<メッセージノート>

2013/3/24 受難週
罪の歴史の総決算(世界史 第一部の終章)

A 最後の一週間の教え
24
日 日曜日 (マタイ21:1-11)
1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



25
日 月曜日 (マタイ22:34-40)
34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」



26
日 火曜日 (マタイ25:31-46)
31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
33 羊を右に、山羊を左に置く。
34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」



27
日 水曜日 (マタイ26:6-13)
6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」



28
日 木曜日 (ヨハネ13:1-17)
1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。



B
十字架で流された血の意味
29
日 金曜日 (イザヤ53:1-6, マタイ26:26-28, ヨハネ6:53-56)




C
暗黒の土曜日にイエス様がしていたこと
30
日 土曜日 (1ペトロ3:19,4:6)
18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。


6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 マタ 7:21-23




メッセージのポイント
聖書を神様の言葉と信じるなら、歴史は天地創造からイエス様の十字架の死に至る第一部と、復活から終末に至る第二部に分かれていると考えられます。それぞれの福音書が様々な角度からこの第一部最後の一週間を記録しているので、今週は毎日少しづつこの部分を読み、イエス様の苦しみについて深く心に留める時としましょう。特に、イエス様の流された血の意味を知り、赦されている喜びが、神様ご自身の苦しみの代価によって得られたものであることを知り、黄泉に下って宣教されたイエス様に信頼して、イエス様を知ることなく世を去った人々についても希望を持ちましょう。


話し合いのために
1) この週の出来事のうち、十字架の出来事以外に最も印象深く感じるのは?
2) イエス様の流された血にはどのような意味がありますか?

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<メッセージ全文>

2013/03/24 受難週
罪の歴史の総決算(世界史第一部の終章)

A 最後の一週間の教え (マタイ21:1-11, 22:34-40, 25:31-46, 26:6-13, ヨハネ13:1-17)

イエス様は30歳の頃、弟子たちを集め、人々に教えることを始められました。その歩みは十字架にかかられるまで3年と少しだったと考えられています。その最後の一週間を記念するのが、今日から始まる受難週です。イエス様を神と信じ彼に従って歩む者にとって、最も大切に過ごすべき一週間です。

聖書は旧約聖書と新約聖書に分かれていますが、おおまかに言えば、それぞれ人類の歴史の第一部と第二部とも言えます。しかし厳密に言うならイエス様が十字架にかかって亡くなられたところまでが第一部、イエス様がよみがえられて新しい歴史が始まったというのが正確です。なぜなら、イエス様が赤ちゃんとして誕生したクリスマスで私たちの罪が精算されたのではなく、十字架によって精算され、復活によって私たちもまた新しく生きる者とされたからです。世の中ではクリスマスのほうが人気がありますが、本当は十字架、イースターのほうが重要な出来事なのです。 それぞれの福音書が、この最後の一週間をそれ以外の箇所に比べて綿密に記録しています。それはイエス様がこの最後の週に、三年にわたって教えてこられたことの集大成として、重要な点を語られたからです。

そこで今週はぜひ、今日紹介する箇所を丁寧に読みながら過ごしていただきたいと思います。それに加えて、イエス様の苦しみを覚えるために、今週は何か好きな物事を我慢するというのも良いことです。毎日おやつを楽しみにしている人なら今週は我慢するとか、コーヒー好きならそれを飲まないといったことです。それでは、今日から読んでいただきたい箇所を紹介してゆきましょう。

今日は家に帰ったら、マタイの21章1-11節を読みましょう。イエス様がエルサレムに入る様子が描かれています。人々は大歓迎します。5節はゼカリア書9:9        と9節は詩編118:25が引かれています。旧約の預言が実現したということです。「ダビデの子にホサナ」とありますが、イスラエル人は救い主がダビデの子孫から生まれると信じて、イエス様もその末裔であったので期待されていたわけです。人々は救って下さい(ホサナ)と叫びながらイエス様を迎え入れます。イエス様がクーデターを起こして国王になってくれる、と誤解していました。皆さんはイエス様をどのような方として心にお迎えするのでしょうか?

