<メッセージノート>

2013/2/3
ユアチャーチカヴェナント



1) 神様を愛す  

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)




2) 互いに愛しあう


イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)




3) 世界を愛す


「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)



メッセージのポイント
ユアチャーチは愛するために存在しています。愛は好きという感情でもなければ、独占したいという欲望でもありません。むしろそれらの感情や欲望が、愛することは難しくするのです。この難しいことを可能にしてくれるのが神様の愛です。神様は本当に愛するということを、イエス・キリストとして十字架の上で身をもって現されました。そして私に従いなさいと言われます。彼に従って歩む時に、少しづつ愛することが出来るようになります。愛を異なる3つの方向性から説明しましたが。それは切り離せない一つのことです。神を愛さない人は本当に人を愛することはできません。人を愛さないなら、どんなに神様に熱心でも神様を愛していることにはなりません。また、私達が互いに愛し合わないなら、誰がそんな人達の信じる神様の愛を求めるでしょうか?カヴェナントは人生で最も重要な事柄についての自分の決意です。

話し合いのために
1) なぜ私たちは一年ごとにカヴェナントに署名するのでしょうか?
2) なぜ人を愛していないなら、神様を愛しているとはいえないのですか?

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<メッセージ全文>

2013/2/3
ユアチャーチカヴェナント


ユアチャーチカベナントは「愛」の誓いです。はじめに「愛」とは何かということを知っていなければ話しになりません。愛って何ですか?神様を形容した最も短い言葉は「愛」です。愛という漢字は、人に物を与えるという意味から始まって、その人を大事にすることという意味に使われ、その人が「好き」という意味で使われるようになりました。英語のLoveの語源も、誰かを喜ばすことを意味する北欧系の古語だと言われています。どちらも今では「大好き」という自分の気持を表す言葉として使われるのが普通です。ところが自分の「大好き」という気持だけに従って生きるなら、人を喜ばせるのではなく、悲しませる傷つけることになりがちです。そうなると「愛」は一番基本的な意味を失う事になってしまいます。この使い方でいうなら、神様は私たちのことが大好き、ということになりますが、神様の愛は語源の意味に近いのです。私達が喜んで生きるために、御自身の犠牲を厭わない方、それが十字架で苦しまれた私たちの主、イエス・キリストです。新約聖書が書かれたギリシャ語には、「愛」と現代語に訳している言葉が複数あって、意味によって使い分けられています。その代表的なものは「エロース」と「アガペー」です。「エロース」は想像できると思いますが、欲望に近いものです。それは自分の「好き」という気持ちを表す言葉で、自分の手に入れようとする方向性を持っています。求める愛と言ってもいいでしょう。 それに対して「アガペー」は、見返りを求めない。それどころか、その人の喜び、幸せのために犠牲を払うことを惜しまない、手放して与えようとする「エロース」とは正反対の方向性を持つ、「与える愛」です。聖書が愛しなさいという時、それはもちろん「アガペー」を指しています。ところがこの愛は、私たちの内側に自然にあるものではないのです。そうであれば世界は神様がいなくても誰もが平安で幸せであるはずです。ヨハネの手紙1、4章に、愛である神様との関係の中で愛されていることを知り、愛することが出来るようになる、と書かれています。だから、愛が私たちのうちに現実となるためには、誰よりも神様との関係をを大切に育まなければなりません。そしてそれは神様を礼拝するということが生活の中で最優先順位にあるということを意味しています。


1) 私たちは礼拝を生活の中で最優先することと十分の一の献げ物によって神様を愛し神様に仕えます  

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)

a. 礼拝の大切さを知る
礼拝は神様と親密に過ごす時です。礼拝という言葉には,神様の前に出てひざまずくことから、手を叩いて賛美する、立ち上がってほめたたえる、神様に向かって歌う、神様のことばに耳を傾けるなど様々な意味が込められています。単に日曜日の朝、教会で行う集まりということではありません。ここでなくても、どこでも、誰とでも、一人でも礼拝出来るのです。それは日曜日の朝を大切にしなくても良いということではありません。日曜日の朝、多くの人とともに献げる礼拝を一番大切にすることはいうまでもありません。それはイエス様がよみがえられたことを覚えて、新しい週の歩みを始める上で、欠かすことのできない時だからです。礼拝は、神様と私たちのコミュニケーションの時です。それは一方通行のものではありません。歌や祈りによって私達からなされるとともに、神様からの言葉が語られるだけでなく、慰め、励まし、癒しが聖霊の働きとして一人ひとりに届く時です。大切なのは形ではありません。大切なのは、私たちが心をこめて献げることであり、神様がそれに応えて御自身を表してくださること知ることです。


