<メッセージノート>

2014/4/13(受難週)マルコによる福音書15:6-15, 25-41
私たちのために無力になられた神

A. 私たちの罪

1) 「十字架につけろ」(6-15)

ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。


2)「自分を救ってみろ」(25-32)

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(*こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。) 29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。


B. 神様の払われた犠牲 (33-41)

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。


メッセージのポイント
十字架がなければ、私たちは神様と敵対しています。自分中心の生き方は、他人を犠牲にし、神さえも自分の利益のために利用しようとする生き方です。それは世界に憎しみと怒りしかもたらしません。神様はそんな私たちを救うために、自ら十字架で苦しむという犠牲を払われて、私たちの罪の身代わりとなられました。神様の払われた犠牲の大きさを心に留めて、この受難週を過ごしましょう。

話し合いのために
1) なぜイエス・キリストは十字架につけられたのですか?
2) 34節のイエスの叫びは何を意味しているのでしょうか?

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<メッセージ全文>

2014/4/13(受難週)マルコによる福音書15:6-15, 25-41
私たちのために無力になられた神

 今日は、教会のカレンダーでいくと「シュロの日曜日」と呼ばれる日にあたります。イエス様が弟子たちとの旅の終わりに、いよいよご自分の死を目前にしてエルサレムに入られた日です。ろばの子の背に乗ってエルサレムに入って来られるイエス様を、人々はシュロの葉や自分たちの服を道に敷いて、新しい王として迎えました。今日読むマルコによる福音書では11章にそのことが書いてあります。イエス様は、エルサレムに入って5日後の金曜日に、十字架に架けられて殺されます。ですから、シュロの日曜日はイエス様の受難の始まりを意味しています。イエス様が十字架で苦しむことがなかったなら、教会もキリスト教もありません。今日は、イエス様の十字架での死が書かれている聖書の箇所を読んで、私たちの命の中心がどこにあるのか、思い起こしたいと思います。

A. 私たちの罪

1) 「十字架につけろ」(6-15)

ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

 祭司長たちがイエス様を捕らえたのは、イエス様への妬みと憎しみの感情からでした。イエス様の方に人々が引きつけられて、自分たちの立場が危うくなると考えたからです。彼らは、イエス様に人々が引きつけられる理由を知ろうとはしませんでした。また、彼らが守ってきた社会の構造や宗教的教えが神様の愛からかけ離れ、歪んだものとなっていることをイエス様に指摘されることが、耐えられませんでした。彼らは、自分たちの過ちを認められず、保身に夢中になるあまり、イエス様の正しさと魅力を認められませんでした。そして、イエス様が自分が神の子であると言うと、確かめることもなく、神を冒涜したと糾弾しました。イエス様自身がヨハネによる福音書でこう言われています。10:37-38「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。 Do not believe me unless I do the works of my Father. But if I do them, even though you do not believe me, believe the works, that you may know and understand that the Father is in me, and I in the Father." 」歴史上のイエス・キリストという人物が神だと突然言われて、すぐに受け入れられる人はいないでしょう。歴史に実在した一人の人間が、人間ではなく神様なのだということは、一人一人が考えて調べて受け入れるか受け入れないかの問題です。イエスという人がどういう人なのか、何を教えていたのか、何をしたのか。それを私たちは聖書から知ることができます。そこに書かれている彼に関する事柄は、あなたを引きつけるでしょうか。祭司長たちは、目の前でイエス様が奇跡を行っても、正しいことを教えていても、それに魅力を感じられませんでした。それは、自分の保身と、イエス様への妬みと憎しみにとらわれていたからです。
 この祭司長たちの自己中心性は、私たちの性質でもあります。彼らは、自分の立場を危うくさせるイエス様には消えてもらうのが一番好都合だと考えました。自分の利益のために他人が苦しんでも何とも思わない、むしろ当然だと思う、非情な自己中心性です。十字架刑の惨さは、皆さんもお聞きになったことがあるかもしれません。自分の利益のために、他人が惨い刑に処せられることを当然と思ってしまうほど、私たちは他人の苦しみに無関心になり得ます。「十字架につけろ」という叫びの背後には、この人間の性質が見えます。私たちは皆、自分に損となることには敏感で、他人の苦しみには想像力が足りないという性質を持っています。このことは、私たちは自分たちの体験として知っていると思います。「あの人は私がこんな苦しんでいるのを知らない」と恨めしく思ったことは、多かれ少なかれ誰にでもあると思います。今まさにそのように苦しめられている方もいると思います。それでも、ただ被害者である人はいません。今被害者だとしても、別の形で誰かに対して加害者になっているのが私たちの現実です。この社会にある様々な問題は、他人の苦しみに無関心であるという私たちの性質がなければ、そもそも起こらなかった問題でしょう。多くの人は、それでも自己中心的であることがいいことではないとは知っているので、自分の中のどこかで、自分と他人のバランスを保っています。「これくらいは社会への責任、他人への配慮、これくらいは自己実現も許されるだろう」というふうにです。でも、その基準は一体どうやって決められるのでしょうか?なぜそれが正しい基準だと言えるのでしょうか?そんな基準自体が自己中心的であると気が付かなければ、私たちは他人の苦しみに鈍感なままです。本当に自己中心的でないとはどういうことか、イエス・キリストはそのことを十字架で示した人です。イエス様を知ることによって、そして聖霊を受けることによってだけ、私たちは自分たちの自己中心的な性質を正しくとらえることができます。イエス様を知ることによって、初めて私たちは本当に自己中心的でないとはどういうことかを知ります。自分の力で自己中心的な性質を変えることはできません。聖霊によってのみ、私たちは変えていただくことができます。


