<メッセージノート>

2013/1/27 使徒言行録3:17-26
悔い改めて立ち帰る



A. 神に近付くために知るべきこと

1) 十字架の出来事の二面性 (17,18)


17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。


2) 悔い改めて立ち帰る (19)

19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。



B. 預言者:神の意志を伝える者

1) 預言者たちは「今のとき」を預言していた (20-24)

20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています



2) 悪から離れ、神に祝福されなさい (25,26)


25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。
26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」


メッセージのポイント

私たちは、イエス様が十字架で死に三日目によみがえり天に帰られた、という既に起こった一連の出来事とイエス様が再びこられる最後の時の間に生きています。神様はこの時代に生きる全ての人に対して、悔い改めて神様に立ち帰ること、悪から離れ、祝福に与ることを期待しておられます。

話し合いのために
1) 悔い改めるとはどういうことですか?
2) 十字架の意味にはどのような二面性があるのですか?

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<メッセージ全文>

2013/1/27 使徒言行録3:17-26
悔い改めて立ち帰る



A. 神に近付くために知るべきこと

1) 十字架の出来事の二面性 (17,18)


17 ところで、兄弟たち、あなたがたがあんなことをしてしまったのは、指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています。
18 しかし、神はすべての預言者の口を通して予告しておられたメシアの苦しみを、このようにして実現なさったのです。

先週、人の持っている自己中心的な性質が、弱い者を苦しめるということに触れました。では、権力を持った者、強い者だけが問題なのかというとそうではありません。私たちは、間違った権威に従ってしまう無知、知っていても逆らうことのできない弱さによって、自分よりも弱い者が苦しむことに加担してしまう者であることを自覚しなければなりません。学校などで起こる「いじめ」で、いじめる側の多くは自分が標的にされることを恐れて、いじめる側にいるのです。聖書の教える「無知の本質」は、自分が神に似た姿につくられた被造物であることを認めないことです。父よ、神よ、と呼び求めて助けを求める事ができるにも関わらず、人を盲信したり、恐れて従ったりしてしまう者です。神様はこのことをペトロ以上によく分かっています。だからこそ、避けようとせず十字架にかかられたのです。十字架は私達のどうしようもない愚かさ、弱さだけを示しているのではありません。同時に、人の意志とは関係なく最初から定められていた神様の計画でもありました。しかし、そのどちらであれ一面だけしか見ないなら、十字架を誤解することになります。それは受けられるはずの恵みを得られないことを意味します。十字架を人の愚かさの極みとしてしか見ないなら、そこから人を救い出すことの出来る神様を見ないなら、私たちはどんなことをしてもこの愚かさと弱さから抜け出すことはできません。また、自分の愚かさを真剣に受け取らず、自分が何をしていても、神様がハッピーエンドに導いてくれると思っているなら、その期待は裏切られることになります。

神様はご自身がイエスという一人の人としてこの苦しみをただ一人でその身に受けて苦しみ死なれることによって、正反対のように見える十字架の二つの意味を結び付けられました。だから私達が従ってゆく価値があるのは、人が祭り上げた様々なメシア的人物ではなく、世界の外側から見下ろしている遠い神様でもなく、人となった神様、イエス・キリスト以外にはありません。



2) 悔い改めて立ち帰る (19)


19 だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい。
どうしたら罪深い人間が、聖い神様との関係を回復することが出来るのでしょうか?関係を作るのではなく、アダムの時に壊された関係を取り戻す。だから「立ち帰る」なのです。このことは今読んだ通り「悔い改める」ことによってできることです。聞きなれない言葉ですが、難しい意味ではありません。今までの歩みを悔いて改める、この二つの漢字の意味の通りです。偶像視していた物事から離れて、イエス様に従うということです。そうするならば、過去の事柄はもう問われないというのです。もっとも悔いるという決心も、改めるという行動も、神様の霊、聖霊の働きがなければできないことです。ですから、あなたが心にかけている人がまだ悔い改めてイエス様に従う必要を感じていないなら、聖霊が働いてくださるように祈り、あなたが与えられている愛を尽くしましょう。イエス様を知りたいと思っているけれど、今ひとつピンとこない人は「聖霊よ、私の心に働いて教えてください」と祈ってみて下さい。


