<メッセージノート>

2014/3/30 使徒言行録 20:13-24
パウロが伝えたかったこと

A. エルサレムへの旅立ち (13-16)

さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。


B. 長老たちへの別れの言葉 (17-24)

1) 主に仕えて歩む (17-21)

パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 (1コリ 1:26-29)

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。 (ヘブライ人の手紙 5:7)


わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。(20:31)

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (2コリ 12:9, 10)


2) 霊に促されて進む (22-24)

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。


メッセージのポイント
主に仕えるとは、主に礼拝を捧げるということを中心として車輪のように全方向に広がり、主と共に、主に従う人々とともに人々に仕えるということです。私たちはミニストリーという言葉を使いますが、それは、それぞれが与えられた賜物を用いて人々のニーズを満たすということです。賜物を与えるのも、導きを与えるのも聖霊です。


話し合いのために
1) パウロはなぜエルサレムへ行こうとしているのですか?
2) パウロは何のためにエフェソのリーダーたちを呼び寄せたのですか?


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<メッセージ全文>

2014/3/30 使徒言行録 20:13-24
パウロが伝えたかったこと

A. エルサレムへの旅立ち (13-16)

さて、わたしたちは先に船に乗り込み、アソスに向けて船出した。パウロをそこから乗船させる予定であった。これは、パウロ自身が徒歩で旅行するつもりで、そう指示しておいたからである。アソスでパウロと落ち合ったので、わたしたちは彼を船に乗せてミティレネに着いた。翌日、そこを船出し、キオス島の沖を過ぎ、その次の日サモス島に寄港し、更にその翌日にはミレトスに到着した。パウロは、アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたからである。できれば五旬祭にはエルサレムに着いていたかったので、旅を急いだのである。

 先週お話したトロアスで起こった出来事を覚えていますか?パウロの長い話に三階の窓枠に腰掛けていた青年が転落して死んでしまったけれども、息を吹き返し、そこにいた人々は大変驚き、また慰められたというエピソードでした。アソスはトロアスから南に30キロ、パウロは歩き、ルカ達は船で行き、落ち合ってそこからは海路で南下して、エフェソより南へ50キロ位のところに位置するミレトスに到着します。ミレトスが今日紹介するエピソードの舞台です。なぜ一行が主に海路をとったのか、ここにはパウロが五旬節(ペンテコステ)にはエルサレムにいたいと希望していたからだという理由が記されています。五旬節は元々出エジプトの49日後にシナイ山で神が律法を与えたことを記念するユダヤ教の大きな祭りの一つでしたが、イエスを信じる者にとっては、イエスの十字架と復活後の最初の五旬節の時に、イエスに命じられて待っていた聖霊が下り、キリスト教会誕生の日として重要な日です。パウロはこの記念日をエルサレムにいる弟子たちと共に過ごせる最後のチャンスと考えていたのだと思います。陸路をいけば各地で引き止められエルサレム到着が遅れる可能性がありました。そしておそらくもう一つの理由は、小アジア、特にエフェソ周辺を徒歩旅行すれば、反対者たちを刺激し、騒動が再発する恐れがあったからだと考えられます。


B. 長老たちへの別れの言葉 (17-24)

1) 主に仕えて歩む (17-21)

パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。

 パウロはエフェソに直接入る危険は避けなければなりませんでしたが、エフェソのリーダーたちには、もう一度話しておきたかったのです。自分のアジアでの活動の中で、パウロが自分に課し心がけたことを彼らにも引き継いでもらうためでした。これらのことは、イエスに従う者すべてが心しておくべきことです。それは、一言でいえば「主に仕える」とはどういうことかを意味しています。主に仕えるということは抽象的なことではなく次のような具体的なことなのです。

 第一に、自分の無力をわきまえ、人々と協力して働きを進めること。イエスに従う者にとって無力は弱点ではありません。弱さを痛感していればしているほど、聖霊に働いていただける余地が大きいということだからです。自分の無力を認められない人は、神様に用いられにくく、人を裁いてしまいがちです。そして知らず知らずのうちに聖霊の邪魔をしてしまうことになるのです。

兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。 (1コリ 1:26-29)

第二に、多くの涙を流すことです。それは楽しい時も、悲しい時も、苦しい時もその人の心に寄り添うということです。イエスについてヘブライ人の手紙 (5:7) は

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。

と伝えています。パウロはこのあとの31節でも

わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

と勧めています。皆さんは最近誰かと共に、笑ったり、食べたりするだけでなく、その人のために涙を流して祈りましたか?

第三に、困難や試練を思いがけないものとは思わず、主に仕えるものには当然降りかかってくるものだと知っていることも大切です。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 (2コリ 12:9, 10)

大丈夫です。何が起こっても!私たちは決して気休めで大丈夫だよ言っているのではありません。イエス・キリストに信頼を寄せているので、そういうのです。自分にも人にも、イエスを思い浮かべながら「大丈夫だよ」と言ってあげましょう。

そして最後に、イエスについて自分が聞いたこと、知ったこと、持っている確信を、どのような人にもあらゆるチャンスを用いて伝えることです。自分自身のこととしてだけではなく、ユアチャーチ全体として伝える姿勢を持ち続けることが出来るように気をつけましょう。

これらが、ここでパウロが教えてくれている主に仕えて歩むということの具体的な方法です。


2) 霊に促されて進む (22-24)

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。

 「霊に促されて」とパウロは言います。しかし、エルサレムで楽しいことは待っていないのです。聖霊はこのところ、どの町でもパウロに告げているのは「エルサレムで待っているのは投獄と苦難」だということです。しかしパウロはそれを避けたいとは全く思ってもいません。後半にその理由が記されています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。エルサレムそしてローマは、パウロにとって単に捕まって苦しむところ、殺されるところなのではありませんでした。人生の働きの総まとめとしてエルサレムとローマでも主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすこと考えています。結果的にパウロはローマでまる二年、自分の借りた家に訪ねてきた人には自由に語ることが出来たと使徒言行録の最後の章に記されています。ユアチャーチも聖霊の促しに従ってここまで来ることが出来ました。これからもそうしていきたいと思います。一人一人が後悔しないように、神様が与えてくださった道を走り通すつもりで進んでゆくなら、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことになるのです。


メッセージのポイント
主に仕えるとは、主に礼拝を捧げるということを中心として車輪のように全方向に広がり、主と共に、主に従う人々とともに人々に仕えるということです。私たちはミニストリーという言葉を使いますが、それは、それぞれが与えられた賜物を用いて人々のニーズを満たすということです。賜物を与えるのも、導きを与えるのも聖霊です。


話し合いのために
1) パウロはなぜエルサレムへ行こうとしているのですか?
2) パウロは何のためにエフェソのリーダーたちを呼び寄せたのですか?