2)「自分を救ってみろ」(25-32)

イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。(*こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。) 29そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 十字架に架けられたイエス様に向かって、人々は「神なら自分を救ってみろ」とののしりました。神ならば、超自然的な力を発揮して、人間にはできないようなことをできるはずだ、という主張です。これも、彼らだけではなく、私たちも持っている、神というものへの誤解です。勝手な期待とも言えます。神様が、何でも知っていて何でもできる、全知全能の方だということは聖書の伝える真実です。でも、今その力を見せてくれれば信じてやろう、というのは、単に人間の勝手で傲慢な要求です。神様というのは人間を超えた力を持っているはずであり、「無力な神」というのは矛盾する言葉だと、私たちは思ってしまいがちです。でも、神様が超自然的な力で人間を圧倒して従わせるような存在なら、なぜ最初からそうしなかったのでしょうか。人間の都合で力を見せたり見せなかったりするような神様なら、結局人間の方が神様より優位に立っていることになります。それはもう神様ではありません。本当に畏れるべき方を畏れないこと、神様を神様と思わないこと、これが私たちの根本にある罪です。神様すら自分の思い通りになると思ってしまう傾向と言うこともできます。イエス様の十字架は、そんな私たちの罪を明らかにしました。神様は、十字架の出来事によって、ある意味で私たちの期待を多いに裏切りました。自分で自分を救えなかった神様です。それは私たちの一般的な神様像に全く沿わないものだと思います。でも、本当は、神様は自分で自分を救えなかったのではなく、救わなかった、のです。


B. 神様の払われた犠牲 (33-41)

昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。

 イエス様は十字架で苦しみながら、「私の神よ、なぜ私を見捨てたのですか」と叫びました。自分の苦しみを顧みて下さらない神様に対する、絶望の叫びです。あなたはこの苦しみを見て下さらず、私はもう死のうとしている。あなたは私の叫びを聞いて下さらなかった。イエス様は、この時完全に神様に見捨てられました。そして、その叫びを聞いていた人々にとっても、そこにはただ、神様がおられないという絶望だけがあったでしょう。神の子であり、新しい王であったはずのイエス様は、神様に見捨てられ、犯罪人として扱われて死んでしまいました。
 「神様、あなたはここにおられない!私を見捨てられた!」と叫ぶような状況は、この世界にあふれています。私たちの周りにも、分かりにくいだけで、生きているのに生きる希望を失っている人々がいます。どの時代もどの国でも同じです。悲しいですが、それは人間の罪がある限り、決してなくなりません。私たちは、他人の苦しみには想像力が足らず、鈍感です。この世界で誰も自分を苦しみから助けてくれる者がいない時、誰も苦しみを分かち合ってくれない時、人は絶望します。
 でも、私たちはそんな状況になっても絶望しません。そういう状況にある人に、希望はあると確信を持って言うこともできます。それは、十字架が神様の計画の終わりではなく、十字架で死なれたイエス様は三日後に復活されたと知っているからです。十字架でイエス様が絶望の叫びをあげた時、そこに神様はいないように見えました。でも、イエス様が復活されたという事実によって、十字架の絶望にこそ神様はおられたと知ることができます。「神様、あなたは私を見捨てられた!」と叫ぶような状況の中にこそ、神様の希望があります。
 イエス様が神様に、「なぜ私を見捨てられたのですか」と叫んだ時、この希望はまだありませんでした。イエス様は、人にも神にも見捨てられた、全く希望の絶たれた状況に置かれました。その時、神様はそこにいませんでした。それは私たちのためでした。神様を神様と認めず、自己中心的に生きる私たちは、神様に見捨てられるべき存在でした。全く希望のない状況に置かれるはずでした。神様はそんな私たちのために、十字架であえて無力になりました。自分で自分を救わず、そこに存在を示しませんでした。私たちの代わりに、その苦しみを引き受けるためです。神様がご自分自身を、私たちのために自ら犠牲とするためでした。
 イエス様が息を引き取った時、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂けたと書かれていました。垂れ幕は、その奥におられる神様と、その手前にいる私たちを隔ててきたものです。神様は、イエス様の死によって、その垂れ幕を自ら破られました。イエス様の苦しみと死が、私たちと神様を隔てていたものを取り払いました。私たちは今、神様の前に何も持たずに出て行くことができるようになりました。本当は神様と親しい関係を持つのに全くふさわしくない私たちを、イエス様の血が覆ってくれました。神様が私たちのために十字架でして下さったことを覚えて、今週一週間を過ごしましょう。

メッセージのポイント
十字架がなければ、私たちは神様と敵対しています。自分中心の生き方は、他人を犠牲にし、神さえも自分の利益のために利用しようとする生き方です。それは世界に憎しみと怒りしかもたらしません。神様はそんな私たちを救うために、自ら十字架で苦しむという犠牲を払われて、私たちの罪の身代わりとなられました。神様の払われた犠牲の大きさを心に留めて、この受難週を過ごしましょう。

話し合いのために
1) なぜイエス・キリストは十字架につけられたのですか?
2) 34節のイエスの叫びは何を意味しているのでしょうか?