<メッセージノート>

2014/6/29 メッセージノート (使徒言行録 24)
カイサリアの二年間


A. カイサリアでの告発

1) アナニアの告発 (5-9)

実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。 閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」 他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。


2) パウロの弁明 (11-16, 21)

確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。(11-16) 

彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」(21)


B. フェリクスと妻ドルシラ (24-27)

数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。 しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。 だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。 さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。

1) 興味から恐怖へ


2) 神様は私をどこへ? (詩編 37)


メッセージのポイント
イエスを主と信じる信仰は、ユダヤ教社会の中で生まれました。それはユダヤ教側から見れば分派、異端であったということです。パウロはいわれのない告発には抗議しましたが。分派であることは、はっきりと認めた上で、人々に希望を語っています。私たちは依然として少数派ですが、この社会にイエス・キリストによる希望を伝えることが出来ます。それが私たちの地上でのミッションなのです。

話し合いのために
1) 私たちは神様からどのように生きることを期待されていますか?
2) フェリクスとその妻はなぜパウロから話を聞きたいと思ったのでしょう?

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<メッセージ全文>

2014/6/29 メッセージノート (使徒言行録 24)
カイサリアの二年間


A. カイサリアでの告発

1) アナニアの告発 (5-9)

実は、この男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の主謀者であります。この男は神殿さえも汚そうとしましたので逮捕いたしました。 閣下御自身でこの者をお調べくだされば、私どもの告発したことがすべてお分かりになるかと存じます。」 他のユダヤ人たちもこの告発を支持し、そのとおりであると申し立てた。

 パウロがカイサリアに移送されて五日後、大祭司と長老たちは、弁護士を連れてエルサレムからやって来て総督にパウロを引き渡すよう訴えたのです。パウロの問題は、ユダヤ国内のしかも宗教問題で、ローマの法律に触れるものではありません。大祭司はユダヤ宗教界の意向を受けて、パウロが自分たちの宗教裁判に引き出されるべきだと主張したのです。もちろん、今まで見てきたようにそれは口実で裁判にはかけず暗殺してしまうつもりでした。裁判では勝てないどころか、パウロに主導権を握られてしまうことがわかっていたからです。一方総督は、ローマ市民であるパウロを保護しなければならないという建前とユダヤ人の有力者たちに気に入られたいという現実的な必要の間で落とし所を探っていました。


2) パウロの弁明 (11-16, 21)

確かめていただけば分かることですが、私が礼拝のためエルサレムに上ってから、まだ十二日しかたっていません。 神殿でも会堂でも町の中でも、この私がだれかと論争したり、群衆を扇動したりするのを、だれも見た者はおりません。 そして彼らは、私を告発している件に関し、閣下に対して何の証拠も挙げることができません。 しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。 こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています。(11-16) 

彼らの中に立って、『死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけられているのだ』と叫んだだけなのです。」(21)

