<メッセージノート>

2012/12/9 Advent 待降節 第二日曜日 メッセージノート
神様はあなたと共に  イザヤ書7:11-14

1) あらゆる悩みに対処するための神様の提案 (11)

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」


2) 求めようとしない私たちの態度 (12)

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」



3) その態度は人間にも、神様にももどかしい思いをさせている(13)

イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。


4) 決定的なしるしを見て態度を改めよう (14)

それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:18-23)

メッセージのポイント

降誕の出来事についての旧約聖書の中で様々に預言されていますが、ここでのイザヤの預言は、特に「神様が共にいてくださる」という、実は世界の最初から変わらない事実を決定的なしるしによって人々に再確認させる時としてのキリスト降誕を強調しています。私たちの自己中心的な性質は、意識的にあるいは無意識の内に「インマヌエル」という現実を無視して生きるという結果をもたらしていますが、実はあらゆる悩みの原因はこの生き方にあるのです。悩まなくても良いのに悩み、争わなくても良いのに争う古い自分を変えることは、「インマヌエル」を知ることから始まります。2000年前に来られたイエス様は、歴史とあなたの人生を変えるために来られたのです。

話し合いのために
1) しるしとは何ですか?
2) なぜ私たちは、求めようとしないのでしょう?


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<メッセージ全文>

2012/12/9 Advent 待降節 第二日曜日
神様はあなたと共に  イザヤ書7:11-14

1) あらゆる悩みに対処するための神様の提案 (11)

「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

アハズは紀元前735年20歳でユダ王国の王となりました。イスラエルが北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂して200年くらいたった時代です。その頃、近隣にアッシリアという大国があり、ユダ王国は周辺のイスラエル王国やシリアと共にアッシリアに従属していました。イスラエルとシリアは、アッシリアに反抗しようとユダを誘ったのですが、アハズが同調しなかったので、アハズをやめさせて別の王を立てるためにエルサレムを攻撃しようとしたのです。若い王が大変恐れていたので、神様は預言者イザヤを遣わして彼を安心させようとしました。その時のやり取りがこの7章に記されています。11節までに、神様はイザヤを通して、イスラエル、シリアの計画は決して実現しないから安心しなさいと伝えた後、この言葉が語られました。神様はただ闇雲に私を信じなさいと求めてはおられません。なかなか信頼出来ない、安心できないアハズに対して「しるしを求めなさい」と勧めるのです。

今日皆さんに深く実感していただきたいことは、神様はあなたと共にいてくださるということです。神様があなたと共にいてくださるということが事実であるなら、思い煩うことはなにもないはずです。ところが私たちには、様々なことに直面して、神様なんていないのではないか?いたとしても自分を助けてはくれないのだろうと思う時があります。アハズ王はこのような心境にいるのです。そのような時に私たちは神様にこう求めることができます。「心細いです。絶望的です。あなたがほんとうに私とともにいてくださるのなら、どうかあなたが私を確かに守っていて下さる証拠を見せて下さい。」 神様は必ずその問いに応えてくださいます。目に見えるキリストの体−従う人々の集まり−教会が存在することもその証拠です。ユアチャーチも神様が共にいてくださることのしるしとして存在しているのです。

イエス様が地上での歩みの中で見せて下さった、神様への絶対的な信頼を私たちも持てれば素晴らしいのでしょうが、それは私たちには無理なことです。 しかし神様は私たちの確信が簡単に揺らぐ事をよくご存知で、しるしを求めることを、信頼が足りないと責められるのではなく、ときにこうして勧めて下さるのです。
私たちを、そして世界を作って下さった神様が、いつもあなたから離れず共にいてくださるのですから、苦しみ悩まなくても良いのです。窮地に陥っていたとしても、神様は必ず逃れる道を開いてくださいます。そのことがなかなか実感できないのはなぜなのでしょう。
それはアハズの次の言葉によく現れているように、私たちの態度に問題があるからです。


2) 求めようとしない私たちの態度 (12)

しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」

アハズは、「しるしを求める」という言葉を、「試す」という言葉にすり替えて、聖書は神様を試してはいけないと書いてあるから、あなたの預言の言葉を信じない」とイザヤに言っているのです。恐れ、おののき、困り切っているにもかかわらず、本当に解決して下さる神様に信頼するのではなく、アッシリアの援軍の方を期待しているのです。確かに聖書の中では試すという言葉は「神様を試してはいけない」という否定的な意味で用いられていることがほとんどで、「しるしを求める」という言葉と同じように使われることも多いのです。しかし、マラキの3章では「十分の一の献げ物をすべて倉に運びわたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」 とあり、必ずしも否定的にだけ用いられるものではありません。

