<メッセージノート>

2013/5/12 使徒言行録8:26-40 (イザヤ53:7,8)
バプテスマを受ける資格

A フィリポはどのようにしてエチオピア人にイエスを紹介したのか?

1) 聖霊による導きに従った (26-29)

さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。 (30-33)


2) 彼の求めていることの答えとしてイエスを伝えた (30-35)

フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。(30-35)


B. エチオピア人の素直な信仰


1) フィリポの伝える福音を信じて、洗礼を受けたいと願った (36)

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 (36)


2) 確かにイエスにつながって、フィリポが消えても喜びにあふれて旅を続けた (37-40)

(底本に節が欠けている個所の異本による訳文)フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 (37-40)



メッセージのポイント
人に向かって、「イエスが道であり、真理であり、命です。イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と伝えることが先に信じることのできた者の使命です。イエスのことを率直に話すことの出来るチャンスは聖霊が作ってくれます。そのようなチャンスを見逃さないためには、注意深く心の耳で神様の声を聞こうとする姿勢と、そうだと思ったら一歩を踏み出す勇気が必要です。また、あなたが誰かからイエス様について、そのように聞かされているけれど確信が持てないなら、慌てる必要はありません。伝えてくれた人のために信じるのではないのです。けれどもあなたがこのことに確信を持つなら、躊躇せずにエチオピア人の高官のように洗礼を受けたいと言って下さい。そこから、あなたの喜びにあふれた人生の旅が始まります。


話し合いのために
1) どうしたらフィリポのように聖霊の指示を聞くことが出来るでしょうか?
2) 初めてエチオピア人が洗礼を受けたことにどのような意義がありますか?

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<メッセージ全文>

2013/05/12 使徒言行録8:26-40 (イザヤ53:7,8)
バプテスマを受ける資格
今日の登場人物は、「主の天使」と「聖霊」と先週登場したフィリポそれにエチオピアの高官です。エチオピアの高官が、天使と聖霊の指示に従って語りかけてきたフィリポによってイエスに従う者となったというお話です。

A フィリポはどのようにしてエチオピア人にイエスを紹介したのか?

1) 聖霊による導きに従った (26-29)

さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。 (30-33)

高官は異邦人でしたが、聖書の教える唯一の神様を信じていました。異邦人は神殿の中に入ることを許されてはいませんでしたが、神殿の一番外側にある異邦人の庭で礼拝することが許されていたのです。フィリポは、神様を信じている位の高い異邦人にイエスを伝えなければならないと考えて自分でアプローチしたわけではありません。天使や聖霊、つまりは神様の意思を知って従ったのです。ここに私たちがイエスのことを紹介する時の大切なポイントがあります。それは、誰かにイエスを紹介することは神様との共同作業だということです。伝えたいという思いばかりが先行し、相手の心の状態も考えないで行動するなら、相手はあなたのことばかりかイエスのことも嫌いになってしまう恐れがあります。天使や聖霊の声はめったに肉体の耳には聞こえないので、普段から出来るだけ神様の意思を行おうと努めるしかありません。しかし、その努力は報われます。耳には聞こえず、やってみるしかなかったけれど、後から考えると、すべてが備えられていて、結果的に聖霊の勧めに従うことができたと思えることを、あなたも経験することができます。私は、9年前に肺がんを患った叔母の最後の数ヶ月を家族親戚とともに看取るという経験をしました。叔母はそれまで遠くに暮らしていて、イエスのことを一度も伝えたことがなかったのです。強い意志を持った人で、自分の命がもうすぐ終わることも静かに受け入れていたのでイエスのことを伝えるチャンスもないだろうと諦めかけていたのですが、私が付き添っていた時に眠りから覚めると、白い衣をきた長身の男性に会ったと言うのです。そして、彼は私が信じるイエスではないかと尋ねたのです。そこで、ゆっくりとイエスを紹介することができ、彼女はイエスの友となって天国に帰ってゆきました。すべての家族親類が賛成して、イエスの名によるお葬式をすることができました。これがわたしのフィリポ的体験です。イエスを紹介する時、それは私たちがごく普通に、しかし愛を持って親切に人々と接しているなら、神様が全てを整えてくださり、準備ができたら訪れる時です。


2) 彼の求めていることの答えとしてイエスを伝えた (30-35)

フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。彼が朗読していた聖書の個所はこれである。「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。(30-35)

高官が朗読していた箇所はイザヤ書 53:7,8 です。私たちの聖書と言い回しが異なるのはギリシャ語に訳された70人訳からの引用だからです。70人訳は紀元前3世紀から徐々に訳され、使徒言行録の時代にはほぼ完成さていたと考えられる最初のギリシャ語旧約聖書です。彼は子羊のように引かれてゆき、殺される者が誰かという点が分からなかったのです。当時のユダヤ教は旧約聖書の中でも律法を重んじ、そこからの言い伝えを大切にしていて、預言書には重きをおいていませんでした。律法主義に偏る彼らには、そのことを戒める内容が含まれる預言書は都合の悪い部分だったのです。しかしその内容と十字架の出来事を比べてみれば、イエスの死を預言したものであることは、偏見のない目で見れば明らかなことでした。フィリポの説明は高官の疑問にすっかり答えを与えました。イエスについての福音を告げ知らせたとありますが、イザヤ書の指し示す人がイエスであること、イエスは人となり、すべての人の神からの背きの罪を精算するために、つまり高官のためにも十字架にかかり、死んで葬られ,しかしよみがえられたとシンプルに語ったのだと思います。それは高官の心のなかで、先日十字架にかかった人物の噂と、その人物がよみがえられた主イエス・キリストだと告げるムーブメントが起こっていたこととイザヤの預言と結びついたのです。


