<メッセージノート>

2014/5/18 メッセージノート 旧約聖書の人物シリーズ⑤ ルツ1:15-19a, マタイ8:18-22
主に従うことの意味:ルツの場合 池田真理

A. ルツの選択(ルツ1:15-18a)

15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。17 あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。19 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた (ルツ記 1:15-19a)


B. 主が求めていること(マタイ8:18-22)

18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」 (マタイによる福音書 8:18-22)


C. 私たちの覚悟


メッセージのポイント
ルツは、自分の肉親と故郷を離れ、全てを失って絶望している姑のナオミを支え続けることを選びました。それがルツにとって、主に従うということでした。私たちは神様によって今置かれているところに置かれています。そこで私たちが何を選び、誰にどう仕えることを、主は喜ばれるのでしょうか。主に従うことは、苦しんでいる人と共に苦しむこと、そのために自分の親しんできた環境や人々との関係を離れることを伴う時があります。神様がそうされるなら、私たちは不安でも、それを喜んでできる力を神様が与えて下さいます。主を信頼して、自分にとっての主に従うことの意味を求めていきましょう。

話し合いのために
1) ルツはなぜナオミと共に生きることを選んだのでしょうか?
2) 主に従うということは、あなたにとって具体的に何を意味していますか?

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<メッセージ全文>

2014/5/18 メッセージ 旧約聖書の人物シリーズ⑤ ルツ1:15-19a, マタイ8:18-22
主に従うことの意味:ルツの場合 池田真理

 今日は旧約聖書の人物シリーズ5回目で、ルツを取り上げます。このルツの物語は、イエス様の時代から1000年以上前の出来事だとされています。旧約聖書の中で、女性の名前が題名になっているのは、このルツ記とエステル記です。ルツ記の最後に出てきますが、ルツはダビデの曾祖母(ひいおばあさん)にあたり、その家系はイエス様の父とされたヨセフにまでつながっています。
 今日の箇所に入る前に、ルツ記1章で描かれている物語を説明しておきたいと思います。ルツはイスラエルの人ではありませんでした。ベツレヘムに住んでいたナオミという女性の家族が、飢饉から逃れてやってきた先の、モアブという外国にいた女性です。ナオミには二人息子がおり、そのうちの一人と結婚したのがルツでした。つまりナオミとルツは姑と嫁の関係です。ナオミのもう一人の息子も、そこでオルパという女性と結婚しました。ナオミは、自分の夫、息子二人とその嫁二人と、モアブの地で10年過ごしました。しかしその間に、ナオミの夫、ナオミの息子二人は相次いで死んでしまいました。ナオミは、夫と息子を全て神様に取られたと嘆き、悲しみにくれて、自分の故郷であるベツレヘムに帰ることを決めました。ちなみに、ベツレヘムはクリスマスの話で必ず出てくるので、皆さんご存知だと思います。ヨセフとマリアが住民登録のために向かった町で、イエス様が生まれた町です。それは、ルツの時代から1000年以上後になります。では今日の箇所を読んでみましょう。
 

A. ルツの選択(ルツ1:15-18a)

15 ナオミは言った。「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい。」16 ルツは言った。「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行きお泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。17 あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」18 同行の決意が固いのを見て、ナオミはルツを説き伏せることをやめた。19 二人は旅を続け、ついにベツレヘムに着いた (ルツ記 1:15-19a)