b. 献げもの
自分の持っているものを神様の働きのために献げる。それは神様への愛を表す一つの方法です。多くの教会では日曜日の礼拝のプログラムの中で献金の時があります。私たちも献金が、私たちの捧げる礼拝の一部だと信じていますが、メンバーではない方も多く来てくださっているので、気兼ねなさらないですむように、献金の時間はありません。用意がある人が自分で献げられるようにBOXを置くだけにしているのです。
私たちは一人一人が収入の1/10をささげることを聖書が教えている(マラキ3:10)と信じています。ですからメンバーになりたい人にはこのことを求めます。キリスト教会の中にはそう信じていない教会もありますから、このことを信じられない人はそういう教会のメンバーになることをお勧めします。ただ、聖書はこの基準とともに、誰かに強制されてではなく自発的なものであるべき(2コリント9:6,7)とも教えています。ユアチャーチのリーダーたちは誰にいくら収入があり、いくら捧げているということを知りませんし、知るつもりもありません。これはひとりひとりと神様との契約なのです。今、基準をクリアしているかどうかが問題なのではありません。ただ、神様はマラキを通して、「これによって私を試してみよ」といわれているのですからクリアすることを目指すべきだと思います。
キリストの体である教会もこの社会に存在する以上コストがかかります。メンバーが誠実にささげる額が、ユアチャーチが神様の働きのために使える金額であるということです。
気をつけなければならないことは、お金には私たちをつまずかせる力があるということです。お金の使い方には個性があります。ある人にとっては有意義な使い方と思えても、それがある人にとっては無駄遣と思えるのです。ですから、皆が教会の方針や会計の原則を理解していて、それに従って支出されること。何よりも、会計がオープンであることが大切です。メンバーには毎月、会計の報告がなされます。リーダーは、皆さんが献げる献金を注意深く取り扱い、神様の働きという目的のために用いることを約束します。ここで詳しくお話する時間はありませんが、いつでも質問して下さい。また、ウエッブサイトには「信仰とヴィジョン」という部分の3−5に書かれているので読んでみて下さい。


2) 私たちは惜しみなく分かち与えることによって互いに愛し仕えあいます


イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)


a. チームとしてのユアチャーチ
私たちは、他の人とのつながりを持たずに、ひとりで神様に従ってゆくようにデザインされてはいません。互いに良いところを出しあい、足りないところを補い合って、神様の働きを担ってゆくのです(詳しくは ローマの信徒への手紙の12章、コリントの信徒への手紙 I の12章を読んでみて下さい)。イエス様が地上での働きを始めるに当たって、最初にしたことはチーム作りでした。スポーツのチームが良い成績を上げるために大切なのはチームワークです。どんなに才能のあるメンバーがいても、チームとしてもまとまりがなければゲームに勝つことはできません。一人のスーパースターがいても、その人が徹底的にマークされたり、故障すれば活躍することはできません。それより一人一人は秀でていなくても、皆が献身的に働くチームのほうが強いのです。

b. 愛しあい、仕えあって成長する
礼拝は神様に自分自身を献げる場です。神様ではない誰かと会うことが目的ではありません。このことを大切に考えれば、互いに愛しあう・仕え合うという部分については他の機会を求めなければなりません。ユアチャーチの最も大切な交わりは週に1回少人数で集うミニチャーチです。できるだけ多様なグループを週日の様々な時間に用意したいと思っています。どのミニチャーチに集うかは自由ですが、メンバーは誰もがどれか一つのミニチャーチに属することを期待されています。ミニチャーチは親密な雰囲気の中で、必要な癒し・慰め・励まし・アドヴァイスが得られ、礼拝で受け取ったメッセージを日常生活に活かすこと、互いに愛し合うこと、仕え合うこと、世界に仕えるということが自然にできるようになる
グループです。残念ながら、いまミニチャーチは十分に機能していません。参加できる人が極少数なのです。忙しい、場所がないということでしょうか?しかし、それでは仕え合うことが十分にはできません。もっと新しいやり方があるのかもしれません。そうであるなら、私たちが霊的に窒息してしまわないうちに、私たちらしいミニチャーチ、仕え合うベースを見出しましょう。私はスカイプやフェイスブックで実際に集まることが毎週ではなくても必要な交わりを可能にすることができるのではないかと考えています



