<メッセージノート>

2013/07/28 使徒言行録 13:32-52
強くされる

A パウロのメッセージの結論


1) 旧約の救いの限界 (32-36)

わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない』と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。(32-36)



2) 新しい完全な救い (37-41)

しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」 (37-41)



B 二つに別れる人々の反応

1) イエスを主と受け入れる人々(42-44)
パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。(42-44)


2) イエスを拒む人々 (45-52)

しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(45-52)


メッセージのポイント
宗教も哲学も倫理も常識も生きる上で大切なものです。何が正しく間違っているかを教えてくれます。しかし人間はその弱さのゆえに理想通りに生きることはできません。どうにもならない私たちの弱さを克服するためには、弱い私たちが創った、それらのものは十分ではないのです。聖書はその全体を通して、弱い者が強く生きるためには、強くなろうとすることではなく、本当に強い者につながるしかないことを教えています。それは2000年前に人としてこられた神、イエス・キリスト以外の誰でもありません。あなたはこの聖書のメッセージにどう応えますか?

話し合いのために
1) モーセの律法の限界とは?
2) 永遠の命を得るように定められている人とは?

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<メッセージ全文>

2013/07/28 使徒言行録 13:32-52
強くされる

A パウロのメッセージの結論


1) 旧約の救いの限界 (32-36)

わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。それは詩編の第二編にも、『あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ』と書いてあるとおりです。また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては、『わたしは、ダビデに約束した聖なる、確かな祝福をあなたたちに与える』と言っておられます。ですから、ほかの個所にも、『あなたは、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしてはおかれない』と言われています。ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。(32-36)

パウロは、ダビデを敬愛している人々に対して、自分も同じようにダビデの偉大さを認めている者として、注意深くダビデの限界をも認めさせようとしているのです。それは普遍的な人間の限界です。どんなに神に愛されて立てられた者であっても限界があるのです。ここでは、先週お話したダビデの様々な失敗に見られる「正しさ」の限界のことではなく、その根本にある、彼の存在としての限界をパウロは言っているのです。誰もが、その時代に、その場所で生まれ死んでいきます。私たちもまた、その時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てる者であるのです。だから私たちは、どんなに素晴らしい人であっても、頼れる人であっても、強い力があっても、やがて朽ち果てる者、あなたのことを完全に守り切ることの出来ない存在であることを認めなければなりません。また自分もまた愛する者を守り切ることの出来ない存在であることを知らなければなりません。そして、本当に信頼出来る方を知らなければなりません。そうでなければ誰も本当に確かな安心(詩編の言い方なら、聖なる、確かな祝福)を求めることはできないのです。


2) 新しい完全な救い (37-41)

しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言われていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」 (37-41)


だからイエスは、私たちのところに来てくれたのです。誰もできなかったこと「義とする」ために。それは、神から正しい者と認められるという言葉です。神様に正しいものと認められることにどんな意味があるのでしょうか?この有り難さがわからないので、多くの人がイエスを求めないのです。「義と認められる」は「解放される」というニュアンスを持った言葉です。つまり。神様に正しい者と認められることは、不安から、不満から、劣等感から、罪深い思いから解放されるということなのです。神のこの解放の計画に用いられたユダヤ人は、残念なことに、自分たちの伝統に従う者が神に義とされるのだと思い込んでしまいました。そうして、イエスが来て 『見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を。』 が実現したのです。神を侮る者になってはいけません。その存在が見えないからといって無視していてはいけません。神を信じない世界が、人の心がどのようなものであるかを直視しましょう。あなたの心が何によって本当に満たされるのか?その答えはイエス・キリストしかありません。


B 二つに別れる人々の反応

1) イエスを主と受け入れる人々(42-44)
パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ。集会が終わってからも、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来たので、二人は彼らと語り合い、神の恵みの下に生き続けるように勧めた。次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。(42-44)

