロは、まだ自分の弱さを認められないでいた状態です。しかしこの時点ではペトロも他の弟子たちも自分の弱さに直面して苦しんでいます。私たちもそういう時があるでしょう。それでいいのです。弟子たちが、人間的な破れかぶれの勇気を出して、逃げずに抵抗していたら、皆殺されてしまって使徒言行録は書かれなかったかもしれません。それでよかったのです。神様は私たちの弱さまでも計画に中に入れて用いられるのです。ヨーロッパに福音が広がるきっかけとなったのは、迫害を受けユダヤから逃げ出し、アンティオキヤに教会を作った人々でした。身の危険のあったモンゴル伝道を諦めて、日本で宣教した人達によってイエス様を知った人もたくさんいるのです。 人々の非難や、自分の弱さに、落ち込んでいてはいけません。神様の計画は誰にも止められません。私たちの弱さまでも用いて下さるのですから、楽しみにイエス様について行きましょう。


メッセージのポイント
イエス様が人々の証言が偽りであることさえ主張せず黙っていたように、ご自身に問われた質問にも黙っていれば、彼らはイエス様を死刑にすることはできませんでした。しかし、イエス様は、ご自身が救い主であるかと問われて肯定したので、神様を冒涜したとして有罪とされました。対照的に、弟子の中で誰よりも死を恐れずイエス様について行くと強く言い張っていたペトロは、誇りであったはずの救い主の弟子という自分のアイデンティティーを、イエス様の預言どおり、激しく否定して逮捕を逃れました。ペトロの一番弟子という誇りは打ち砕かれ、自分の無力をはっきりと知らされました。神様は、徹底的に自分の無力を知ったペトロに、教会のスタートを委ねたのです。

話し合いのために
1) ペトロはなぜ逃げ出さず、遠くからついて行ったのでしょう?
2) ペトロはどのような気持ちでイエス様を否定し続けたのでしょうか?