<メッセージノート>

2013/1/6  
私たちの目指す教会の姿 (使徒言行録 2:42-47)

1) 焦点 (42)


彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。



2) 畏れ (43)

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。



3) 一致 (44,45)


信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。。



4) 神様とともに、人々とともに (46,47)

そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。



メッセージのポイント

教会は人の企てではなく、聖霊の主導によって始まりました。聖霊は、神様の霊、イエス・キリストの霊です。イエス・キリストに従うことを止めてしまえば、それは教会と名乗っても、もはやキリストの体とはいえません。20年目を迎えるユアチャーチの歩みを振り返り感謝なことは、イエス様に従うということについて妥協せずに来られたことです。しかしそれは自動的にそうでいられるものではありません。新しい年を迎えるたびに、聖霊によって整えられた最初の人々の在り方を振り返り、新たな歩みの指針とするのでなければ、私たちは簡単に道を踏み外してしまうでしょう。主を畏れる心をもって、ここで求められていることに熱心に励み、主が見せて下さる様々な多くの素晴らしい収穫を期待して、新しい年を歩み出しましょう。。

話し合いのために
1) 私たちもまた全てのものを共有するべきなのでしょうか?
2) 今年あなたはどのようなことを期待しますか?

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<メッセージ全文>

2013/1/6  
私たちの目指す教会の姿 (使徒言行録 2:42-47)

1) 焦点 (42)


彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

使徒の教えとはどのようなものでしょうか?使徒とは、基本的にはイエス様の12人の弟子のことを指しますが、後に新約聖書に収められている手紙の多くを書いたパウロも使徒として見做されるようになります。使徒の教えの内容は、後にまとめられた「12使徒の遺訓」という文書の元になったものであると考えられます。それは、イエス様を主と信じ、その体(教会)の一部分として歩む人の具体的な生活の指針です。そこには続けて書かれている、相互の交わり(互いに愛し合う)、私達が行なっている聖餐式とポットラックを一緒に行うような「パンを裂く」と表現されている会食、そして熱心に祈ることの勧めは、使徒の教えの中心的内容でした。

‘彼ら’とは、イエス様が昇天されて50日後、聖霊が下り、教会が誕生した日、ペンテコステに、イエス様を主と信じて仲間に加わった約3000人と元からいた120人ほどの人から成る最初の教会のメンバーたちです。この3000人はペトロの「十字架で死に、よみがえられ、天に帰られたイエス様こそ、従うべきあなた方の神、主です」という話を聞いて、それを信じた人々です。しかし使徒言行録は、彼らが何を信じたかということだけではなく、どのように信じたか?信じたことをどのように行動に表したかを記録しています。それが今日のテキストです。ここに、私達が見逃してはならない重要な点があるのです。それは「何を信じているか?」ということだけではなく「どのように信じているか?」ということも重要なことだということです。

日本では、キリスト教会のメンバーは人口の1%以下です。ほぼ毎週、礼拝に出席している人は0.1%とも言われています。しかし、世論調査で「イエス様を信じています。私はクリスチャンです。」と答える人は、5%近くにもなるのです。この差をどう考えたら良いのでしょうか?それは、イエス様を神様だと個人的には信じていれば、イエス様に従って生きていることになると考えている人が4.9%いて、目に見える教会のメンバーとなり責任を果たすということがイエス様に従う上で欠かせないという人は0.1%にとどまっているということです。この事で教会に連なっていない人だけを責めるのは正しくありません。教会の配慮が足らずに、教会に行くことを好まなくなった人々もいるからです。確かに教会は人の集まりで完全ではありません。しかし、教会はキリストの体でもあるのです。だから使徒信条には「きよい公同の教会、聖徒の交わりを信じます」とも告白するのです。そして私たちは、そう告白するのであれば、主イエスに従う者は誰でもキリストの体の、目に見える一つに連なり責任を果たすことを求められていると信じています。
 それは私達にとってはユアチャーチカヴェナントを守ることにあたります。ユアチャーチカヴェナントは何を信じるかではなく、どのように信じるかの告白です。使徒信条にまとめられている「何を」の部分はすべての教会に共通のものです。しかし、「どのように信じるか」の部分はそれぞれの教会によって違いがあって良いのです。またそれは状況によって変更されることがあっても良いのです。もちろんそれは一つ一つの法律が憲法に反してはならないように、「何を信じるか」の部分に反するものであるわけにはいきません。どの教会に属するかの選択は任されています。しかし、目に見える教会のどこにも属さないという選択肢はありません。例年2月の最初の日曜日に、ユアチャーチカヴェナントについてのお話をしています。 私たちはこの約束を1年単位で考えていて、すでにメンバーとなっている者、 牧師もリーダーも皆、毎年心新たに署名をしてユアチャーチの生きて働く部分として歩むことにしているのです。 最近来て下さった方やユアチャーチカヴェナントの約束をしたことのない方はぜひ聞いて、ここが自分の主に仕える場所だと思うならぜひ署名して仲間に加わって下さい。