 パウロは証拠のない虚偽の告発ははっきりとし否定しますが。ユダヤ教から見れば分派的な立場にいるということはさっさと認めてしまい、「旧約聖書を全部信じている」と言っています。これはユダヤ人とは実際には異なるスタンスでした。彼らはパウロとは違い、旧約聖書だけではなく、後にタルムードとしてまとめられる、自分たちの言い伝えも守るべきだと考えていました。それこそ彼らが律法主義に陥り、神様の意思から離れてゆく原因だったのです。パウロの言葉には「あなた方は私を分派というが、神様から離れた言ったのはあなた方の方ではないか?」という非難が潜んでいるのです。
 キリスト教にも異端と言われる分派が数多く出現して来ました。そして彼らは伝統的な教会を間違っていると攻撃します。しかし私たちは祭司長、長老とは違い胸を張って、「私たちは神様とともに立っている。あなた方は離れてしまっている。」ということが出来ます。それは、私たちがパウロと同様に聖書に、別のものを加えたり、聖書の一部分を捨てたりしてはいないからです。現在、日本で活動している大きな分派はエホバの証人、モルモン教、統一教会です。教義も組織も異なりますが、共通するのは、聖書だけが権威ではないという点です。聖書を解釈する鍵のような文書を持っていて、むしろそちらを重視します。なぜでしょう?旧新約聖書だけでは自分たちの正当性を主張できないからです。
 私たちも間違ってしまう可能性は高いのです。今お話してきた<聖書に何かを付け足す>という間違いです。聖書が教えていないのに想像力を働かせて、ピント外れなクリスチャンらしさを自分や人々に求めることが起こります。礼拝の時の服装とか、嗜好品の禁止とか、性別によるダブルスタンダードがあたかも神様が命じているかのように考える人が出てきます。厄介なのは、彼らがその種を聖書の中から見つけ出してくるからです。聖書のある一節だけを引き出して、神がそう命じていると教えるのです。しかし聖書を表面的に読むなら、矛盾したことはいくらでも出てきます。それでも私たちが、聖書は誤りのない神の言葉と確信しているのは、文章として矛盾がないというのではなく、全体が神様からのメッセージだと信じているということです。神様がその言葉を、時代や文化という制約の中にいる人間に記録することを委ねたのですから、そういう意味での間違いがあっても、神の言葉の価値が下がるわけではありません。パウロでさえ、教会では女性は黙っているべきだと書いたりしているのです。そして女性は牧師になってはいけないと教える教会は今でも存在します。神様は私たちがどのように聖書を読むことを望んでおられるのでしょうか?それは私たちが第一にイエスに従っているのだという意識を持つことです。イエスならどう受け止められるだろうかと考えることです。私たちが聖書の教えに従うのはそれがイエスの教えだからです。イエスだったら今の私たちに、男性はネクタイをして、女性は長いスカートをはいて礼拝しなければいけませんとおっしゃるでしょうか?特定の嗜好性を持つ人を集まりから締め出すでしょうか?プロテスタント教会は、カトリック教会から「あなた方は教皇を否定して宗教改革したけれど、紙(聖書)を教皇にしただけではないか?」と批判されたことがあります。イエスに従わずに、聖書の文字に従うなら、この批判はもっともです。聖書を正しく理解するためには、イエスをもっと知らなければなりません。
 パウロはさらにユダヤ教の中の復活についての教えの不統一を突いて、彼らの中には自分が主張している点に同意しているグループもあり、その主張でサンヘドリンが混乱し自分の裁判が続けられなくなったのだと主張しました。大祭司たちは、もうここで手を引くしかありませんでした。


B. フェリクスと妻ドルシラ (24-27)

数日の後、フェリクスはユダヤ人である妻のドルシラと一緒に来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた。 しかし、パウロが正義や節制や来るべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、「今回はこれで帰ってよろしい。また適当な機会に呼び出すことにする」と言った。 だが、パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。 さて、二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた。

