<メッセージノート>

2013/04/28 使徒言行録7:46-60
ステファノの殉教 

A. ステファノのメッセージの結論


1)
神の民は、神に逆らい続けた民だった (46-51)

ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(46-51)




2) 殺してしまった方によって救われる (52,53)

いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」(52,53)




B. ステファノの最後

1) 聖霊に満たされて世の歩みを終えたステファノ (54-56)

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(54-56)



2) 責める気も、裁く気もなく、ただ思い直して欲しかったステファノ (57-60)

人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(57-60)



メッセージのポイント
預言者を迫害し、救い主を殺してしまったのはユダヤ人ですが、すべての人が同じ性質を持っています。同罪です。今でも狭いナショナリズムが、すべての人と愛し合うことを願う、神様の意思に逆らって、憎悪を煽り立てています。例外といえる国はありません。キリスト教国といわれている国々でさえ同じです。かつてのユダヤ人は選民であることを誇り、周りの国々の人々を異邦人として軽蔑していましたが、私たちの国にも同じ空気が流れています。世の中がどんなに憎みあっても、私たちは巻き込まれてはいけません。地上の国籍に価値の違いはありません。ステファノは殺されてしまいましたが、最後までイエス様に従う者らしく穏やかに、自分に向かって石を投げつけてくる者に主の憐れみを求めて地上での歩みを終えました。


話し合いのために
1) ステファノのメッセージの結論は?
2) ステファノは自分に向かって石を投げつけている人々をどう見ていたのですか?

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<メッセージ全文>

2013/04/28 使徒言行録7:46-60
ステファノの殉教 

A. ステファノのメッセージの結論


1)
神の民は、神に逆らい続けた民だった (46-51)

ダビデは神の御心に適い、ヤコブの家のために神の住まいが欲しいと願っていましたが、神のために家を建てたのはソロモンでした。けれども、いと高き方は人の手で造ったようなものにはお住みになりません。これは、預言者も言っているとおりです。『主は言われる。「天はわたしの王座、地はわたしの足台。お前たちは、わたしにどんな家を建ててくれると言うのか。わたしの憩う場所はどこにあるのか。これらはすべて、わたしの手が造ったものではないか。」』かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。(46-51)


ダビデが王になると、国は安定しました。もう神の箱を持ち歩くのではなく、立派な建物を立ててその中に安置しようとダビデは考えました。しかし人が神様の家を作りそこで祀ろうとすること自体が間違っていることが、このステファノが引用しているイザヤ書66章でわかります。神様は神殿を建てたがったダビデにも直接警告していました。また預言者エレミアを通しても警告しています。けれどもダビデの子ソロモンは神殿を建設してしまいます。そして、ソロモンの次の時代には早くも国は早くも分裂してしまいます。神の民の歴史は、律法の間違った解釈によって道を誤り、何度も預言者を送ってそれを正そうとする神様に耳を貸さず、イエス様が来られるときまでそれを繰り返して来ました。神様は人々が神殿を作れば、彼らの心は、神様ご自身からは離れて、目に見える神殿自体やそこで行われる祭儀を守ることに夢中になってしまうことをご存知でした。神殿中心主義が信仰を間違った方向に向けてし合うことは教会堂中心主義として、私たちにも起こりうることです。どんなに立派な建物を作っても、神様はその中には収まらないということを知るべきです。教会は建物ではありません。私達が教会です。とはいえ、建物があった方が快適だということはあるでしょう。しかし、それはツールに過ぎません。建物を建て上げることに夢中になりすぎれば、イエス様をほっておくことになってしまいます。立派な教会堂を建てた途端に燃え尽きて抜け殻のようになってしまった教会は少なくありません。ユアチャーチを神様に喜ばれる教会にしたいと思うなら、一人一人がイエス様という基礎と、またここにいる神様の家族としっかりつながっていることです。そうすればユアチャーチはどの教会にも負けない耐震構造を持つことになります。また、日常生活の中で共に過ごす人々から、地球の裏側で日々の糧にも困っている人まで、精一杯の愛を表すことです。それが、ユアチャーチが神様の目から見て最も美しい外観を持つ方法です。

2) 殺してしまった方によって救われる (52,53)

いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」(52,53)