2) 畏れ (43)

すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。

43節以下は42節をより細かく説明されている部分です。その最初に記録されているのが、「恐れ」です。この恐れと次に書いてある不思議としるしは無関係ではありません。使徒たちがそれらを行ったのは、彼らが超能力者のようなもののであったからではなく、聖霊がそこで働いたからです。確かに神様が働いておられる事による畏れが生じたのです。彼らは超能力を持ったリーダーを怖がって、その教えに従ったのではありません。恐怖は人々から喜びと平安を奪い、正しい判断を出来なくしますが、神様に対する畏れは、反対にそれらを与えてくれます。私たちの内に恐怖は必要ありません。しかし神様に対する畏れがなければ教会としての存在価値はありません。もちろんそんな雰囲気を人工的に作るのでは意味はありません。集まりの大小を問わず、そこに私達が集う時に、心から神様が共にいてくださることを祈り求めるしか方法はありません。不思議やしるしが表わされることも期待したいと思うのです。ぜひ今年も、ワーシップの中で、あるいは礼拝後の祈りのミニストリーの中で聖霊の力が豊かに表わされることを期待しましょう。


3) 一致 (44,45)


信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。。

彼らの心は皆主イエス様に向けられているという点で一致していました。
初代キリスト教会は私有財産を認めない共産主義の元祖だったわけではありません。私有を認めないことと、共有することとは違います。ただ彼らは友の必要のために自分の財産や持ち物を惜しまなかったのです。このことは、初代の教会の「どのように信じたか」の部分です。その仕組まで真似る必要はありません。しかし形ではなく精神においては、ユアチャーチが、この初代教会の理想に一歩でも近づけることを願っています。ここにいる誰でも、ここにいる誰かの助けによって必要が満たされるはずなのに、それが起こらず、飢えている者もいれば、満腹している者がいるような状態があるならイエス様は悲しい顔をなさるはずです。


4) 神様とともに、人々とともに (46,47)

そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

この部分で注目したいのは、彼らが自分たちのすることに大変熱心であった「ので」民衆全体から好意を寄せられていた、という点です。熱心であった「のに」好意を寄せられていたのではありません。私たちは自分たちのすることに熱心すぎると、周りに配慮しなくなって、周りからは、異質なものに思われたり、孤立することを畏れます。実際配慮がなく、近所からの好意を得られない教会もあるのです。しかしこの箇所で、私たちが本当に大切なことに忠実で熱心であるなら、地域社会の中でも喜ばれる存在になれるということ、そして周りから好意を寄せられることには価値がある、ということがわかります。それはインスタントな催しを開いて周りの人々を呼び集めるということではありません。時間がかかることです。その時その時自分たちのできることを着実に進めてゆくことが大切です。「家ごとに集まってパンを裂き」という部分は私達にとってはミニチャーチとよんでいる小さな集まりや、去年始めた小さな子供を持つお父さんの集まり、お母さんの集まりなどがそれに当たるものです。今年も新しいミニチャーチが誕生するでしょう。教会とは、この建物のことでも、この場所で持たれる集まりのことでもありません。皆さんの家に誰かを招いて(家でなくてもファミレスでもスタバでもいいのですが)イエス様が共にいてくださる楽しい時を持つなら、それは互いにとっての良い時になるばかりでなく、イエス様を知らない友達にも、彼を紹介できる良いチャンスになるはずです。

メッセージのポイント

教会は人の企てではなく、聖霊の主導によって始まりました。聖霊は、神様の霊、イエス・キリストの霊です。イエス・キリストに従うことを止めてしまえば、それは教会と名乗っても、もはやキリストの体とはいえません。20年目を迎えるユアチャーチの歩みを振り返り感謝なことは、イエス様に従うということについて妥協せずに来られたことです。しかしそれは自動的にそうでいられるものではありません。新しい年を迎えるたびに、聖霊によって整えられた最初の人々の在り方を振り返り、新たな歩みの指針とするのでなければ、私たちは簡単に道を踏み外してしまうでしょう。主を畏れる心をもって、ここで求められていることに熱心に励み、主が見せて下さる様々な多くの素晴らしい収穫を期待して、新しい年を歩み出しましょう。。

話し合いのために
1) 私たちもまた全てのものを共有するべきなのでしょうか?
2) 今年あなたはどのようなことを期待しますか?