<メッセージノート>

2013/11/17 使徒言行録 16:35-40
ふたつの市民権
 
朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。(16:35-40)


A パウロとシラスはローマ帝国の市民だった
1) 神の国の市民

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(9:15,16) 


2) ローマ市民


B 私たちも二つの市民権を持っている

1) 生まれながらの市民権


2) 選びとった市民権


メッセージのポイント
パウロは、自分が第一に神の国の市民であることを意識していました。それでも地上においてはローマ帝国の市民であるということが彼のアイデンティティーの一部でした。それはローマ帝国に属する地域に生きる人々にイエスを紹介したいという願いとして彼の生涯の歩みに現されました。このことは、私たちにも当てはまることです。地上の国の中には他国との二重国籍を認めない国もありますが、神の国の市民は積極的に地上の国の市民としての役割を果たすことを求められます。狭いものから広いものまで自分が属するコミュニティーの人々を愛すること、人々の必要を満たすことと神を愛することは切り離すことのできない一つのことなのです。

話し合いのために
1) パウロにとってローマの市民権はどのような意味がありましたか?
2) あなたは地上で属する国をどう愛しますか?

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<メッセージ全文>

2013/11/17 使徒言行録 16:35-40
ふたつの市民権
 
朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、「あの者どもを釈放せよ」と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。「高官たちが、あなたがたを釈放するようにと、言ってよこしました。さあ、牢から出て、安心して行きなさい。」 ところが、パウロは下役たちに言った。「高官たちは、ローマ帝国の市民権を持つわたしたちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ってから投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、わたしたちを連れ出すべきだ。」下役たちは、この言葉を高官たちに報告した。高官たちは、二人がローマ帝国の市民権を持つ者であると聞いて恐れ、出向いて来てわびを言い、二人を牢から連れ出し、町から出て行くように頼んだ。牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した。(16:35-40)


A パウロとシラスはローマ帝国の市民だった
1) 神の国の市民
 この箇所で初めてパウロとシラスがローマの市民権を持っていたことが明かされます。パウロはタルソスの出身です。この地域、キリキアは彼の祖父の時代にローマ帝国(属州)に組み入れられタルソスは州都となりました。ユダヤ人でしたが、町の有力者として、祖父か、父親にローマ市民権が与えられたようです。そして父親が市民なら子は自動的にその権利を得るのです。当時、ローマの市民権は高額な金を払えば得ることも出来ましたが、後に (22:28) パウロが言っているように、彼は「生まれながらの」市民だったのです。生まれながらのローマ市民の特権は大きなものでした。だからそうとは知らずパウロたちを捕らえたフィリピの町の指導者たちは、事実を知って恐れたのです。
 ここで考えてみたいのは、パウロがなぜこれほどの特権をもっと前から利用しなかったのかということです。自分の身分を言い表すのにローマ市民権を主張した記録はここと、22-23章にしかありません。それをもっと利用すれば、多くの苦しみを受けずに済んだはずだったのです。
 パウロがそれを言いふらさなかったのは、自分が第一に神の国の市民であることを意識していたからです。ローマ市民であっても、聖書の神を信じるユダヤ民族としてのアイデンティティの方が優っていました。パウロというと異邦人のための使徒という印象が強いのですが、国外各地に住むユダヤ人たちにイエスを紹介したいという願いも負けず劣らず持っていました。その熱心はイエスに出会う前から変わらなかったのです。聖書の教えを異端から守るつもりでイエスに従う者たちを迫害しましたが、イエスに出会い、イエスこそ聖書が約束していた救い主だと確信すると、そのことを知らせるのが自分の使命だと信じて伝え続けました。ローマ市民という支配階級の特権を持っているのだから、わざわざ身の危険が迫るようなところに出かけてゆく必要はなかったのです。教養と富と名誉を保った上で、タルソスかアンティオケアで町の有力者として過ごすこともできたはずです。しかし、イエスはアナニアにパウロがどのような働きに召されているのかを明らかにしていました。

「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(9:15,16) 

こうしてパウロは人種、国籍、身分を問わず、あらゆる人が本来の姿であるはずの「神とともにある者」となることを願い、その願いのとおりに、神の国の市民として、彼の地上での人生を歩み通したのです。