B. エチオピア人の素直な信仰


1) フィリポの伝える福音を信じて、洗礼を受けたいと願った (36)

道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 (36)

高官は何を信じたのですか?イエス・キリストの福音です。「私の神、主は私のために十字架にかかり死なれた。私の罪は赦されたばかりか、よみがえられ私を友と呼んで下さるイエスとして、今から先ずっと、私を導いてくれる」 このことを彼は信じました。書かれてはいませんが、彼は信じたものはどうすべきか尋ねたのでしょう。それに対してフィリポは「機会があったら、バプテスマを受けて新しい生活を始めなさい」とでも言ったのでしょう。しかし高官は待ちきれなかったのです。早く、新しい生活を始めたいと。
先週、私たちも洗礼式を行いました。Aさんは、イエスを信じて生きてゆこうと決心してから、その日を6年間も待っていました。いろいろな国で働いていたので、その地にある教会に出席していたのですが、ユアチャーチに来るまで洗礼を受けるチャンスがなかったのです。洗礼はマジックではありません。相模川の水で洗われたからといって、清く、思い煩いのない魂にインスタントに変わるわけではありません。 サタンの誘惑、攻撃が消えるわけでもありません。洗礼は、キリストの体に連なる決意のしるしを公にすることです。水に沈めるのは、今までの神様に背を向けた人生を終わりにする、一度死ぬという意味をおぼえるためです。そして水から上がった時、イエスと共に歩む新しい人生が始まるのです。


2) 確かにイエスにつながって、フィリポが消えても喜びにあふれて旅を続けた (37-40)

(底本に節が欠けている個所の異本による訳文)フィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた。そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての町を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。 (37-40)

洗礼を受けた高官は、「もはやフィリポの姿を見なかったが喜びにあふれて旅を続けた。」 みなさんが今日この言葉をしっかりと心に留めて帰っていただけたら、私の役割は果たせたと思います。この言葉がなぜ重要なのかといえば、ここに、どうしたらあなたが人生という旅を喜びにあふれて続けることが出来るのか?という問の答えが隠されているからです。私たちはイエスの素晴らしさを知っているので、大切な人にぜひイエスを知ってもらいたいと思っています。また、誰かと知り合いになれば、イエスを紹介したいと思うでしょう。けれども、それが難しいと感じている人も多いようです。信仰とか宗教には気をつけなければならないと多くの人が思っています。この国では信仰を持っている人はマイノリティーです。宗教に救いを求めるのは問題を抱えている人という偏見もあります。本当のところは、この国の多くの人は、誰かに頼らなければ解決できない問題を自分が持っているということを知らないだけなのです。あるいは、本当に変な宗教に引っかかって宗教はコリゴリと思っている人もいます。しかし私たちは「キリスト教」という宗教を教えているつもりはありません。「キリスト教会」の会員を勧誘しているわけでもありません。私たちの一番の友イエスを紹介しているつもりなのです。イエス自身がこう言っています。

もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。 (ヨハネ 15:15)

イエスはわたしの友です。友の中の友、一番の友です。そしてあなたにとっても、世界中の誰にとっても、そのような存在です。 あなたにはどんな友がいますか?お互いに相手のためなら命も惜しくないと言い切れるほどの親友がいますか?私たちは、どんなに親しくても、意図的にであれ、気が付かないうちにであれ、仕方なしにであれ、裏切り、裏切られてしまう者です。残念ながら私たちは限界のある存在です。私たちはすべての弟子たちと同様に、いざという時にはイエスでさえ知らないと言ってしまうほど情けない存在です。それでも、イエスは私たちを友と呼んでくれるのです。この愛に応えるために、自分の能力でできることは私たちには一つもありません。ただ聖霊の力に助けられて、私たちもイエスを友と呼び、彼に従って歩んでゆくことができます。たとえ、あなたにイエスを紹介してくれた人があなたから見えないところに行ってしまったとしても、喜んで人生の旅を続けることができます。


メッセージのポイント
人に向かって、「イエスが道であり、真理であり、命です。イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と伝えることが先に信じることのできた者の使命です。イエスのことを率直に話すことの出来るチャンスは聖霊が作ってくれます。そのようなチャンスを見逃さないためには、注意深く心の耳で神様の声を聞こうとする姿勢と、そうだと思ったら一歩を踏み出す勇気が必要です。また、あなたが誰かからイエス様について、そのように聞かされているけれど確信が持てないなら、慌てる必要はありません。伝えてくれた人のために信じるのではないのです。けれどもあなたがこのことに確信を持つなら、躊躇せずにエチオピア人の高官のように洗礼を受けたいと言って下さい。そこから、あなたの喜びにあふれた人生の旅が始まります。


話し合いのために
1) どうしたらフィリポのように聖霊の指示を聞くことが出来るでしょうか?
2) 初めてエチオピア人が洗礼を受けたことにどのような意義がありますか?