 ナオミの二人の嫁ルツとオルパは、ナオミを慕っていました。でも、オルパはナオミの「ついてくるな」という説得に屈して、ナオミと同行することをあきらめました。でもルツは、どうしてもナオミと共に行くと言って、ナオミの説得に応じませんでした。ナオミもとうとうあきらめて、ルツはナオミと共に、自分の故郷であるモアブを離れました。ナオミの故郷ベツレヘムは、ルツにとってはナオミ以外に家族も友人もいない、異国の地です。ルツがモアブに留まれば、自分の実の両親、兄弟や友人が、未亡人になった自分のことを支えてくれたかもしれません。そして、夫と息子を亡くして悲しむ義理の母についていくことは、一般的に考えれば、ルツには何の得にもなりません。ナオミの言うように、ここでナオミとは別れて、自分の故郷で再婚相手を見つけて、第二の人生を歩み始めることもルツにはできました。でも、ルツはナオミと共に生きることを選びました。それも、死ぬまで、つまり自分の一生をナオミと共にしたいのだと訴えています。それは、単なるナオミへの同情だけで言えることではないと思います。ただナオミがかわいそうだから一人にしておけないという優しさだけでは、一生をあなたと共にするとまでは言えないのではないでしょうか?ナオミが元気になるまで一緒にいてあげようとは思うかもしれませんが。なぜ、ルツは自分の人生をかけてナオミを支える決意をしたのでしょうか?
 それは、ルツがナオミをとても愛していたからということは、もちろん言える と思います。10年を共に過ごす中で、そして度重なる家族の死という悲しみを共に経験する中で、ナオミとルツの関係は実の親子以上に深いものになっていたのかもしれません。でも、ルツが自分の人生をナオミにささげる決心をした理由は、そういう人間的な感情だけではないと思います。
 ルツはナオミに、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神」と訴えています。そして、「死んでお別れするならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうぞ私を幾重にも罰して下さい」と祈ってもいます。ルツにとって、ナオミと共に行くことは、神様に約束したことでもあったということです。ルツの決意は、神様に対する意思表示でした。ルツは、もともと外国人で、イスラエルの神、つまり聖書の神様を信じていたわけではありませんでした。でも、ナオミの家に嫁ぎ、共に暮らすうちに、ナオミたちの信じるイスラエルの神を自分の主と信じるようになったのでしょう。そして、家族に不幸が続き、ナオミの信仰が揺らいだ時、ルツはナオミたちから受け取った信仰によって、今度は自分がナオミを支えなければいけないと思いました。それが、自分が信じるようになった神様が、自分に今与えられた役割だと受け取ることができました。ルツがナオミに一生仕えようとしたのは、それがルツにとって主に従うことだったからです。ルツは、自分の家族に起こった状況の中で、自分が主に望まれていることが何であるかを求めて、実行しました。主に従って実行していることなので、それを破るようなことがあれば、自分は主に背いたことになる。ルツは、義理の母と苦しみを共にすることが、主によって自分に与えられた道だと確信していました。そして、それは一般的に考えればルツに何ももたらさないどころか、犠牲を伴うものと見えたとしても、ルツは悲観していなかったと思います。主を信頼していたからです。ルツはベツレヘムで外国人でありながら人々に尊敬され、再婚して、ナオミに喜びをもたらすことになりました。
 主に従うということが具体的に何を意味するかは、人によって、置かれた状況によって、異なります。ルツの場合はお話ししてきた通りですが、それも、ルツが置かれた状況が少しでも違えば、選択は異なっていたかもしれません。主に従い、主の愛する人々に仕えるということは、私たちそれぞれが、置かれた状況の中でケースバイケースで何をするべきか祈り求めなければならないことです。それはいつもわかりやすいわけではありません。どちらをとるべきか、究極の選択を迫られるような時もあります。だから、今日はここから、イエス様ご自身が教えている箇所を読んでみたいと思います。



B. 主が求めていること(マタイ8:18-22)

18 イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。19 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。20 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」21 ほかに、弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。22 イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」 (マタイによる福音書 8:18-22)

