<メッセージノート>

2014/6/15 旧約聖書の人物シリーズ⑥ サウル サムエル記9−15章
サウル:神様と自分に自信を持てなかった王

池田真理

A. 神様に選ばれるということ

1) 何が起こるのか

選ばれる (9:15-17)

サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」サムエルがサウルに会うと、主は彼に告げられた。「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。」(9:15-17)

あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。 (ヨハネ15:16-17)


霊を注がれる (10:9-10)

サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。(10:9,10)


2) 何が変わらないのか (10:20-27)

サムエルはイスラエルの全部族を呼び寄せた。ベニヤミン族がくじで選び出された。そこでベニヤミン族を氏族ごとに呼び寄せた。マトリの氏族がくじで選び出され、次にキシュの息子サウルがくじで選び出された。人々は彼を捜したが、見つからなかった。そこで、主に伺いを立てた。「その人はここに来ているのですか。」主は答えられた。「見よ、彼は荷物の間に隠れている。」人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。サムエルは民全体に言った。「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳。」サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記して主の御前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれの家に帰した。サウルもギブアの自分の家に向かった。神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。しかしならず者は、「こんな男に我々が救えるか」と言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった。(10:20-27)


B. 選ばれた者の力と責任 (15章)


サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」(15:17-19)


1) 人ではなく主に聞き従うこと

2) 過ちを認めること


C. むなしいものを求めず、主を求めよう (12:20-25)

サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」(12:20-25)



メッセージのポイント
サウルの犯した間違いは、自分を選んだ神様も、神様に選ばれた自分も、どちらも信用できなかったために起こりました。人の評価ばかりが気になるのは、サウルと同じ状態です。神様は私たちを選んで、ご自分の霊を注いで下さいました。私たちは弱く、間違いやすいままですが、選んで下さった神様の愛を信頼しましょう。そして、選ばれている者(愛されている者)として、力強くこの世界を歩んでいきましょう。

話し合いのために
1) 15章で、サウルはなぜ主の命令に背いたのでしょうか?
2) 「神様に選ばれている」とは、どういうことですか?

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<メッセージ全文>

2014/6/15 旧約聖書の人物シリーズ⑥ サウル サムエル記9−15章
サウル:神様と自分に自信を持てなかった王

池田真理


 今日は旧約聖書の人物シリーズ6回目です。イスラエル王国の最初の王様となった、サウルを取り上げます。紀元前1000年くらいに生きた人物です。サウルは、王に選ばれた最初から、もしかしたら王になる前から、ずっと神様との関係に問題を抱えていて、そのまま一生を終えてしまった人です。神様に選ばれながら、自分に自信が持てず、常に人の評価を気にして、神様を見失ってしまいました。サウルがそうなってしまった原因は、自分が神様に選ばれているということを、最後まで正しく受け止めることができなかったからです。神様が私たちを選ぶとはどういうことなのか、サウルの物語はそのことを私たちに教えてくれています。


A. 神様に選ばれるということ

1) 何が起こるのか

選ばれる (9:15-17)

サウルが来る前日、主はサムエルの耳にこう告げておかれた。「明日の今ごろ、わたしは一人の男をベニヤミンの地からあなたのもとに遣わす。あなたは彼に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの指導者とせよ。この男がわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫び声はわたしに届いたので、わたしは民を顧みる。」サムエルがサウルに会うと、主は彼に告げられた。「わたしがあなたに言ったのはこの男のことだ。この男がわたしの民を支配する。」(9:15-17)

今日は時間がないので、預言者サムエルとサウルの出会いの様子を詳しく読むことはしません。でも、今読んだ通り、神様は預言者サムエルを通して、一方的にサウルを王に任命しました。サウル自身が王になりたいと神様に願って王になったわけではありません。9章の初めに、サウルはイスラエル中で一番美しく、背の高い若者だったと書かれてありますが、だから神様は彼を選んだとは書いてありません。預言者サムエルにも、神様はなぜサウルなのか説明していません。神様はただ、「この男が民を支配する」とサムエルに告げました。つまり、なぜ神様がサウルを王に選んだかは、サウル自身にも、サムエルにも、私たちにも分からないということです。私たちが分かるのは、なぜだか分からないけれど、神様はサウルを選んだということだけです。これは私たちとイエス様の関係でも言えることです。イエス様はこう言っています。

あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。 (ヨハネ15:16-17)