B. 預言者:神の意志を伝える者

1) 預言者たちは「今のとき」を預言していた (20-24)

20 こうして、主のもとから慰めの時が訪れ、主はあなたがたのために前もって決めておられた、メシアであるイエスを遣わしてくださるのです。
21 このイエスは、神が聖なる預言者たちの口を通して昔から語られた、万物が新しくなるその時まで、必ず天にとどまることになっています。
22 モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え。
23 この預言者に耳を傾けない者は皆、民の中から滅ぼし絶やされる。』
24 預言者は皆、サムエルをはじめその後に預言した者も、今の時について告げています


イエス様がそうされたように、初代教会のリーダーとなった弟子たちも、旧約聖書を引用して教えています。 ここで引用されているのは申命記の18章です。 旧約聖書はおおまかに内容的に分けられて、律法、歴史書、文学(詩と知恵)、預言の順に配置されています。それはユダヤ教の教典でした。イエス様を救い主と認めないユダヤ教は、もちろん新約聖書を認めません。イスラムも旧約聖書に尊敬を払っています。イスラームにとってイエス様は偉大な預言者の一人として尊敬されています。イエス様を主、神と信じる私たちは、旧約聖書全体を、預言的にイエス様を証していると考えます。ペトロは、ユダヤ人たちに「イエス様こそ、あなたがたが尊敬する預言者たちの教えによって、その登場を期待していたメシア=救い主だった」ということを伝えようとしています。私たちには選択が任されています。新約聖書のメッセージを受け入れてイエス様を主と信じ従うことも、ただ偉人として尊敬することも、彼を認めず誰かを信じることも、誰も信じないで自分だけを信じることも自由です。あなたが、誰からの束縛も受けない自分だけを信じて幸せなら、私から言うことは何もありません、しかし、自分の限界を知っていて誰かに頼るべきなら、迷わず勧めます。イエス様を信じて従いましょう。自分の欲望に負けてイエス様から去っていった人なら知っています。教会に失望してイエス様から去った人も知っています。けれどもイエス様が嫌いになって、彼から去った人を私は知りません



2) 悪から離れ、神に祝福されなさい (25,26)


25 あなたがたは預言者の子孫であり、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です。『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。
26 それで、神は御自分の僕を立て、まず、あなたがたのもとに遣わしてくださったのです。それは、あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」

ペトロはここで、なぜ神様はイエスという一人の人として来られたのか?なぜ人はイエス様を主と信じ、その教えに従うべきなのか?という2つの問いをシンプルに答えています。
神様はアブラハムと祝福の契約を結びました(創世記12:3)が、それはアブラハムの子孫に及ぶだけのものではなく、すべての民に及ぶものとなることが、すでにそこで約束されていました。ただ、そのキーパーソンは彼の子孫にあたる者であるということも決められていたのです。旧約時代の歴史は、恵み→背信→悔い改めの繰り返しの歴史です。そこまではとても祝福の民とはいえない歩みをして来たのです。そして民族はあっても国としてはほとんど滅びてしまっていたのが2000年前のイスラエルです。神様は何度背かれても赦され恵んだとも言えます。人は何度恵まれても背いたとも言えます。また人は背いても何度も悔い改めたとも言えます。神様はこの連鎖を永遠に続けるつもりはありませんでした。私達もまたイエス様を信じるまで、旧約聖書的な歩みをして来ました。しかしそこでは、悪から離れることはできず、平安も、祝福もありませんでした。礼拝によって、祈りによってもっとイエス様に近づきましょう、離れずについてゆきましょう。まだあなたがそうしていないなら、悔い改めて立ち返りましょう。悪に左右されない祝福された人生を歩みましょう。



メッセージのポイント

私たちは、イエス様が十字架で死に三日目によみがえり天に帰られた、という既に起こった一連の出来事とイエス様が再びこられる最後の時の間に生きています。神様はこの時代に生きる全ての人に対して、悔い改めて神様に立ち帰ること、悪から離れ、祝福に与ることを期待しておられます。

話し合いのために
1) 悔い改めるとはどういうことですか?
2) 十字架の意味にはどのような二面性があるのですか?