<メッセージノート>

2014/7/20 旧約聖書の人物シリーズ⑦ ヤコブ
ヤコブ:祝福を受けるために闘い続けた人

A. 他人の足を引っ張る者として生まれる (25:23-26a)

(25:23-26) 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。



1) 長子の特権を奪う(25:29-34)

(25:29-34) ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。



2) 父の祝福をだまし取る (27:36)

(27:36) エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」



B. 自分の足を引きずる者になる


1) 神様に助けを求める (32:10-13 <9-12>)

(32:10-13) ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」



2) 神様と格闘する (32:23-33)


(32:23-33) その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。



メッセージのポイント
神様は、私たちそれぞれに必要なものを与えて下さいますが、エサウのようにただ与えられるのを待つ者よりも、ヤコブのように受け取ろうとしつこく求める者の方を喜んで下さいます。他人のものを横取りしてもいいということではなく、神様が与えて下さるものを軽んじることなく、あきらめずに求め続けることが大切だということです。それは他人との競争やだまし合いではなく、自分の問題と向き合い、神様の介入と助けを求める格闘です。神様は私たちと真正面から向き合って下さいます。

話し合いのために
1) 神様はなぜエサウよりもヤコブを喜んだのでしょうか?
2) 神様と格闘した経験があればシェアして下さい。


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<メッセージ全文>

2014/7/20 旧約聖書の人物シリーズ⑦ ヤコブ
ヤコブ:祝福を受けるために闘い続けた人

 去年の11月から月に1回、旧約聖書の人物をとりあげてきました。今日はヤコブという人をとりあげます。ヤコブの人生の前半は、他人との競争とだまし合いの連続だったと言えます。それは彼自身がその間違いに気が付くまで続きました。彼の闘いは生まれた時から始まっていました。創世記の25章23節から読んでいきます。ヤコブの母、リベカに神様が語りかけているところです。

A. 他人の足を引っ張る者として生まれる (25:23-26a)

(25:23-26) 主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり兄が弟に仕えるようになる。」24 月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。

 神様は、ヤコブとエサウが生まれる前から、弟のヤコブの方が兄エサウよりも強くなり、エサウはヤコブに仕えることになると知ってたと書かれています。神様は二人が生まれる前から、エサウよりもヤコブを選んでいたということです。ここだけ抜き出して考えると、人の運命は人が生まれる前から神様によって定まっていて、私たちには手の出しようがないのだと思ってしまうかもしれません。でもそれは半分正しく、半分は間違っています。半分正しいというのは、神様は確かに私たちには知りようのない計画を持っていて、その計画に基づいて私たちを動かすからです。私たちは自分の意志で動いているつもりになっていますが、実は神様の意志が働いていて、神様がそうなることを許されているからそうなっているのです。その意味では、神様の計画に私たちは手出しできません。でもそれは、私たちを無気力にさせるのではなく、安心させるはずです。神様は、全てを益にして下さる方だからです。そして、神様の計画は、神様を信頼して歩む私たちを通して実現されていきます。私たちは神様の意思通りに操られているロボットではなく、神様を求める自由を与えられている生身の人間です。神様の計画の全てを知ることは誰にもできないので、どこにその計画があるのか迷いながら、自分にできることを続けることが私たちの責任です。
 ヤコブとエサウの場合も同じです。ヤコブはエサウよりも強くなると預言されながら、ヤコブは事実双子の弟として生まれました。それは、生まれてきたのがほんの少し兄より遅かっただけで、長男の特権を得られないことを意味します。神様がエサウよりもヤコブを選んでいたなら、なぜその通りヤコブを先に生まれさせて、分かりやすくヤコブに長男の権利を与えなかったのでしょうか?それは私たちには分かりません。ヤコブは、エサウよりも数分生まれたのが遅かっただけで、エサウには与えられる権利が自分には与えられないという現実に直面しました。これから読んでいきますが、ヤコブは策略を巡らして、何とか長男の権利を得ようとします。ヤコブが、兄エサウのかかとをつかんで生まれてきたということは、今後のヤコブの半生を象徴しています。ヤコブの人生の前半は、兄エサウとの争いに費やされました。ヤコブという名前も象徴的です。「ヤコブ」はヘブライ語で「足を引っ張る者」と訳すことができます。ヤコブは、生まれた時から兄の足をつかんで、自分が兄よりも前に出ようとして、足を引っ張る者として生きたのです。