 私たちは人生のどこかで、イエス様に従って行こうと決心して、イエス様との歩みを始めます。それは私たちがある時点でする決心であることに変わりはありません。ただその一方で、その決心は、神様がそうして下さらなければできない決心です。神様が先に私たちを選んで、呼んで下さるから、私たちは決めることができます。神様がなぜ私を選んだのか、それは神様にしか分かりません。理由は私の中ではなく、神様にしかありません。私の何かが他の人より秀でていたから、私が他の人の持っていない何かを持っていたから、神様は私を選んだのではないのです。ただひたすら、神様が「あなただ」と呼ばれたから、選ばれたのです。
 でも、「選ばれる」と聞くと、どこか排他的な印象を受けられると思います。ワールドカップ代表に選ばれて今まさに試合で輝いている選手がいる一方、選ばれなくて絶望している選手もいるかもしれません。私たちの感覚で考えれば、選ばれる人がいるということは、同時に選ばれない人がいるということを意味します。誰かが「私は選ばれた人間だ」と言うのを聞いたら、自分は選ばれていないその他大勢の一人とみなされているということで、いい気分はしないでしょう。実際、そういうふうに言う人で、自分は特別優れた人間で、その他大勢の人とは別格だと本当に信じている人がいるとしたら、それは独裁者かカルトの教祖になるような人でしょう。つまり、人間の感覚では、「選ばれる」ということは、その人の持っている特別な能力などと引き換えに起こることだと考えられています。でも、神様に選ばれるということは、そういうことではありません。神様は、あなたに何か特別な能力を見い出したから、選ぶのではありません。あなたが何かできてもできなくても関係なく、ただ神様があなただと決めたから、あなたを選ぶのです。だから、神様に選ばれたことを、誰にも自慢することはできません。選ばれた理由は私たちの中にはなく、私たちには分からないからです。そして、神様が誰を選ぶのかは、私たちには決して分かりません。分かりませんし、気にするべきことでもありません。私たちはただ、神様が自分を選んだことに驚きつつ感謝するだけです。
 ここまででお気付きかもしれませんが、神様の場合だけは、「選ぶ」という言葉を「愛する」に置き換えることができます。神様の選びは、一方的です。人間のする選びと違って、交換条件はありません。神様に選ばれるということは、私たちの能力も経験も関係なく、一方的に神様に愛されるということです。自分がどんな人間であるか、どんな状態であるかを心配することなく、神様に選ばれていると知ること、愛されていると知ること、それが神様を信じるということです。


霊を注がれる (10:9-10)

サウルがサムエルと別れて帰途についたとき、神はサウルの心を新たにされた。以上のしるしはすべてその日に起こった。ギブアに入ると、預言者の一団が彼を迎え、神の霊が彼激しく降り、サウルは彼らのただ中で預言する状態になった。(10:9,10)

 神様に選ばれたサウルは、王のしるしとして油を注がれ、そして神様の霊を受けました。今読んだ箇所は、先週読んだペンテコステの出来事の記述と似ています。弟子たちが聖霊を受けたように、サウルも聖霊を受けました。主に従うということは、聖霊の力を受けずにはできないことです。サウルも、弟子たちも、私たちも同じです。それが異言や預言など、超自然的な現象として現れることもあります。でも、先週のお話にあった通り、大切なのはそういう現象を体験することよりも、聖霊によって私たちが実を結ぶということです。神様に愛されている者として歩み、実を結ぶために、聖霊を注いで下さるように、神様に繰り返し求めましょう。


2) 何が変わらないのか (10:20-27)

サムエルはイスラエルの全部族を呼び寄せた。ベニヤミン族がくじで選び出された。そこでベニヤミン族を氏族ごとに呼び寄せた。マトリの氏族がくじで選び出され、次にキシュの息子サウルがくじで選び出された。人々は彼を捜したが、見つからなかった。そこで、主に伺いを立てた。「その人はここに来ているのですか。」主は答えられた。「見よ、彼は荷物の間に隠れている。」人々は走って行き、そこから彼を連れて来た。サウルが民の真ん中に立つと、民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。サムエルは民全体に言った。「見るがいい、主が選ばれたこの人を。民のうちで彼に及ぶ者はいない。」民は全員、喜び叫んで言った。「王様万歳。」サムエルは民に王の権能について話し、それを書に記して主の御前に納めた。それから、サムエルはすべての民をそれぞれの家に帰した。サウルもギブアの自分の家に向かった。神に心を動かされた勇士たちは、サウルに従った。しかしならず者は、「こんな男に我々が救えるか」と言い合って彼を侮り、贈り物を持って行かなかった。だがサウルは何も言わなかった。(10:20-27)

