<メッセージノート>

2013/7/7 使徒言行録 12:12-25
神の言葉は栄え、広がる

A 奇蹟を喜び力とする


1) 奇蹟を共有する者たち (12-16)

こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。


2) 神の働きに逆らうことはできない (17-19)

ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。



B ヘロデ王の死

1) 神に栄光を帰さなかった人の末路 (20-23)

ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。



2) 神の計画の進行 (24,25)

神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。



メッセージのポイント
私たちは神の働きに招かれています。そこには困難や迫害がありますが、それらに負けることなく歩み続ける力と喜びを神は与えてくださいます。それは時としてこのような奇蹟として起こされます。奇蹟を見ることが私たちの目的ではありません、奇蹟を通して喜びと力を与えられて、神の働きを続けることが目的なのです。自分の栄光を求めて生きることをは神の願いではありません。あなたを創造された神に栄光を帰すことを求めて歩めば、すべてのことのうちに神の介入があることを知り、安心して喜んで歩むことができます。

話し合いのために
1) なぜ神は奇蹟を起こすのですか?
2) ヘロデの問題はどこにあったのですか?

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<メッセージ全文>

2013/7/7 使徒言行録 12:12-25
神の言葉は栄え、広がる

A 奇蹟を喜び力とする


1) 奇蹟を共有する者たち (12-16)

こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。


天使による救出劇に驚いたのはペトロ本人だけではありませんでした。彼のために夜中に集って祈り続けていた人々が、大きな喜びと驚きに包まれようとしています。この祈りは市内の多くの家でなされていました。ちょうどこの家がペトロが捕らえられていた牢から一番近かったのでしょう。ここで初めて登場するマルコは、この後もしばしば登場する若者です。この名前を記憶しておいて下さい。ここで対比してみたいのはロデという女中とそれ以外の人々の態度です。ロデは門をたたく音を聞いて家の外に出て行きます。外からの声がペトロとわかると「喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。」のです。しかしそこにいた人々は、まさに彼らの祈りが聞かれたというのにロデの言うことを信じられなかったわけです。ちょうど、イエスが復活したという証言を自分の目で確かめなければ信じられなかったトマスのようだったのです。ロデは自分で確認するよりも早く、人々に伝えたいと思ったので、扉を開けてペトロを入れるよりも、告げることを優先したのです。教会には二種類の人がいます。良い知らせを伝えたいということを優先するロデのような人と、自分が納得すること、確認することを優先するような人です。後者は、なんとか信じない理由をつけようと「あなたは気が狂っている」とか「それは天使だろう」とか言って、神様の恵みを受け取ることを先延ばしにしてしまう傾向を持っています。手放しで喜んでいる人を見ると自分はさめてしまうタイプの人です。確かにロデは、喜びのあまり合理的な行動ができなかったかもしれません。しかし神様は恵みに理屈をつけて手放しで喜ぼうとしない評論家的態度より、失敗することはあっても、与えられた恵みを手放しで喜んで人々にシェアしたり、躍り上がったりするような態度を喜ばれます。


2) 神の働きに逆らうことはできない (17-19)

ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。


迫害が激しくなったエルサレムでは、信じる者たちが神殿で集まることは困難になっていました。そこで、家々で集まりを持っていたのです。ヤコブや他の弟子たちはそれぞれは違う家で集まっていたのでしょう。だから知らせにゆく必要がありました。そして、ペトロは身を潜めます。ペトロがどこに行ったのかは確かな記録がありませんが、ローマに行ったという伝承があります。現在でも国によっては、政治的な理由から都会の特別な教会を除いては共に集まることが困難です。そこで人々は今でも同じように家々で集まっています。まさにミニチャーチです。私達もミニチャーチがあれば、この場所が何らかの理由で使えなくなっても、教会で在り続けることができるのです。さて、兵士たちはフリーズさせられていたのでしょうか?夜が明けてようやく、ペトロはどこかと大騒ぎになりました。ヘロデはもちろんペトロを天使が助けたなどと信じられるわけがありません。この脱獄には、兵士が手を貸したか、そうでなければ重大な過失があるとしか思えませんでした。だから兵士たちを死刑にすると決めたのです。しかし実際には、王が先に死ぬことになるのです。その騒ぎで兵士たちは処刑を免れたかもしれませんが記録はありません。