1) 長子の特権を奪う(25:29-34)

(25:29-34) ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。 エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。

 エサウは、一時の空腹を満たすために長男の権利をヤコブにあげてしまいました。そんな交換条件を提案したヤコブもヤコブですが、それをあっさり受け入れて自分の空腹を満たす方を優先してしまったエサウは軽卒すぎました。神様が与えて下さった特権を軽んじたからです。エサウにとって、長子の特権は生まれた時から自動的に自分に与えられており、持っているのが当たり前でした。だから、彼はその重要性をいつの間にか忘れてしまいました。反対にヤコブは、自分には与えられなかったからこそ、その特権がいかに大切か、敏感に感じていたのかもしれません。ここに、神様がエサウよりもヤコブを選んだ理由の一つがあります。神様は、私たちに自由に恵みを下さいますが、それが当たり前と思っている者よりも、それを受け取ろうと求める者の方を喜ばれます。自分に与えられているものを、いつの間にか持っているのが当たり前のように感じて、それが神様にいただいたものだということを忘れてしまうことは、私たちにもあります。エサウとヤコブからも分かるように、私たちは、あるものよりもないものの方に敏感です。だから、既に神様が下さったもの、持っているものについて、神様に感謝しましょう。そして同時に、ないものについても、あきらめることは決してありません。私たちがしつこいくらいに求めても、神様は決していらだったりしません。ヤコブは、しつこく求め続けました。そこにエサウとの違いがありました。神様の計画は不思議です。ヤコブが兄として生まれていたら、こうはならなかったのかもしれません。私たちは、自分に何か欠けていると思う時、がっかりするよりも、そこにこそ神様が働いて下さると楽しみにすることができます。ただ、ヤコブは、この時点ではまだそこに気が付いていません。神様が働かれることを期待するより、自分の力でどうにか手に入れようとしました。


2) 父の祝福をだまし取る (27:36)

 27章には、ヤコブが父イサクをだまして、長男エサウに与えられるはずの祝福を横取するという話が書かれています。イサクは年をとって目が見えなくなっていました。そこで、ヤコブはエサウのいない隙に、エサウのふりをして父から祝福を受けてしまいました。エサウは毛深かかったので、ヤコブはヤギの毛皮を体に巻き付けて、父に見破られないようにしました。でも、当然エサウが帰ってくれば、ヤコブのやったことはエサウにもイサクにもばれてしまいます。でも、もう祝福の儀式は終わってしまっていて、イサクにもどうしようもありませんでした。エサウは悔しがります。

(27:36) エサウは叫んだ。「彼をヤコブとは、よくも名付けたものだ。これで二度も、わたしの足を引っ張り(アーカブ)欺いた。あのときはわたしの長子の権利を奪い、今度はわたしの祝福を奪ってしまった。」


ヤコブにとって、争う相手は兄であり、兄に勝つために父さえも利用しました。ヤコブは、自分に足りないものを手に入れるには、他人と競争して勝つしかないと思っていました。そのためには汚い手を使うのも、人をだますのも当然と思っていたのかもしれません。ヤコブには、自分の周りの人間しか見えていません。エサウが言う通り、ヤコブは名前の通り、他人の足を引っ張り、邪魔をし、利用する、ずる賢い人でした。でも、神様を知らなければ、それしか生き方はありません。神様を忘れてしまえば、私たちは皆、他人が自分の役に立つか邪魔になるか、自分にとっての損得でしか見られなくなってしまいます。
 ヤコブは、この後、当然エサウに憎まれ、家にいられなくなります。そして、叔父のラバンのもとに逃れ、そこで結婚して20年間過ごすことになります。ヤコブは兄と父をだまして長男の権利と祝福を奪い取りましたが、それは何の意味もなかったと言えます。ラバンのもとにいた20年間、ヤコブはラバンに何回もだまされました。ヤコブもラバンをだましました。でも、そんな中でも、神様はヤコブと共にいて、祝福を約束したと聖書に書いてあります。そして、20年後、ヤコブは神様に励まされて、妻子や家畜の群れを連れて、故郷に戻る決心をします。その頃には、ヤコブは自分の間違いに気が付いていました。


B. 自分の足を引きずる者になる

1) 神様に助けを求める (32:10-13 <9-12>)