 神様に選ばれ、油を注がれ、聖霊を注がれたサウルでしたが、いざ人々の前で王として名前を呼ばれた時、彼は荷物の間に隠れていました。「お前なんかに我々が救えるか」と馬鹿にされても、サウルは黙っていたと書かれてあります。神様に選ばれても、聖霊を受けても、サウル自身の不安や迷いは消えていなかったということです。神様に選ばれた理由も分からず、王になる自信もありませんでした。それは、サウルが自分自身の中に神様に選ばれた理由を探していたからです。神様に選ばれても、愛されていても、そうされるに値しない自分は変わりません。だから、自分の中に神様の愛に見合うものを見つけようとしている限り、私たちはサウルと同じように、いつまでたっても不安を消すことはできません。
 サウルに葛藤があったように、実は私たちにとっても、条件なしに神様が愛して下さっていると受け入れることは、自分自身との闘いでもあります。なぜなら、私たちの中には、「愛されていると証明してみろ」と叫ぶ声がいつもあるからです。それは、私たちが競争社会に生きているからです。自分の能力、経験、人柄が、他人より優れていて、自分が選ばれるに値する人間だと証明するように、社会は私たちに求めます。その中では他人からの評価が全てになり、他人の反応に一喜一憂します。評価されなければ、証明は失敗、自分は選ばれていない、愛されていない、と考えてしまいます。そして「あなたが何も持っていなくても、何もできなくても、誰があなたを否定しても、私はあなたを愛している」という神様の声が聞けなくなってしまいます。自分の願いが叶わない時、思いがけない苦しみが襲う時に、それでも自分は神様に愛されていると言うことも、簡単ではありません。自分より他の人の方が、神様の愛を多く受けているように感じてしまいます。私たちはいつも、神様に愛されているということを否定する誘惑にさらされています。でもそれは誘惑であって、幻想であり、真実ではありません。神様に愛されているということ、それが真実で、それを否定する声とは闘い続けなければいけません。
 私は今年で洗礼を受けてからちょうど10年になります。まだ10年、もう10年、両方とも言えると思いますが、もう10年も経つのに、神様に愛されているということが分からなくなる自分を情けなく思っていたことがあります。今でも、神様を信じていると言いながら、実は神様の愛が分からなくなる時があります。神様はあなたを愛しているよと誰かを励ましながら、本当に神様は私を愛しているのだろうか、愛されていると断言できるだろうか、と考えてふと自信がなくなる時があります。でも、ヘンリ・ナウエンの本を読んで、それは正常なんだと分かって安心しました。神様に愛されていることを否定する声とは、一生闘い続けなければいけないのだと、ナウエンは書いています。60歳を超えたナウエンが言っているので、残念ながら、私たちは生涯この闘いをやめることはできないようです。でもだから、神様の愛が分からなくなっても、自分にがっかりすることはありません。どうぞそのままの思いを神様にぶつけてみて下さい。


B. 選ばれた者の力と責任 (15章)


 さて、サウルは神様に選ばれていること、愛されていることに自信が持てないままでした。そして、自分が選ばれた者であることを証明しなければならないと、行動を始めます。選んだのは神様だったのに、選ばれているということが分からなかったために、王としての立場を守るために、人々の支持を保つことの方に一生懸命になってしまいました。神様の愛が分からなかったから、神様の愛を信頼する闘いを放棄してしまったのです。
 サムエル記15章では、神様にアマレク人を全滅させるように命じられたサウルが、全滅させずに戦利品を奪い取ったエピソードが書かれています。そんなサウルをサムエルは問いつめ、諭します。長いのでここではサムエルの言葉しか読みません。ただその前に、神様がアマレク人を滅ぼし尽くせと命令したということについて少し付け加えておきたいと思います。旧約聖書を読んでいると、度々神様がイスラエルの人々に他民族を皆殺しにするように命令したという記述があって、私たちが普段知っている愛の神様とは相反するように感じます。これは、旧約聖書の限界と言っていいと思います。ユダヤ人は長い間、自分たちが聖なる民であり、異邦人は汚れていると見下していました。それが勘違いであると、神様はイエス様を送ることによって明らかにしました。聖書は神様の言葉ですが、人間を通して書かれたものなので、旧約聖書にも新約聖書にも、書かれた時代の人間の価値観が反映されています。だから、聖書に書かれている言葉を一言一句誤りのない神聖な言葉だととらえてしまうと、とんでもない間違いを犯すことになります。それぞれが書かれた時代背景と文脈を考えて読むことが大切です。ここで「アマレク人を滅ぼし尽くせ」と書かれていることも、この時代の人間の価値観が反映されていると言えます。そして、そんな人間の誤りを神様は許していたとも言えます。
 サウルの物語に戻ります。


サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」(15:17-19)