1) 興味から恐怖へ

 パウロという人物を間近に見て、総督フェリクスはイエスの話に興味を持ちました。ユダヤ人であった妻ドルシラもパウロの話を聞いてみたいと思ったようです。ドルシラは、普通のユダヤ人ではありません。前の王の娘で、当時の王の妹にあたります。兄であったアグリッパ2世はドルシラに政略的な結婚を二回させましたが、フェリクスはドルシラを気に入り、圧力をかけて小国の王であった二番目の夫からドルシラを奪って自分の三番目の妻としたのです。ドルシラは自分の境遇から、パウロが何か新しい人生の可能性を得たいと思ったのかもしれません。あるいは単なる好奇心に過ぎなかったのか聖書は説明していませんが、少なくとも二人がイエス・キリストへの信仰について話を聞きたかったことは確かです。ところがフェリクスは、正義、節制、裁きのことに話が及ぶと怖くなりました。その地位を利用して、正義を曲げ、享楽にふけり、他人の妻を取り上げた自分が神様から見てどのような存在なのかわかってしまったからです。
 皆さんは、この恐れが自分には関係がないと思いますか?この恐れは、イエスに従う者となるために絶対に必要なものなのです。フェリクスは自分が経済的、社会的には高い地位にいるにもかかわらず、神様の目から見れば罪深く、自分など神様がその気になれば簡単に滅ぼされてしまうということに感付いてぞっとしたわけです。ここにフェリクスだけでなく誰もが持つ人間の「罪」が示されているのです。神様の正しさきよさの前に、私たちとフェリクスは50歩100歩です。神様は確かに愛の方です。徹底的に赦してくださる方です。しかし神様は、自分は赦される必要のない者だと思っている人を赦すことは出来ません。私たちは神様に、悪を裁き私を助けてくださいと願いますが、問題は私の中にある「悪」なのです。この悪の根源は、神様に背を向けて生きる事=「罪」です。それは大変恐ろしく、しかも自分では取り除くことが出来ないので、私たちは「神様、赦してください」と膝をかがめるしかありません。神様は罰なしに赦す方ではありません。それでは赦しではなく甘やかしです。神様に背を向ける大罪に対する罰は、私たちには到底耐えられない「死」以外にはありません。ノアの箱舟の時のように滅ぼしつくされても仕方のないような私たちです。しかし、あの洪水が収まった時、神様は虹を印とする永遠の契約を与えました。「地上の全ての生き物を二度と滅ぼさない」という契約です。この愛の契約を守り、同時に正義を貫く方法などないかのように思えます。人間には決して思いつけない難問です。ところが神様は、誰にも思いつかない驚くべき方法で愛と正義を両立させました。こんな解決策は聖書にしかありません。だから聖書は人の手によって書かれていても神の言葉なのです。神様からのインスピレーションなしには書けないものです。ご自身がひとりの人、イエスとして十字架に掛かり苦しみを受け、血を流し、肉を裂かれ死に渡された。そして彼をよみがえらせた、それが神様の採られた方法です。それがあなたのための十字架の意味です。フェリクスが感じたのと同様に恐るべき私たちのイエスを知るまでの人生でした。パウロも自分のこととしてそれを知っていました。だから、ユダヤ人に気に入られようと監禁を続け、半ば金目宛に聞いてくるフェリクスに語り続けたのです。主イエスを信じなさい!私もパウロと同感です。ですから何度でも皆さんに勧めます。それはただ、「イエスが神」と信じるということではありません。滅ぶしかない罪深い自分の身代わりに十字架で苦しみ、死なれ、死に打ち勝った方として信じるのです。そこには、それまで自分の生き方に対する恐れと後悔、赦されることへの切実な願いに対する神様の応えとしてイエスが私を選んでくださったと信じることです。この信じる決心の表明が洗礼です。そして生きている限り自分の罪の赦しのためにイエスが十字架で苦しまれたことを覚えて聖餐に与るのです。


2) 神様は私をどこへ? (詩編 37)

 フェリクスのパウロの話を聞きたいという動機は純粋なものではありませんでした。お金に汚い人だったこともわかります。それでも神様は、パウロを通してチャンスを与え続けたようです。パウロとの出会いがこの夫婦に何らかの変化を与えたのではないでしょうか?しかし、フェリクスがユダヤ総督の任を解かれた後、夫妻がどのような足跡をたどったのか聖書は何も語ってはいません。イエスを伝えることにおいて、私たちはその結果(その人が信じると決心する、教会に来るようになる)よりも、相手がどんな動機で近づいてくるのであれ、付き合い続ける、伝え続けることのほうが大切なのです。私たちの一人一人の大切な人々のために、イエスに従い続け、その姿を見てもらいましょう。


メッセージのポイント
イエスを主と信じる信仰は、ユダヤ教社会の中で生まれました。それはユダヤ教側から見れば分派、異端であったということです。パウロはいわれのない告発には抗議しましたが。分派であることは、はっきりと認めた上で、人々に希望を語っています。私たちは依然として少数派ですが、この社会にイエス・キリストによる希望を伝えることが出来ます。それが私たちの地上でのミッションなのです。

話し合いのために
1) 私たちは神様からどのように生きることを期待されていますか?
2) フェリクスとその妻はなぜパウロから話を聞きたいと思ったのでしょう?