2) ローマ市民
 フィリピの高官たちは、元々収監するのに十分な理由のないまま、市民や群衆の求めに応じてパウロたちを牢に入れたので、ほとぼりの冷めた翌朝に密かに二人を解放しようとしました。この時点では、高官たちはまだパウロたちがローマ市民だと知りませんでした。ここで初めて、パウロが自身のローマ市民権を主張したのは何故だったのでしょう? 今まで、私たちが考えてきたことと矛盾するようにも思えますね。
最近学んできたように、パウロの働きはよりローマ支配圏の周辺部から中心部にその働きを移しつつありました。人種も、ユダヤ人から、それ以外の人々への働きが主になってきています。ここでパウロは、よそ者ではなく同じローマ人として語る必要があると考えたのではないでしょうか?せっかく異邦人にイエスを伝えようとしているのにユダヤ人からもローマ市民からも迫害される状態の中で、ここで市民権をはっきりさせておけば、ローマ人も聞いてくれやすく、同時にユダヤ人からの妨害も避けやすくなります。何か便宜的な感じもしますが事の本質はそうではありません。ユダヤ人に命がけで伝える覚悟が、その時のパウロにローマ市民権を主張することを止めたように、ギリシャ人ローマ人に命がけで伝える覚悟が、こんどはパウロにローマ市民権を明らかにすることを求めたのです。
 パウロ同様、私たちも天の市民権と地上の市民権を持っています。今イエスは私たちにその二つをどのように用いることを求めておられるのか、後半で考えてゆきましょう。
 

B 私たちも二つの市民権を持っている

1) 生まれながらの市民権
 紛争地域に生まれ、どの国にも属していないということも起こっていますが、大抵の人はひとつの国の市民権を持っています。さらに法律の違いによって、例えばアメリカでは自国の市民権を獲得しても前に持っていた国籍を捨てることを強制しませんが、日本の場合は、規定上は自国民に他国籍を持つことを認めません。親の国籍によるのか、そこで生まれたことによるのかの別はありますが、特殊な例を除いて、私たちは皆一つの国の市民権を持ち、そこには権利と義務があります。神の国の市民は、神様に積極的に地上の国の市民としての役割を果たすことを求められています。狭いものから広いものまで自分が属するコミュニティーの人々を愛すること、人々の必要を満たすことと神を愛することは切り離すことのできない一つのことなのです。そこに生きる人々に対して、同じコミュニティーに属する者にしかできない愛し方があるのです。妻として、夫として、兄弟として、姉妹として、友人として、同じ方言を持つものとして、同じ国に生まれたものとして、同じ人種としてしかできない愛し方があるのです。もちろんイエスはそれらを超えた普遍的な愛を示されました。それが理想です。そして少しは私たちもそれにならうことができます。しかしイエスよりずっと心の狭い私たちには、互いに偏見があり、想像力にかけるところがあり、何よりも自己中心的な思いがあるので私たちには難しいのです。私たちには、遠くにいるからこそできることと、近くにいるからこそできることを両方持っています。そしてイエスはその両方を持てる力の限り行いなさいと勧めてくださるのです。

2) 選びとった市民権
 私たちは、「神の国」の市民権を得た者です。それは生まれながらの市民権ではありませんが、私たちにとっては第一のことです。たとえ日本国籍を持っている人でも、神の国の市民になったからといって国籍を取り上げられることはありません。私たちは引き続き、置かれたコミュニティーに対してなすべき働きが与えられていることをお話しました。しかし忘れてはいけないこと、それな何よりもまず自分が「神の国の市民」だということです。神の国と神の義を第一とする以外に、目に見える自分の国を愛することは不可能です。どんなに自分の国を愛すると言っても、他の国を憎むなら、その「愛国心」は偽善です。周りの国々を愛せない人々の叫ぶ「愛国心」を信用してはいけません。
 イエスに従う者に与えられた大きな特権の一つは、「すべての人が神の国の市民になるように招かれている」ということを知っているということです。だから、一人一人に限界はあっても、権力者や民族主義者が「憎め」と叫んでも、イエスと共に「私は愛します」と言えるのです。たとえ「裁け」「追い出せ」「殺せ」という大合唱の中でもわたしたちはイエスと共に「赦します」「受け入れます」「共に生きてゆきましょう」といえるのです。なんと素晴らしい特権でしょう。どうかあなたもイエスを主と信じて、この大きな特権を手に入れて下さい。あなたがすでにこの特権を手に入れているのなら、手放すことなく生涯よく用いて下さい。


メッセージのポイント
パウロは、自分が第一に神の国の市民であることを意識していました。それでも地上においてはローマ帝国の市民であるということが彼のアイデンティティーの一部でした。それはローマ帝国に属する地域に生きる人々にイエスを紹介したいという願いとして彼の生涯の歩みに現されました。このことは、私たちにも当てはまることです。地上の国の中には他国との二重国籍を認めない国もありますが、神の国の市民は積極的に地上の国の市民としての役割を果たすことを求められます。狭いものから広いものまで自分が属するコミュニティーの人々を愛すること、人々の必要を満たすことと神を愛することは切り離すことのできない一つのことなのです。

話し合いのために
1) パウロにとってローマの市民権はどのような意味がありましたか?
2) あなたは地上で属する国をどう愛しますか?