 ここには、律法学者と弟子の一人という二人の人物が登場しています。律法学者はイエス様に、「あなたが行かれる所ならどこへでもついていきます」と告げています。これだけ聞くと、ルツがナオミに言っていた内容と似ているように感じますよね。イエス様を尊敬し、どこへでも従いますという決心の表明のように聞こえます。でも、この律法学者に対するイエス様の答えは、非常にそっけないものです。「狐にも鳥にも休む場所があるが、私にはない。そんな私にあなたは本当にどこまでもついて来られるのか?あなたには無理だ。」と言っているようです。
 次に弟子の一人が「父を葬りに行かせて下さい」と言うと、イエス様は「それよりも私に従う方が先だ」と答えています。「父を葬る」というのは、一説によると、文字通りの意味ではなく、子として両親への務めを果たすという意味の慣用的表現だそうです。だから、ここでのやりとりは、弟子の一人が家族への責任を果たしてからあなたに従いますと言っているのに対して、イエス様がそれは順番が逆だと正しているということになります。そうだとしても、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」というのは、かなり厳しい言い方かもしれません。でも、それほど、イエス様に弟子として従うということは、何よりもまず、イエス様を礼拝することだということです。
 例えば、親の期待に応えるのは子の務めかもしれませんが、親の期待と神様の計画が一致するとは限りません。親の期待が勝手なものかもしれません。親にも限界があり、間違いがあるので、私たちがまず第一に求めるべきなのは、神様の期待が何かということなのです。もちろん、神様を第一にすることと、親を大事にすることは、決して矛盾しません。ルツの場合を思い出すと、ルツは、ナオミを神様よりも大切にしたのではありません。そうではなく、ルツが主を第一にするということの中に、ナオミと共に生きるという選択がありました。また、親が不完全であるのと同じように、子も不完全です。親を通して神様が語られているのかもしれないのに、子どもの方が自分勝手な思いを神様の計画と取り違えることもあるでしょう。 だから、親も子どもも、自分の願いや考えがいつも正しいと考えてはいけないということです。自分も相手も、限界を持っていて、間違いをするということです。「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい」というイエス様の言葉は、この世の価値観や立場に基づくいろいろな責任を超えて、それらよりも上に神様がおられることをまず知りなさい、という意味です。
 さて、イエス様は、律法学者に対しては、あなたが私に従ってくるのは無理だと言いました。その一方で、弟子に対しては、家族よりもまず私に従いなさいと言いました。どっちの受け答えでも、イエス様に従うということがそんな簡単なことではないということが言われています。でも、一方では、簡単ではないからあなたには無理だと言い、もう一方では簡単ではないがついてきなさい、と言っています。それも、「あなたにどこへでもついていきます」と勢い込んでいる律法学者に対しては「無理だ」と冷たく、「あなたについていく前にやることがあります」と消極的な弟子に対しては「それより大切なことがあるだろう」と励ましています。律法学者と弟子の大きな違いは何でしょうか?それは、それぞれのイエス様への呼びかけに表れています。イエス様を「先生」と呼ぶか、「主」と呼ぶかです。「先生」は、私たちが色々な分野の専門家・エキスパートを指して使う言葉です。イエス様は確かに、正義と愛のエキスパートという意味で「先生」でもあります。でも、それだけでは決定的に何かが足りていません。それは、イエス様を自分の生活・人生の主(あるじ)とすることです。イエス様が、なにか人生の役に立つことを教えてくれて、困ったときに助けてくれるただのいい先生なら、イエス様はあなたの主ではありません。イエス様は、あなたが本当の意味で主を主と呼ぶことを待っています。私たちがイエス様を心から私の主と呼んで礼拝する時、イエス様はどんなに険しい道でも「大丈夫、私についてきなさい」と言うでしょう。この弟子は、律法学者のように「あなたに従います!」と勢い込んではいませんでした。むしろ、イエス様に従うということが具体的に何を意味するのか、分かっていませんでした。それでも、イエス様は、私についてきなさいと励まして下さいました。イエス様は、この弟子が自分に信頼して仕えようとしていることを知っていたからです。イエス様を自分の主(あるじ)として信頼してさえいれば、イエス様は、私たちがイエス様に従って歩むことを喜び、支えて励まして下さいます。私たち自身は、相変わらず、この弟子のように、まだ迷いがあり、間違った判断をするとしてもです。イエス様に従う上で求められているのは、イエス様を自分の命の主として礼拝し、信頼することだけです。