B ヘロデ王の死

1) 神に栄光を帰さなかった人の末路 (20-23)

ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。

ヘロデ王は「ひどく」腹を立てていました。カイサリアから海岸線を100キロ以上北上したところにティルス、シドンはあります。当時はユダヤ地方から食料供給を受けていましたが、何らかの理由でヘロデを立腹させ、供給を止められてしまう恐れがあったようです。そこでカイサリアまでやってきて、王に取り入ろうとしたわけです。機嫌を取るにはおだてることです。命が掛かっていましたから、真剣におだてたのです。つまり王が登場した途端に「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けたわけです。これに王は満足し、自身が神の僕であることを忘れたのでしょう。ところで、この出来事は、ヨセフォスの「古代史」にも記されています。古代史では、当時不吉な鳥とされたふくろうが上空を飛ぶと同時に、王は激しい腹痛に襲われ、5日後に死んだとされています。私達はここで、神に逆らう者は必ず酷い死に方をするということを学んでいるわけではあありません。悪人でものうのうと生き続け老衰で穏やかに死ぬ人もいるのです。せいぜい酷い死に方をする場合があるとしかいえません。私達が学んでいるのは、私たちもまたヘロデと同じ性質を内側に抱えているという事実です。自分の意のままにならない人にはひどく腹を立て、神だ王だとおだてられればその気になる性質です。しかし、誰であれいつか、この世界でひどい目に会わずに済んだとしても、神の前に立ち、自分のこの世界での歩みについて裁かれることを避けることはできません。本当は厳しい裁きを受けずに済むことは難しいことではないのです。 イエスに従って生きることです。聖書の勧める生き方です。 イエスはそのために来られたのです。この事実を先に知った人々が女中のロデのようにあなたのところに来て、あなたを赦し、無罪=永遠の命を与える神、イエスが来てくれました、と告げているのです。神が、私を裁く裁判で、無報酬で無罪を勝ち取る弁護士として来てくださった。それがイエスです。あなたはどのような態度を取るべきなのでしょうか?弁護士なしで勝ち目のない裁判を闘うのですか?それより、あなたの弁護を十字架の苦しみという大きな犠牲を払ってまで買って出てくれたイエス・キリストを魂の顧問弁護士として雇うべきではありませんか?



2) 神の計画の進行 (24,25)

神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。

はたして奇蹟は起こりました。ペトロ自身あまりにも突然の出来事に、幻を見ているとしか思えなかったのです。2本の鎖で繋がれ、二人の兵士の間に挟まれ、牢の戸口にはもう二人の兵士が見張る、このチームが4組いて交替で警護しているのです。ペトロは兵士の間でぐっすり寝ていたのです。天使に脇腹を突かれるまで気づかず、起き上がっても寝ぼけてボーとしているので、寝坊した子供のように、天使に、靴を履きなさい、ベルトを閉めなさいといわれてしまいます。完全に外に出て天使が離れ去るまで現実とは思えなかったのです。無理もありません。神様は奇蹟を起こされるのです。あらゆる人間的な妨害の中でも、私たちを助け出すことがおできになるのです。このような初期の経験が、教会をその後のはるかに過酷な迫害に耐えさせました。2000年後のこの国で、主に従って歩もうとする者には新しい困難がやってきます。ユアチャーチの20年の歩みの中にも様々な困難がありましたが、これからもそれらを主に信頼して乗り越えてゆけることを知っています。そしていつか私たちは気がつけば背後に辿ってきた道がはるかに続いていることを見て、歩み続けてきてよかったと思えるようになるのです。祈り続けましょう。歩み続けましょう。



メッセージのポイント
私たちは神の働きに招かれています。そこには困難や迫害がありますが、それらに負けることなく歩み続ける力と喜びを神は与えてくださいます。それは時としてこのような奇蹟として起こされます。奇蹟を見ることが私たちの目的ではありません、奇蹟を通して喜びと力を与えられて、神の働きを続けることが目的なのです。自分の栄光を求めて生きることをは神の願いではありません。あなたを創造された神に栄光を帰すことを求めて歩めば、すべてのことのうちに神の介入があることを知り、安心して喜んで歩むことができます。

話し合いのために
1) なぜ神は奇蹟を起こすのですか?
2) ヘロデの問題はどこにあったのですか?