3) 私たちは神様の世界に対する働きを担い、様々な働きを支援することによって世界を愛し世界に仕えます


「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)

a. 教会の様々な働きに加わる
ユアチャーチは、その組織や建物を守るために存在しているのではありません。神様の働きを行うために存在しています。だから、建物をピカピカに磨き上げるティームを作る必要はありません。教会に来てくださった方が快適に過ごせるように、清潔になっていればよいのです。また、日曜日の礼拝を行うためにも様々な準備があります。週報などの印刷物を整えたり、音楽や映像を担当したり、ウエッブサイトを管理したり、子供の教会を導いたり、これらの仕事はカヴェナントメンバーが分担しています。

b. キリストの香りとなって、その人が神様との関係を回復する手助けをする
けれども、カヴェナントメンバーはさらに大切な働きを期待されています。月曜から土曜日の間、神様がユアチャーチに与えられた愛の働きの一部を担っているということです。ここがユアチャーチではありません。カヴェナントメンバーがいるところにユアチャーチはあるのです。そこであなたが悲しむ人とともに悲しみ、喜ぶ人とともに喜ぶ時、その人の必要を満たす時、慰め、励まし、助け起こす時に、神様はあなたを通して働いているのです。
また私たちは、募金や献品等によって、自分が行ったことのない場所の会ったことのない人々の助けとなるということも出来ます。ユアチャーチではこれまで、津波の被害にあったスリランカの子どもたちや、エイズに感染したインドネシアの子どもたちのために、外で自由に遊ぶことのできない福島の放射線被害を受けた地域の子どもたちを支える働きに協力して来ました。

まだイエスキリストを自分の救い主として信じる決心をしていない皆さんにお勧めします。あなたも地の塩、世の光として生きる決心をしませんか?多くの人は、あなたがその人に都合良くあってほしいと願います。善意の人は、あなたがあなた自身の思い通りに生きられることを願ってくれるでしょう。しかしイエス様は、愛に生きるために、地の塩として、世の光として生きるために、私に従いなさいと勧められます。ここにいるクリスチャンたちは、このキリストの言葉に従って歩み出した人々です。あなたも十字架の死と復活を信じて、罪を赦された者としてイエスキリストに従ってゆく決心をして下さい。  
ユアチャーチ以外の教会のメンバーの方にお勧めします。共に礼拝を守れたことをうれしく思います。新しい年、所属しているキリストの体の一部として地の塩、世の光として成長し、さらに活躍して下さい。もし特別な事情があってそこに身を置きにくい状況であるのだとしたら、関係を修復するか、新しい体に属するかを求めて歩みを進めて下さい。  
教会に属していないクリスチャンの方にお勧めします。神様はクリスチャンを例外なく、キリストの体の一部であることを求めておられます。それは抽象的に見えない一つの教会を意味しているのではなく、地域に存在しているそれぞれの教会のことです。あなたが自分をクリスチャンだと思うなら、目に見える一つの教会に仕えることを神様は求めておられます。ユアチャーチが自分の属すべきキリストの体だと思うならどうかカヴェナントメンバーに加わって下さい。このカヴェナントに同意することができないとしたら、それはそれで良いのです。神様はあなたにもっとふさわしい教会を用意していて下さるはずですから、あなたにふさわしい教会を見つけることをお手伝いします。  
最後に、去年カヴェナントに署名して下さった皆さんにお勧めします。皆さんは誠実にカヴェナントメンバーとして歩んで下さいました。神様はそれに応えて皆さんを成長させて下さいました。神様は今年皆さんがさらにもう一歩前進することを望んでおられます。礼拝において、ささげることにおいて、愛し合うこと仕え合うことにおいて、働きを担うことにおいて、遣わされた場所で塩となり光となることにおいて、もう一歩前進することを誓って署名して下さい。


メッセージのポイント
ユアチャーチは愛するために存在しています。愛は好きという感情でもなければ、独占したいという欲望でもありません。むしろそれらの感情や欲望が、愛することは難しくするのです。この難しいことを可能にしてくれるのが神様の愛です。神様は本当に愛するということを、イエス・キリストとして十字架の上で身をもって現されました。そして私に従いなさいと言われます。彼に従って歩む時に、少しづつ愛することが出来るようになります。愛を異なる3つの方向性から説明しましたが。それは切り離せない一つのことです。神を愛さない人は本当に人を愛することはできません。人を愛さないなら、どんなに神様に熱心でも神様を愛していることにはなりません。また、私達が互いに愛し合わないなら、誰がそんな人達の信じる神様の愛を求めるでしょうか?カヴェナントは人生で最も重要な事柄についての自分の決意です。

話し合いのために
1) なぜ私たちは一年ごとにカヴェナントに署名するのでしょうか?
2) なぜ人を愛していないなら、神様を愛しているとはいえないのですか?