1) 人ではなく主に聞き従うこと

 サムエルはサウルに、あなたは自分に自信がないかもしれないが、あなたは神様に選ばれた者ではないか、と呼びかけています。そして、兵士たちが戦利品を献げ物として主に捧げようと言ったのです、と言い訳をするサウルに対し、あなたは人に認められることよりも、主に聞き従うべきなのだと諭しています。お話ししてきたように、神様が私たちを選ばれるのは、神様の一方的な選びであり、私たちの中に選ばれる理由があるのではありません。でも、選ばれたと分かったなら、愛されていると知ったなら、そのことを否定する自分自身とも他人とも、争わなければいけません。それが神様に選ばれた者の責任です。そして同時に、それが選ばれた者の特権、力でもあります。あなたは愛されていないという人の声を気にしなくていいという特権です。サウルも、自分が自分をどう思おうと、他人が自分のことを何と言おうと、神様の愛を信頼すればよかったのです。それは、サウルの責任でもあり、神様に頼ればそれがどんなに自由をもたらすものであるか、分かるはずでした。でも、サウルは神様に選ばれていることに確信を持てなかったために、神様に頼るよりも、人に頼ってしまいました。そして、自分が愛されていることの証拠を、人の中に探してしまいました。それは永遠に心休まることのない、不毛な試みです。
 神様は私たちを条件なく選んで愛して下さっています。十字架がその証拠です。移ろいやすい人の心の動きに一喜一憂するのではなく、最初から最後まで変わることのない神様の声に耳を傾けましょう。


2) 過ちを認めること

 選ばれた者の力と責任、二番目は「過ちを認めること」です。15章で、サウルはサムエルに諭されて、表面的には自分が間違っていたと認めました。でも、自分が神様を信頼していないという決定的な間違いには、生涯気が付けませんでした。サムエル記では、この後ダビデが登場して、サウルは自分の人気が全てダビデに奪われてしまったと感じて、ダビデを殺そうと追いかけます。その間も、サウルには、何度も間違いに気が付くチャンスがありました。サウルは、神様の愛を、自分でどうにか手に入れようとしなければいけないと思っていました。自分が頑張れば、神様に認められて、人に認めてもらえると思っていました。それが、サウルの決定的な間違いです。神様の愛は、私たちが頑張って手に入れるものではありません。自分の力で手に入れられると思うことが間違いです。私たちは受け取ることしかできません。このことを認められなければ、私たちは神様に愛されている者になることはできません。逆に言えば、私たちは神様に愛されるために、何もする必要はありません。神様は先に私たちを愛して下さっています。神様の愛は、私たちには受け取ることしかできず、受け取るだけでいいのです。

 最後に、サムエルが人々に語りかけた言葉を聞きましょう。


C. むなしいものを求めず、主を求めよう (12:20-25)

サムエルは民に言った。「恐れるな。あなたたちはこのような悪を行ったが、今後は、それることなく主に付き従い、心を尽くして主に仕えなさい。むなしいものを慕ってそれて行ってはならない。それはむなしいのだから何の力もなく、救う力もない。主はその偉大な御名のゆえに、御自分の民を決しておろそかにはなさらない。主はあなたたちを御自分の民と決めておられるからである。わたしもまた、あなたたちのために祈ることをやめ、主に対して罪を犯すようなことは決してしない。あなたたちに正しく善い道を教えよう。主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。主がいかに偉大なことをあなたたちに示されたかを悟りなさい。悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう。」(12:20-25)


 これは、サウルが王として即位し、人々に迎えられた直後のサムエルの言葉です。サムエルは、人々が神様という唯一の主を知りながら、人間の王を求めること自体が、既に悪いことだと断言しています。神様ではなく、人間に期待を寄せること、それはむなしいものを慕って主からそれていくことだと警告しています。神様は、私たちがむなしいものを求めてしまうことを知っています。サウルも、イスラエルの民もそうでした。でも「それはむなしいのだから、何の力もなく、救う力もない」というのが真実です。むなしいものを求めず、「主がいかに偉大なことを(私たちに)示されたかを悟り」、主を求めましょう。神様が私たちを選んで下さいました。その神様の愛に驚きながら、信頼することだけが、私たちを「愛されている者」として力強く生かしてくれます。


メッセージのポイント
サウルの犯した間違いは、自分を選んだ神様も、神様に選ばれた自分も、どちらも信用できなかったために起こりました。人の評価ばかりが気になるのは、サウルと同じ状態です。神様は私たちを選んで、ご自分の霊を注いで下さいました。私たちは弱く、間違いやすいままですが、選んで下さった神様の愛を信頼しましょう。そして、選ばれている者(愛されている者)として、力強くこの世界を歩んでいきましょう。

話し合いのために
1) 15章で、サウルはなぜ主の命令に背いたのでしょうか?
2) 「神様に選ばれている」とは、どういうことですか?