C. 私たちの覚悟

 さて、今日の最後の部分は、「私たちの覚悟」というタイトルです。ここまで、主に従うために必要なことは、イエス様を自分の主とすることだけとお話ししてきました。でも、マタイのイエス様の言葉からは、それが実は簡単なことではないと言われているような印象を受けます。イエス様は律法学者に、「狐には穴があり、鳥には巣がある。しかし、私には休むところもない。」と言いました。イエス様を自分の主として信頼することは、簡単ではないのでしょうか?簡単だけれど難しいのだと思います。
 私たちは、「私についてきなさい」というイエス様の優しい呼びかけに応えるだけです。それはとても簡単なことです。私たちはイエス様に弱さと醜さを隠す必要もなく、改善してからでないとだめだと言われているわけではありません。「ただそのままのあなたで私に従いなさい」と呼びかける声に、従うだけです。「そのままでいい」と言っているイエス様を信頼するかしないか、ただそれだけです。イエス様が私たちに求めているのは、何か歴史に残るような偉大なことをするとか、多くの人に尊敬されるような人になるとか、そういうことではありません。私たちがイエス様を信頼して行動した結果、神様によってそういうことになることはあるかもしれませんが、それがイエス様に従う条件ではありません。弱さと間違いを持ったままで、私たちはイエス様に従うことができるし、それしかありません。
 でも、イエス様に従うことは、難しくもあります。イエス様に従うということは、イエス様が愛したように愛する、ということです。それは簡単ではありません。なぜなら、イエス様の愛は他人のために自分を犠牲にする愛だからです。イエス様が十字架で教えて下さった愛は、苦しみを伴う愛でした。イエス様は、十字架で殺されるためにこの世界に来られ、自分が苦しんでも私たちを救うためにそれが自分の使命であると知っていました。私たちがイエス様を信頼して従って行こうとする時、このイエス様の苦しみも共にすることになります。イエス様に従って人々を愛するためには、自分の何かを犠牲にすることになります。時間、体力、社会的地位、お金、色々な犠牲の形があると思います。ただ、イエス様は、十字架で本当の愛に犠牲と苦しみが伴うということだけではなく、三日後に復活して、その先の希望も教えて下さいました。この目に見える世界でだけ判断すれば、イエス様は本当の愛を示すために犠牲を払って死んで終わりのように見えます。でも、イエス様はよみがえり、今も生きておられます。だから、私たちはこの世界の中で苦しんでも、この世界とは別の世界、神様の国を喜ぶことができます。ただ、この世界で生きている限り、神様の国の価値とは違うところに価値が置かれているという状況が、私たちを取り囲んでいます。だから、時に抵抗にあったり、自分自身葛藤を持つことがあります。イエス様に従うということは、時にこの世界の価値観に逆らうこともあるということです。だから、その意味でもイエス様に従うのは難しいとも言えます。気を付けていなければ、私たちはこの世界の価値に圧倒され、振り回されて、イエス様を見失ってしまいます。
 ルツはナオミに、自分の人生を捧げる決心をしました。それはルツにとって犠牲を伴うものでした。未亡人として、外国人の嫁として、落ち込んでいる義理の母を支えるという、決して明るい未来が約束されている選択ではありませんでした。でもルツは、神様を信頼して、喜んで、それを実行しました。
 私たちは、イエス様に従って、誰かのために自分の何かを与えるほど愛する覚悟はあるでしょうか?今日読んだマタイの箇所は、日本語では「弟子の覚悟」という小見出しがついています。でも、どうぞ誤解しないで下さい。ここで言われているのは、弟子たるもの、苦しみを耐え忍ばなければならない、という覚悟ではありません。イエス様に従って、自分の犠牲を伴っても愛する覚悟、愛し続ける覚悟です。それは、相手によって、相手との関係によって、自分の状態によっても、形は変わっていくのが自然だと思います。神様がどうすればよいか、教えて下さいます。イエス様を自分の主と呼んで礼拝するとき、神様が私たちの心に願いを起こし、力を与えて下さいます。主を信頼して、今置かれている場所、人間関係の中で、人々を愛する力を与えて下さるように、祈りましょう。


メッセージのポイント
ルツは、自分の肉親と故郷を離れ、全てを失って絶望している姑のナオミを支え続けることを選びました。それがルツにとって、主に従うということでした。私たちは神様によって今置かれているところに置かれています。そこで私たちが何を選び、誰にどう仕えることを、主は喜ばれるのでしょうか。主に従うことは、苦しんでいる人と共に苦しむこと、そのために自分の親しんできた環境や人々との関係を離れることを伴う時があります。神様がそうされるなら、私たちは不安でも、それを喜んでできる力を神様が与えて下さいます。主を信頼して、自分にとっての主に従うことの意味を求めていきましょう。

話し合いのために
1) ルツはなぜナオミと共に生きることを選んだのでしょうか?
2) 主に従うということは、あなたにとって具体的に何を意味していますか?