イエス様は民が神殿や律法を解釈した言い伝えを守ろうとしながら、神様の送った多くの預言者を迫害しつづけ、ついには神御自身であるイエス様をも捕らえて殺してしまうことを知っていて、例えによって教えています。共観福音書のすべてがほぼ同じ形で記録しています(マタイ21:33-46、マルコ12;1-12、ルカ20:9-19)。
イスラエルの民は、自分たちが思ってもみない形でメシアが来られたので歓迎することができず、かえって十字架につけて殺してしまいます。しかし神様はそのことまでも見通しておられました。イスラエルは、自分たちを神に選ばれた民として、自分たちが軍事的メシアによって救われ人類の頂点に立つことを夢見ていましたが、神様の計画は、アブラハムに語られたように、すべての人を救う計画です。他の民族を見下す選民意識を持つことはどの民族にも赦されていません。イエス様の十字架の死と復活は、神様の愛が一民族を超えてすべての民に届く良い知らせの出発点になったのです。イエス・キリストは今も共におられ、信じて従うものとともにいてくださいます。イエス様のように愛したいと願う人と共に歩まれ、あなたを愛に生きる人に変えてくださいます。
しかしこの恵みの出来事を説かれても、宗教指導者たちは、ただ自分が責められていることに怒るだけで、ステファノに対する殺意が燃え上がるだけでした。

B. ステファノの最後

1) 聖霊に満たされて世の歩みを終えたステファノ (54-56)

人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。(54-56)

怒りに燃えて、今にも襲いかかってきそうな人々を前に、ステファノの心は動揺していませんでした。聖霊が彼を満たしていたからです。敵意をむき出しにしている人々は、彼の目にはもう背景にしか過ぎませんでした。彼がこの時見ていたのは、イエス様だったのです。言うべきことは伝えました。自分の地上での務めは終わったことを知っていました。心残りがあるとすれば、人々のうち何人かでも、ステファノと同じように天を仰ぎイエス様を見上げてくれたら、という事だけでした。ステファノをかわいそうだと思うなら、それはそれはステファノの本意でも、イエス様の本意でもありません。命の長短で幸せは図れません。彼のように、人の目から見れば人生の半ばで奪われたと思われるものでも、イエス様の手に引き受けられて永遠に生きられる魂は幸いです。そうではあっても、だれも自分のこととしては経験なしに迎える“死”を恐ろしいと思うのは無理もありません。私たちも、その時が迫ったら聖霊に満たされることを願い求めましょう。

2) 責める気も、裁く気もなく、ただ思い直して欲しかったステファノ (57-60)

人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。(57-60)

聖霊に満たされて最後の時を迎えたステファノは、自分を殺そうとしている人々を呪うどころか、罪を負わせないで下さいと願って息を引き取りました。こんなことをしたとしても、もう一度あなたに従うチャンスを与えてやって下さいという意味です。イエス様が自分を引き受けてくださるという安心と、それを彼らにも与えてくださいという願いが、この言葉として発せられたのです。ステファノの彼を殺害しようとしている者に対する愛です。私たちは生涯、感覚的には’恐れ’を持ち続けます。しかし、肉体を滅ぼされても、私たちの魂を滅ぼすことのできない者は誰もいないという事実を忘れてはいけません。あなたがイエス様と共に歩んでいる限り、この地上での生命がいつ終わろうと、どのような死に方をしようとあなたは勝利者です。そして勝利者には、自分を苦しめ、命を奪ったものをさえ愛することが出来るという、ステファノと同じ特権が与えられています。聖霊に満たされて、その死の直前まで「主イエスを信じましょう、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と勧め続ける者でありたいと思います。

メッセージのポイント
預言者を迫害し、救い主を殺してしまったのはユダヤ人ですが、すべての人が同じ性質を持っています。同罪です。今でも狭いナショナリズムが、すべての人と愛し合うことを願う、神様の意思に逆らって、憎悪を煽り立てています。例外といえる国はありません。キリスト教国といわれている国々でさえ同じです。かつてのユダヤ人は選民であることを誇り、周りの国々の人々を異邦人として軽蔑していましたが、私たちの国にも同じ空気が流れています。世の中がどんなに憎みあっても、私たちは巻き込まれてはいけません。地上の国籍に価値の違いはありません。ステファノは殺されてしまいましたが、最後までイエス様に従う者らしく穏やかに、自分に向かって石を投げつけてくる者に主の憐れみを求めて地上での歩みを終えました。


話し合いのために
1) ステファノのメッセージの結論は?
2) ステファノは自分に向かって石を投げつけている人々をどう見ていたのですか?