パウロのメッセージは人々の心を喜びで満たしました。 この人達は、多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者だと書かれています。旧約聖書と律法の言い伝えに親しんできた人々と旧約聖書の神を信じて従おうとしてきた人々です。 しかし、そこには喜びと確信はありませんでした。人の教えの虚しさにうすうす気がついていたのです。パウロの話を聞いて、彼らはイエスの魅力に直感的に気づいたのです。それで、ぜひ来週も話をして欲しいといい、それだけでは足りずに二人についてきて、もっと話をしてもらおうとしました。ここからの一週間、このアンティオキアという町に精神的な革命が起こったのです。不安と不満の中に生きることから解放されて、神の恵みの下に生き続けるようになるという革命です。そうして一週間後には、町中の人が会堂に詰めかけるという異常な事態が起こりました。私たちは、イエスの十字架と復活という出来事が一人一人にとって、解放、恵みを与えるものだという、このパウロのメッセージを伝え続けているのです。それは、イエス・キリストによってもたらされた恵みの下にこようと決心することを勧めるものです。しかし、パウロは、イエスを信じることがゴールではないことを示すために、恵みの下に「生き続ける」ことを勧めているのです。それは一言で言うなら「愛する」という生き方です。神を愛すること、隣人を愛すること、世界を愛すること、それこそが自分を愛することでもあるのです。また愛するとは好きです、大切ですと思っているだけではないということをイエスは十字架の犠牲によって教えられました。愛するとは、様々な犠牲を払って「仕える」ことです。この人々が、イエスを主と信じ、愛に生き続けたように、皆さんもイエスに従い続けて下さい。「愛」に生き続けて下さい。


2) イエスを拒む人々 (45-52)

しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。』」 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した。それで、二人は彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行った。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。(45-52)


私たちの周囲には、イエスとその教えに、ただ関心を持ってくれないだけではなく、反対して攻撃してくる人もいるかもしれません。イエスの警告(ルカ12:49-53)によれば、それまで親しかった人々や、家族、兄弟、という場合もあるのです。一番、喜んでもらいたい人に嫌がられる、受け入れて欲しい人に反対されるのは辛いことです。しかし、パウロたちの行動は私たちへのヒントになります。丁寧に伝えようとはするべきです。しかしその時、聞く耳を持たないなら、急ぐ必要はないのです。パウロも、バルナバも出来れば同胞であるユダヤ人に、心をひらいてもらいたかったのです。しかしそれが叶わないと知った時、彼らは聖書の言葉を手がかりに、異邦人に働きかけること決めました。その人が聞いてくれないなら、聞きたいと願う人にイエスを伝えていればいいのです。聞きたくない人には、ただ愛を表しましょう。そこから離れる時に足の塵を払ったのはイエスの教えです。それは、「この人々に対しては今出来るだけのことはしました。後は神様あなたにお任せします。」という意思表示です。その人のことについてはイエスが最終責任者であることを覚えてお任せしましょう。ところで、このテキストは、キリスト教を自称するカルト的なグループも意味をねじ曲げて使います。親しい人々から切り離し、グループに取り込むために用いられる言葉でもありますから注意深く受け取らなければなりません。私たちは旅する伝道者ではありませんから、喜ばれなくても、関心持たれなくても、反対されようと、身の危険を感じたり、追い出されるのでない限り、そこにとどまっていればいいのです。


メッセージのポイント
宗教も哲学も倫理も常識も生きる上で大切なものです。何が正しく間違っているかを教えてくれます。しかし人間はその弱さのゆえに理想通りに生きることはできません。どうにもならない私たちの弱さを克服するためには、弱い私たちが創った、それらのものは十分ではないのです。聖書はその全体を通して、弱い者が強く生きるためには、強くなろうとすることではなく、本当に強い者につながるしかないことを教えています。それは2000年前に人としてこられた神、イエス・キリスト以外の誰でもありません。あなたはこの聖書のメッセージにどう応えますか?

話し合いのために
1) モーセの律法の限界とは?
2) 永遠の命を得るように定められている人とは?