<メッセージノート>

2013/1/20 使徒言行録 3:11-16 
イエスの名


先週から、イエス様の「名」をめぐってお話していますが、今日を含め何回か、その大切さが際立つエピソードを取り扱うことになります。イエス・キリストの「名」に力があるということについて理解を深めましょう。

A. 私たちにもある二つの傾向

1) 誰かを祭り上げ賛美する (11,12)


さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。


2) 正しく理解できずに取り返しのつかないことをしてしまう (13,14)

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。


B. それでも正しく生きるために

1) 聖く正しい方は生きておられる、ということを知る (15)

あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 (I コリント 15:20-23)



2) イエスによる信仰を持つ (16)


あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。


メッセージのポイント

私たちは、助け導いて下さる神様を忘れ、他のものを賞賛したり、取り返しのつかないようなひどいことをしてしまうことがありますが、それでも最後まで歩み続けることができます。それは誰よりも聖く正しい方が共にいてくださるからです。その方によって強められる信念を持ち続けることができるからです。イエス・キリストとともに歩み続けましょう。

話し合いのために
1) なぜ「イエスを」ではなく、「イエスの名」を信じる信仰と言われるのでしょう?
2) イエスによる信仰とはどのような信仰なのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2013/1/20 使徒言行録 3:11-16 
イエスの名


先週から、イエス様の「名」をめぐってお話していますが、今日を含め何回か、その大切さが際立つエピソードを取り扱うことになります。イエス・キリストの「名」に力があるということについて理解を深めましょう。

A. 私たちにもある二つの傾向

1) 誰かを祭り上げ賛美する (11,12)


さて、その男がペトロとヨハネに付きまとっていると、民衆は皆非常に驚いて、「ソロモンの回廊」と呼ばれる所にいる彼らの方へ、一斉に集まって来た。これを見たペトロは、民衆に言った。「イスラエルの人たち、なぜこのことに驚くのですか。また、わたしたちがまるで自分の力や信心によって、この人を歩かせたかのように、なぜ、わたしたちを見つめるのですか。

先週のお話の中で、ペトロに癒してもらった男は神殿での祈りの時をペトロたちが終えても二人に付きまとっていました。何十年もの間、誰も癒すことのできなかった足を癒されたのですから無理もありません。二人が神様のように思えたのでしょう。彼は「イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」と命じられた立ち上がり、歩き始めましたが、まだ「イエス・キリストの名によって」の部分には全く気を留めていないようです。しかし、先週お話ししたように、この部分こそ重要なのです。自分に現された恵みより、それを表してくださった方が一緒にいてくださるという事実のほうが根本的なことだからです。不自由は病にかぎらず生きている限りやってきますが、イエス様と共にいる限り魂の平安は誰にも奪われることはありません。しかし、本当に解放して下さったイエス様のことは誰にも見えません。だからペトロを見つめるのです。この男だけでなく、その様子を見ていた人々、聞きつけて集まってきた人々は皆ペトロの前にひれ伏しそうな勢いで集まってきたのです。あらゆることが神様の許しがあって起きているのに、直接自分に何かをしてくれた人や物を賛美し拝んでしまうのは、人間の共通する性質です。またそのようにして祭り上げられた人も、勘違いして、自分は人がひれ伏すにふさわしい者なのではないかと考えてしまうのです。また権威を持った者は、作為的に神的な権威があると思わせて従わせようとします。昭和初期のこの国の権力者たちは、天皇を神として礼拝し、彼のために喜んで死ぬべきだという考えに、国民を洗脳することに成功しました。この国は暴走し、周りの国々を痛めつけ、最後に焼け野原になって滅びてしまったのです。これこそ、神様の嫌われる偶像礼拝です。そして、犠牲になるのはいつも支配される者たちです。体罰で追い詰められて死を選ばなければならなかった高校生も同じ罪の犠牲者です。

ペトロはここで自分の信者を作ることも出来ました、しかし彼は間違えませんでした。
「私ではなく、私をこのように用いるイエス様を見て欲しい」と勧めたのです。それは他の弟子たちにも共通の態度でした。そして私達が持つべき態度です。眼の前にいる人を見つめるのではなく、その人を生かし用いている神様を思うなら偶像礼拝に陥ることはありません。また自分ではなく私に働く神様を見てほしいと勧め続けるなら、いつかその人の目を自分にではなくイエス様に向けることが出来るでしょう。


2) 正しく理解できずに取り返しのつかないことをしてしまう (13,14)

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、わたしたちの先祖の神は、その僕イエスに栄光をお与えになりました。ところが、あなたがたはこのイエスを引き渡し、ピラトが釈放しようと決めていたのに、その面前でこの方を拒みました。聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求したのです。