(32:10-13) ヤコブは祈った。「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。あなたは、かつてこう言われました。『わたしは必ずあなたに幸いを与え、あなたの子孫を海辺の砂のように数えきれないほど多くする』と。」

 ヤコブは、自分のしたことは兄エサウに責められて当然だと思いました。場合によっては皆殺しにされるくらい、ひどいことをしたと自覚していました。でも、神様はそのエサウのいる故郷に帰りなさいと言われています。ヤコブ自身、もうラバンの元にはいたくなかったでしょう。ヤコブは神様に助けを求めて祈りました。それは以前のヤコブならしなかったことです。自分の欲しいものは自分の力で手に入れようとしていたヤコブです。その頃は、競争相手はエサウという目の前にいる人間でした。でも、今は、自分が自分の力で生きているのではなく、神様に支えられ、導かれてきたことを知っていました。自分の家族も財産も、自分で得たのではなく、神様に与えられたと知っていました。だから、自分が過去に犯した過ちがこれからどんな結果を自分にもたらすか不安であっても、神様に助けを求めることができました。神様はヤコブに応えました。


2) 神様と格闘する (32:23-33)


(32:23-33) その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。


 ヤコブは、神様に問題の解決を求めていました。自分が過去にした間違いを認めながら、それでも自分と自分の家族を守ってくれるように、神様に助けを求めました。そんなヤコブと、神様は真正面から向き合い、闘います。私たちも、神様が応えて下さることを期待して神様に求めます。神様の応えを求め続けること、それが神様との格闘です。自分の悩み、苦しみを隠さず、神様が自分によくして下さるように求めるというのは、根気のいることです。痛みも伴います。自分の弱さや間違いと向き合うことにもなるからです。私たちが神様と向き合い格闘する中で、神様は私たちの弱さも明らかにされます。直面している問題の解決は、他人が変わることよりも、自分が自分の問題に気が付くことによって得られる時もあります。ヤコブが神様に腿の関節を外されて、足を引きずるようになったようにです。大切なのは、それでも神様が応えて下さることをあきらめないということです。神様はヤコブに勝てないと見て、と言われていますが、それは神様がヤコブがあきらめないのを見てと言い換えていいと思います。ヤコブは、神様が助けて下さることを期待して、その希望をあきらめませんでした。そして、神様がもう行かせてくれと言った後でも、「いいえ、祝福して下さるまでは離しません」と食い下がっています。私たちも、これくらい神様に期待しているでしょうか?ヤコブのしつこさは、ヤコブの辛抱強さ、神様への期待の高さを示していると言えます。また、そんなヤコブを神様は受け入れています。受け入れるだけでなく、ヤコブと真正面からぶつかり、格闘の相手となりました。そして、ヤコブに新しい名前を与え、祝福しました。イスラエルは、ヘブライ語で「神は戦う」という意味です。ヤコブは人と争い続けていた人でしたが、神様との格闘を経て、自分のために戦ってくれる神様と出会いました。あきらめないで神様と向き合い続けた結果です。それは決して苦しみも痛みもない闘いではありませんでした。でも、それによってヤコブは、他人の足を引っ張る者から、自分の弱さを受け入れて、神様に祝福された者に変えられました。
 どうぞ、神様と格闘して下さい。求めているものを打ち明けて、神様が応えて下さるまであきらめないでください。神様の応えは私たちの期待通りではないかもしれません。でも、神様のなさること、なさらないことは全て私たちに良いことです。そう思えないなら、そう思えるまで神様と格闘を続けて下さい。私たちさえあきらめなければ、神様は私たちと真正面から向き合って下さり、私たちを新しく造りかえていって下さいます。


メッセージのポイント
神様は、私たちそれぞれに必要なものを与えて下さいますが、エサウのようにただ与えられるのを待つ者よりも、ヤコブのように受け取ろうとしつこく求める者の方を喜んで下さいます。他人のものを横取りしてもいいということではなく、神様が与えて下さるものを軽んじることなく、あきらめずに求め続けることが大切だということです。それは他人との競争やだまし合いではなく、自分の問題と向き合い、神様の介入と助けを求める格闘です。神様は私たちと真正面から向き合って下さいます。

話し合いのために
1) 神様はなぜエサウよりもヤコブを喜んだのでしょうか?
2) 神様と格闘した経験があればシェアして下さい。