1 一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、
2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。
3 もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」
4 それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
5 「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
6 弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、
7 ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。
8 大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。
9 そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
10 イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。
11 そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。



月曜日は同じマタイの22:34-40

34 ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。
35 そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。
36 「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」
37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
38 これが最も重要な第一の掟である。
39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』
40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」


ここは、神様の戒めの中心が何かということを再確認させてくれるところです。それは、全身全霊を尽くして神様を愛することと隣人を自分のように愛することです。イエス様は自分の命を捨ててまで、あなたが本当に愛する人になることを願っておられます。


火曜日は25章31-46です。前日の月曜日に読んだ大切な二つの戒めが実は一つのことであったことが分かります。小さい者、弱い者を愛し手を差し伸べない者は神様を愛していえることにはなりません。どんなに恵まれた礼拝を捧げても、人々を愛さなければ、神様は私たちに愛されているとはお考えにならないのです。

31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
33 羊を右に、山羊を左に置く。
34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』
44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」


水曜日の箇所は 26:6-13です。ここから、イエス様にすることが出来る良いこととは人の常識とは異なるということが分かります。貧しい人々を助けることはイエス様ご自身が勧めていたことでもありました。ここでイエス様の頭に香油を注いだ女に、弟子たちはかつてイエス様が勧めた貧しい人への施しを引き合いに出して非難しています。イエス様も同調されると思い込んでいたのでしょう。しかし、イエス様の答えは以外なものでした。彼女のしたことには重要な意味と価値があると言われたのです。だれの目にもかなうことではなく、イエス様が何を私に望まれるのか一人一人が真剣に祈り求めるべきことです。

6 さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、
7 一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。
9 高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
10 イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
12 この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。
13 はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」



木曜日はヨハネ13:1-17です。この日の夕食が終わった時、イエス様は、弟子たちの足を洗い、拭いたことがことが記されています。上着を脱ぎ腰に手ぬぐいをまとってとありますが、それはまるで召使の立ち居振る舞いなのです。イエス様ご自身が主人に仕える奴隷のように、順番に弟子たちの足を洗われた様子に弟子たちは衝撃を受けました。イエス様に従う者のリーダーシップは独特です、それは下僕のように仕えるリーダーシップです。

1 さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。
2 夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。
3 イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
4 食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。
6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。
7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。
8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。
9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」
10 イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」
11 イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。
12 さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
13 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。
14 ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。
15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
16 はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
17 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。


B
十字架で流された血の意味 (イザヤ53:1-6, マタイ26:26-28, ヨハネ6:53-56)

金曜日は、受難週の中でも特に大切に過ごしていただきたい日です。PAWSでもイエス様の十字架に焦点を当てて歌い、特別に十字架についての短いお話もするつもりですので、どうかいつもPAWSに来られない方もぜひいらして下さい。この日に読んでいただきたい箇所を紹介します。まず、イザヤ53:1-6です。イザヤもこのように預言していたのです。罪深い私たちが、罪のない神の子とされて日々を幸せに送れるのは、イエス様が犠牲となって苦しんでくださったからです。イエス様御自身もこの日が来ること知っておられました。そしてこの出来事が、すべての人にとって大変重要であることを忘れないために、聖餐式を守ることを教えられました。マタイによる福音書26:26-28です。しかしこの大事なことを伝えると、最初の弟子たち以外の多くの人はイエス様を離れてゆきました ヨハネ6:53-56です。しゅろの日曜日にイエス様を歓迎した人々も、ここで、イエス様を見限った元弟子たちも同じ誤解をしていました。イエス様は自分の思いを叶えてくれる預言者だという誤解です。それは、現代人が宗教に求める間違った期待と同じものです。できるだけ願っていることを実現してゆくことが幸せなのだという誤解です。どんなに物事が思いどおりになっても、私たちの根本的な不安は消えません。つながるところにつながっていなければ、問題はあり続けるのです。神様に背を向ける生き方を自分で変えることはできません。それほど深刻な汚れを身に負っているともいえます。この深刻な負債を引き受けてゼロにしてくれるのがイエス様の血の契約としての十字架だったのです。