イエス様を素直に見上げられない。目が曇って真理を選び取れない。その原因もまた私たち共通の性質からくるものです。イエス様を十字架にかけたのは、神様についての専門家たちでした。ローマ人の政治的支配者はイエス様に何の罪も見いだせませんでしたが、神様の意思を誰よりもよく知っていたはずの宗教家たちが、神様を知らないローマ人より無知だったということです。彼らを無知にしたのは、自分を守りたい、自分の地位を失いたくないという、これもまた私達が共通に持っている残念な性質です。彼らは神様の意思を知りたいと思うより自分たちの特権や利益を守りたいと思ったのです。彼らの権威や地位にとって、イエス様は極めて危険な人物です。弟子の一人だったユダも同じです。せっかくイエス様の素晴らしさにを信じていたのに、イエス様の心を理解できず最後に自分の価値観に従って、取り返しの付かないことをしてしまいます。

この二つの性質を抱えながらどうして私たちは正しく歩むことが出来るのでしょうか?そのことを、15,16節から受け取りましょう。



B. それでも正しく生きるために

1) 聖く正しい方は生きておられる、ということを知る (15)

あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です。

殺してしまった、救いの物語を無残な形で終わりにしてしまった、はずだったのです。しかし旧約聖書が預言していたとおりに「復活」が起こりました。死は何時の時代も、心を鬱がせる深刻な出来事です。現代人はそれを出来るだけ忘れていられるような方法を考えて、普段は忘れようとしています。けれども、死が私達よりもっと短で避けられないものだという思いを強く持っていた聖書の時代の人々は、何時か何らかの形で蘇らせていただけるという期待を神様にかけていました。しかしもちろんそんなことを実際に体験した者はいませんでした。預言者やイエス様の奇蹟によって息を吹き返した人はいたわけですが、それらは一時的なものであって「永遠の命」というものではありません。それが、イエス様の復活によって現実となったのです。パウロはこのことを次のように説明しています


しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 (I コリント 15:20-23)

イエス様の名に力があるのは、イエス様が生きて働いていてくださるからです。その名を信じる者の魂はイエス様と共に永遠に滅びません。私たちは神様がおられ、働いておられるということの証言者であり、証拠なのです。私たちはこの証言を引き継ぎ、また証拠としての生き方を2000年にわたって受け継いできました。いつの時代にも、この証言、証拠を快く思わず、証拠隠滅を図った者がいました。それにもかかわらず、自分の命が奪われても、生き方を変えなかった人々によって、今、私たちにも伝えられています。

伝えられた私達が忠実な証人として、生きた証拠として歩むなら、持って生まれた罪の性質にもかかわらず、誤らずまっすぐに歩むことができます。最後にもう一つの根拠を16節から学びましょう。



2) イエスによる信仰を持つ (16)


あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。それは、その名を信じる信仰によるものです。イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。

今日のテキストで、ペトロは「私たちを、見つめてはいけない」と言っていますが、先週の箇所では「私を見なさい」と言ったことを覚えていますね?ペトロは「見なさい」とは言いましたが「見つめなさい」とは言わないのです。私たちが「私を見なさい」というとき、私たちは、「そこに肉眼では見えないけれどイエス様の名が力を持ってそこにあり、その名を信じる人を通して、その力が現れていることを認めて下さい。」と訴えているのです。それは、言葉は似ていても「私を見つめなさい。私を信じなさい。私に従ってきなさい」ということとは本質的に異なることです。イエス様の名に、必要なら動かしがたいと思われる現実でも変える力があることを信じて下さい。そうすればあなたは「イエスによる信仰」を獲得することになります。「イエスを信じる信仰」ではありません。 心の中で芽生えたけれど、まだほかの誰もそれに気づいていない「イエスを信じる信仰」は信仰のはじめの一歩に過ぎません。「イエスによる信仰」、それはイエスの力によって行動として現れる、人に働きかける、助ける、解放する、癒す、喜びを与えるものなのです。「イエスによる信仰」を働かせて下さい。そうすれば、あなたの歩みが確かなものになるばかりか、ペトロたちのように、多くの人に同じ恵みを分け与えることが出来るようになります。



メッセージのポイント

私たちは、助け導いて下さる神様を忘れ、他のものを賞賛したり、取り返しのつかないようなひどいことをしてしまうことがありますが、それでも最後まで歩み続けることができます。それは誰よりも聖く正しい方が共にいてくださるからです。その方によって強められる信念を持ち続けることができるからです。イエス・キリストとともに歩み続けましょう。

話し合いのために
1) なぜ「イエスを」ではなく、「イエスの名」を信じる信仰と言われるのでしょう?
2) イエスによる信仰とはどのような信仰なのでしょうか?