<メッセージノート>

2014/8/10 フィレモンへの手紙
理想と現実の間に立つ “愛と信仰”


A. パウロの願い

1) 愛と信仰による“エクレシア”(1-10)

キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。


2) フィレモンに求めた実質的な奴隷解放(11-17) 

彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。



B. パウロがローマに連れて来られた本当の理由


彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。(18-22)
キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。(23-25)

1) 受け入れる人と、聞き入れない人がいる(24-28)



2) イエス・キリストを紹介し続けた(30, 31)



メッセージのポイント

イエスの教えは2000年の間に、ある程度普遍的な価値観となりました。どのような理由であれ人を差別するべきではないこと、誰であれどのような人に対してもその困難に救いの手を差し伸ばすべきことなどです。それを反映して奴隷制度も差別も法的には禁じられるようになりました。困難の中にいる人々を助けるための様々な仕組みもできました。しかし、今もなお世界には苦しんでいる人が少なくはありません。イエスは、世界の在り方の理想を「神の国」と表現しました。神の国は、まだはるかに遠く思えますが、すでにあなたの心に来ているものでもあるのです。

話し合いのために
1) パウロはなぜ奴隷制度自体に反対しなかったのですか?
2) あなたは神の国をどう求めますか?


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<メッセージ全文>

2014/8/10 フィレモンへの手紙
理想と現実の間に立つ “愛と信仰”


 パウロが、コロサイ周辺で自宅を開放して家の教会を開いていたフィレモンに宛てた手紙です。見たところ私信のような短い手紙が、聖書に含まれているのには理由があります。それは、時代や地域や文化を超えた普遍的な教えをそこから見出すことができるからです。 私たちはこの手紙を通して、「神の国」という理想と「ここに生きる」現実とのギャップの中で、私たちがどのように愛と信仰を守り、育み、実践してゆくことができるのか?ということについてヒントを得ることが出来ます。

A. パウロの願い

1) 愛と信仰による“エクレシア”(1-10)

キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから、わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。わたしたちの間でキリストのためになされているすべての善いことを、あなたが知り、あなたの信仰の交わりが活発になるようにと祈っています。兄弟よ、わたしはあなたの愛から大きな喜びと慰めを得ました。聖なる者たちの心があなたのお陰で元気づけられたからです。それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが。監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです。。


 この手紙の発信地は記されていませんが、パウロが捕らえられていた時ということがわかるので、エフェソかカイサリアかローマで書かれたことになります。いろいろな説があるのですが、状況やコロサイとの距離などを考えるとエフェソの可能性が強いのではないかと考えられます。そうであれば書かれたのは53年から55年の間ということになります。つまり、パウロの三回目の旅行、使徒言行録19章の頃です。コロサイに教会が組織されつつあった時期です。
 最初に注目したいのは、この手紙がフィレモンとともに彼の家で開かれていた「教会」にも宛てて書かれているということです。新約聖書を全てギリシャ語で読む必要はありませんが、原語を知ることで理解が深まる単語もいくつかあります。「教会」もその一つです。英語ではChurch、日本語では教会と訳されています。Churchはギリシャ語起源の言葉ですが、「主」という意味の言葉から来ていて「主の(もの、家)」というニュアンスです。日本で採用された「教会」はキリスト教を勉強する場所というニュアンスが強く感じられます。けれどもここで使われている「教会」は、エクレシア(集まり、集会)という言葉で、Churchとも教会とも違う、私たちの本質を表す言葉です。教会の本質は建物でも、勉強でもなく、主イエスを中心とした集まりです。
 もう一つだけギリシャ語の原典と私たちの持つ聖書の違いをお話させて下さい。4,5節の「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています。というのは、主イエスに対するあなたの信仰と、聖なる者たち一同に対するあなたの愛とについて聞いているからです。」なのですが、5節は直訳すれば「というのは、主イエスと聖なる者たち一同に対する愛と信仰について聞いているからです。」 私たちの訳は、「主への信仰、仲間への愛」とすっきり分かりやすく整理されていますが、主イエスと私たち、そして信仰と愛が、一つのものでもあるというニュアンスがわかりにくくなりました。またこの手紙では、信仰より愛が主題であるということを示す順番も逆になってしまいました。
 “主イエスと私たち”も、“愛と信仰”も切り離して考えることは出来ません。主イエスを愛してもその体である人々は愛さないということはありえないのです。主イエスを信頼するけれど、その体である人々は信頼しないということもありえません。また信仰のない愛も、愛のない信仰もありえないのです。
 今お話した「教会」の本当の意味と、その意味である主イエスとその体に対する愛と信頼を大切にするなら、パウロの指示は明らかにオネシモの解放を求める事となったはずです。しかし、次の部分を読むと実際パウロはずいぶん遠慮がちにフィレモンにお願いしているように見えます。



2) フィレモンに求めた実質的な奴隷解放(11-17) 

彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています。わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します。本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが、あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです。恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。