実はイエス様もアハズと同じような言い方をしているところがあります。悪魔から誘惑を受けた時(マタイ4:7)、申命記6:16を引用して「あなたの神である主を試みてはならない」と言って、「神殿の屋根から飛び降りても、あなたが神の子なら天使が助けるだろうからやってみろ」という誘いを断りました。アハズも同じ箇所を念頭にこう答えたのですが、心の中にあったことはイエス様とは正反対でした。この申命記の戒めの元となった出来事は出エジプト記の17章に記されています。モーセに率いられてエジプトを脱出して約束の地へ向かう旅のなかで、水不足に苦しんだ民が、モーセに水を与えよと迫り、困ったモーセが神様に叫ぶと、神様が応えてくださり杖で岩を打つと水が出て民は飲むことができたのです。

つまり神様は必要には応えられたのです。求めることが悪いことなら神様は応えもされなかったでしょう。ところが申命記は、あの時のように主を試してはならないといいます。つまり、神様は水を求めたことを非難されているのではなく、何度もしるしを見せられているのに(マサでの出来事は初めてのことではありませんでした)何回でも疑い、背を向けた民に「ここまで奇跡的に守り導いてきて下さった神様を信頼しなさい」ということが申命記の真意です。イエス様は、悪魔に「神様を信頼するということと、いたずらに神様の力を弄ぶようなこととは違う。私は天の父を信頼しているから、神の力をお前に見せ付ける必要はない」という意味でおっしゃったのです。しかしアハズは逆に神様を信頼していないので、この言葉を使いました。神様の行動を待ってはいられない、自分で何とかした方がいい、という気持ちを隠すためにこの宗教的な表現を使ったのです。

本当に信頼出来る方が、イエスという人として来て下さり、「私に求めなさい」と勧めてくださるのに、人は、もっと頼りにならないもの、人間関係、地位、技術、知識、財産、政党、国に期待をかけ、イエス様に求めようとはしません。アハズと同じ態度です。なぜ、それらに魅力を感じ、イエス様には感じられないのでしょうか?それはイエス様が率直に「私に従ってきなさい」と命じられるのに対し、他のものは「あなたの期待に答えますよ」と甘くささやいているからです。それはイエス様を誘惑した悪魔と同じように、あなたを王にすると偽り、実は心を奪い奴隷とさせようとする危険なささやきです。


3) その態度は人間にも、神様にももどかしい思いをさせている(13)

イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りずわたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

神様に切に求めない態度は、人にもどかしい思いをさせます。そのとき、かみさまももどかしい思いをされているのです。一国のリーダーがこのような状態であれば、周りの人々、国民の不安は収まりません。特にイザヤのような預言者や神様を信頼して従おうという人にとっては、耐え難かったのです。神様が信頼しなさい大丈夫だと告げているのにリーダーである王が神様を信頼できずにグズグズしているのです。しかしこのような態度を一番もどかしく思っているのは神様です。聞いても信頼できず。信頼出来ないならしるしを見せようと言われると、もっともらしい理由をつけて見たくないというアハズのような態度を神様はもどかしく思われるのです。神様は一向に聞き従おうとしないアハズではなく、時代を超えて、求める人全てに与えられるしるしを宣言するのです。


4) 決定的なしるしを見て態度を改めよう (14)

それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。

この言葉は、もはや聞く耳を持たないアハズには意味がありませんでした。アハズは結局アッシリアに応援を求め、神様を信頼しようとはしませんでした。結果的にアッシリアはアハズに応えて援軍を送りましたが、やがて後の代にイスラエルもユダも滅びてしまいます。しかしこのしるしは、一人のユダの王、アハズではなく、後の王や国に対するものでもなく、神様にしるしを求める全ての人に与えられたものだったのです。このしるしが実際に表わされるまでに人類はこの時から700年待たなければならなかったのです。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:18-23)

実は神様はクリスマスまで、不在だったというわけではありません。アブラハムにもヤコブにもっモーセにも「わたしはあなたと共にいる」と呼びかけています。神様ははじめから「共にいてくださる」方なのです。それを知らずにいたのは、求めようとしなかったからです。しかし、しるしは与えられました。クリスマスの出来事は私たちに選択を迫ります。アハズのようにインマヌエルという事実を受け入れず、頼りにならないものを頼っていきるのか、それとも共にいてくださる神様に従って生きるのかという選択です。


メッセージのポイント

降誕の出来事についての旧約聖書の中で様々に預言されていますが、ここでのイザヤの預言は、特に「神様が共にいてくださる」という、実は世界の最初から変わらない事実を決定的なしるしによって人々に再確認させる時としてのキリスト降誕を強調しています。私たちの自己中心的な性質は、意識的にあるいは無意識の内に「インマヌエル」という現実を無視して生きるという結果をもたらしていますが、実はあらゆる悩みの原因はこの生き方にあるのです。悩まなくても良いのに悩み、争わなくても良いのに争う古い自分を変えることは、「インマヌエル」を知ることから始まります。2000年前に来られたイエス様は、歴史とあなたの人生を変えるために来られたのです。

話し合いのために
1) しるしとは何ですか?
2) なぜ私たちは、求めようとしないのでしょう?