C
暗黒の土曜日にイエス様がしていたこと (1ペトロ3:19,4:6)

私たちが告白する使徒信条にイエス様の十字架の死と復活の間に「よみにくだり」とあります。イエス様は十字架と復活との間で読みにくだり何をなさっていたのでしょうか?ここに、救いについての誤解を解く鍵と、私たちの希望があるのです。この出来事について聖書はほとんど沈黙していますが、ペトロが説明してくれています。


18 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。
19 そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。


6 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。


黄泉に置かれているのはノアの時代の人ばかりではありません。どの時代のどの国にも,神様に従わなかった者が多くいます。そのような人々にイエス様は黄泉に下り直接会って、私に従ってきなさいと勧めて下さるのです。ある人々は、生きている間にイエス様を主と受け入れなければ地獄に落ちるしかないと教えています。彼らは、そのような教えの影響から、すべての人に良い知らせを宣べ伝えなさい、というイエス様の教えを、人々を、その人が生きている間に「イエス様は主」と告白させることだと勘違いしています。自分が地獄に行きたくないからイエス様を信じるという発想自体が間違っています。イエス様のように愛するものとして生きたいという願いから、従う者となるのです。イエス様が主と信じ、主よとイエス様を呼んでも、それが天国行きの保証になるわけではないことは、イエス様御自身の言葉からも明らかです。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」 マタ 7:21-23


教会は天国行きの切符を販売するところではりません。イエス様の体の一部となるためにあるのです。この地上で信じることができなかった人々について心配する必要はありません。信じていた人もいなかった人も、皆、終わりの日にイエス様の前に立ちます。あなたからそのことを聞かされていた人は、自分が生きている間に信じなかったことを悔やむでしょうが、あなたの言っていたことは本当だったのだと気付き従う者となれるのです。私たちも主の前に立つのです。皆さんは、主の前に立つ時なんと言う事ができるでしょうか?「私はクリスチャンとして良いことを沢山しました、悪いこともしたかったけれど我慢しました。私のために備えられている天の住まいは、平均的なクリスチャンより立派なものですよね?」と考えていたとしたら、イエス様に「私はあなたを知らない、あなたの主は私ではなく物欲ではありませんか?」と言われてしまいます。私たちが答えられるとしたら、「憐れみによって赦されて以来、最善を尽くそうとしてきましたが、いつもそうできたわけではありません。あなたをたくさん悲しませてきました。どうぞ憐れんで下さい。あなたのそばにおいて下さい」と言う以外にないでしょう。それが真心からのものであれば、その答えは受け入れられます。イエス様を主と受け入れることなく亡くなった方、もしかしたら受け入れられないままでこの世を去るかもしれないと心配な方のことは、どうかイエス様にお任せして下さい。

メッセージのポイント
聖書を神様の言葉と信じるなら、歴史は天地創造からイエス様の十字架の死に至る第一部と、復活から終末に至る第二部に分かれていると考えられます。それぞれの福音書が様々な角度からこの第一部最後の一週間を記録しているので、今週は毎日少しづつこの部分を読み、イエス様の苦しみについて深く心に留める時としましょう。特に、イエス様の流された血の意味を知り、赦されている喜びが、神様ご自身の苦しみの代価によって得られたものであることを知り、黄泉に下って宣教されたイエス様に信頼して、イエス様を知ることなく世を去った人々についても希望を持ちましょう。


話し合いのために
1) この週の出来事のうち、十字架の出来事以外に最も印象深く感じるのは?
2) イエス様の流された血にはどのような意味がありますか?