 オネシモはフィレモンの奴隷でした。ローマ帝国では、裕福な人が奴隷を持つことは普通のことでした。パウロは後世の私たちのようにはっきりと、人を奴隷とすることは間違っている、と表明し奴隷解放を主張してはいません。そのことを非難したい人もいるかもしれませんが、パウロは、この状況の中では一番いい判断をしたのです。本質的に間違っていたとしても、社会一般に受け入れられている習慣を受け入れている人を個人的に非難することは、私たちのすることではありません。私たちの優先順位は魂の解放です。もちろん身体的解放はそれに伴わなければなりません。しかし私たちの最終目的は世直しではなく、人と神様の関係の回復です。それが人と人の関係回復にもつながるのです。パウロはフィレモンに奴隷制の過ちについてではなく、奴隷に身分に置かれている人を愛するということを教えたかったのです。だから、奴隷を持つ、持たないという観点からではなく、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟をどう扱うべきかという観点からオネシモを受け入れてほしいと頼んでいるのです。
 もしパウロがフィレモンを非難してオネシモを手放さなければ、オネシモは自由になれたとしても、フィレモンは盗まれた奴隷を惜しみ続け、二人の愛する兄弟を失う事になったばかりか、一番大切な友、イエスさえも失っていたかもしれなかったのです。



B. パウロがローマに連れて来られた本当の理由


彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう。そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください。あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。わたしが言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、わたしのため宿泊の用意を頼みます。あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです。(18-22)
キリスト・イエスのゆえにわたしと共に捕らわれている、エパフラスがよろしくと言っています。 わたしの協力者たち、マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくとのことです。 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。(23-25)

1) 受け入れる人と、聞き入れない人がいる(24-28)


 パウロはフィレモンを友として受け入れることを求めるだけではなく、自分も二人の友として、必要なら自分がオネシモの負債を負うとさえ言います。三人が愛と信頼によって結ばれているのだということを確認したいと願っています。パウロは決して、社会的な問題をそのままにして、個人的な人間関係だけが解決できれば良いと考えていたわけではありません。しかし社会のことは個人と切り離して解決することは出来ません。制度をなくすことは完全な解決にはならないのです。奴隷を許す法律などもうどこにもないのに、奴隷のような状態に置かれている人々多く存在します?法律の上では男女同権でも、実際はそうではありません。今、地球上には飢餓で苦しむ人が8億人以上います。それは世界の人口の8人に一人の割合で、しかもその63%はアジアに暮らしているのです。アフリカは30%ほどです。この人たちが命を失う危険は奴隷以上でしょう。実際の差別がなくならないのは、誰の心にもある自己中心です。その存在が遠ければ遠いほど、身近な人には働く想像力が働かないのです。「誰でも差別なく愛しましょう」と命令されても出来るものではありません。無条件で愛されていることを知っている人だけが、無条件で愛することが出来ます。あなたはその愛を知っています。だから制度は変えられなくても、人の心に届くことが出来るのです。


2) イエス・キリストを紹介し続けた(30, 31)


 この一人の奴隷だった人をイエスに従う者となった主人がどう扱うか、ということを主題とした手紙を読むときに、私たちも理想を仰ぎ見ながら、現実をどう生きるかということを考えさせられます。しばしば理想と現実の大きな差に打ちのめされてしまいます。イエスの時代にもローマの支配が我慢できないと反乱を起こそうとする人たちがいました。イエスはローマから独立を勝ち取る革命家として期待されていました。しかしイエスは社会をひっくり返すことではなく、制度に苦しむ人々に徹底的に寄り添うという方法で、人々の救いとなりました。パウロはイエスの教えを見習ってフィレモンやオネシモを愛しました。
 私は、この国のありようがずっと気に入らずに来ました。今でもそうです。間違いを犯し続けていて、苦しまなくても良い人々が苦しんでいると思います。イエスと出会う前の私は、この国の仕組みを壊して、別の仕組みを導入することで問題を解決できると思っていました。しかし制度という入れ物が変わっても、自分自身を含めて中身である人間が変わらなければ解決はないと思うようになりました。イエスは問題の根源は私達自身の心にあることを教えてくれました。教えてくれただけでなく、「心の向き」を変えてくれたのです。心の性質が変わったとか、良い心になったとはとてもいえません。しかし、確かに向きは変わりました。心が神の国に向いている、ということが大切です。イエスが私たちに求めていることは、「目の前に広がる現実をしっかりと見ながら、心は神の国に向けている」ことです。このことは、現実を肯定するのでもなく、絶望してあきらめてしまうのでもなく、希望を持って、あなたの愛を必要とする人々に寄り添って生きてゆくことの出来る秘訣なのです、イエスと共に。



メッセージのポイント

イエスの教えは2000年の間に、ある程度普遍的な価値観となりました。どのような理由であれ人を差別するべきではないこと、誰であれどのような人に対してもその困難に救いの手を差し伸ばすべきことなどです。それを反映して奴隷制度も差別も法的には禁じられるようになりました。困難の中にいる人々を助けるための様々な仕組みもできました。しかし、今もなお世界には苦しんでいる人が少なくはありません。イエスは、世界の在り方の理想を「神の国」と表現しました。神の国は、まだはるかに遠く思えますが、すでにあなたの心に来ているものでもあるのです。

話し合いのために
1) パウロはなぜ奴隷制度自体に反対しなかったのですか?
2) あなたは神の国をどう求めますか?