<メッセージノート>

2014/08/31 コロサイの信徒への手紙 1:9-23
信仰に踏みとどまるための祈り

A. パウロのコロサイの人々のための3つの祈り (9-12)

こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、
神をますます深く知るように。 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように


B. 神とイエスと教会

1) 神とイエス (13-17)


御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。


2) イエスと私たち (18-22)


また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。


3) 福音の希望から離れてはいけない (23) 

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。


メッセージのポイント
神様をよく知ろうとせず、困難に対して耐え忍ぶこともなく、恵みを感謝することがなければ、信仰を失う事になります。最初に聞いた福音の希望から離れてしまうことになるのです。赦されたけれども、罪の性質は私たちの内に残っているからです。コロサイの教会では実際に、最初の福音から離れて偽りを教える人がすでに登場していました。私たちは互いに祈りあわなければ、この誘惑から身を守ることはできません。そして自分のことについては、ただ祈るだけではなくイエスをもっとよく知るための時間も惜しんではいけません。


話し合いのために
1) 私たちは互いにどのように祈ることを求められているのでしょうか?
2) 福音の希望とはどのようなものでしょう?

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<メッセージ全文>

2014/08/31 コロサイの信徒への手紙 1:9-23
信仰に踏みとどまるための祈り

 先週お話ししたように、コロサイの教会には良い指導者がいて、福音が成長して実を結ぶ兆しがありました。しかしパウロは満足して祈ることをやめてしまうのでなく、むしろ「あなた方のために、神様に絶えず祈り願う」と続けています。心のこもった意味深い書き出しに続いて、今日の部分では、どのようなことを彼らのために祈っているのか、それにはどういう意味があるのかということまで伝えようとしています。彼らにもそれを知る必要があるとパウロが考えたのは、彼らが同じ祈りと意思を持って歩む必要があったからです。きれいな実がなろうとしている果樹園で期待しているのは農夫だけではありません。虫や動物も、ことによる泥棒まで収穫を待っていて、農夫が気を抜けば収穫どころか大きな損失を被ることになってしまいます。実際、コロサイの教会には、イエス・キリストの福音から離れた教えが害虫のように教会に密かに入り込んで、実を腐らせてしまうように教会を変質させてしまう恐れがありました。現代で言えば、異端とかカルトと呼ばれる、イエスを神と信じ従っているわけではないのに自分たちこそ本当のキリスト教だと主張する人々は、教会が生まれてまもなく登場していたのです。ですからここでのパウロの祈りと教えは、私たちが間違いなくイエスに従ってゆくためにも大切なことです。最初に9-12節を読みます。

A. パウロのコロサイの人々のための3つの祈り (9-12)

こういうわけで、そのことを聞いたときから、わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、
神をますます深く知るように。 そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって、光の中にある聖なる者たちの相続分に、あなたがたがあずかれるようにしてくださった御父に感謝するように

 パウロはまずどのような祈りを捧げているかを紹介します。第一に、神をますます深く知るように、という祈りです。それはまごころからの礼拝を捧げること、教えられたことを聖霊の助けによって日常生活の中で実践することによって得ることが出来るものです。そして知れば知るほど、もっとしっかりと従ってゆくことが出来、もっと豊かに実を結ぶことができるので、更に深く神様を知ることが出来るという好循環に身をおくことが出来るのです。しかし、この好循環も時として逆風の中でスピードが鈍ることがあります。そこで諦めれば、それはついに止まってしまうだけではなく、逆回転、つまり悪循環へと逆転してしまいます。だから私たちには、第二、第三の祈りも必要です。順番が逆になりますが、「御父に感謝するように」という祈りを先に紹介します。私たちは物事が順調すぎても、逆に酷い逆境に置かれても同じように感謝を忘れがちです。生かされていること、尽きることのない希望が神様によって自分のために用意されていることを忘れる時、心の中を食い荒らす害虫の侵入を許しやすいのです。「有り難う、ごめんなさい」を適切に表現することが、良い人間関係を保つ上で不可欠なのと同様、神様との関係においても、心からの「ごめんなさい、ありがとう」を忘れないことが大切です。また歩みが重くなり、止まってしまいそうになっても、諦めてはいけません。神様に近づいてゆく道を反対にたどれば、それは滅びへ、絶望へ向かう道なのです。だから、私たちは、その歩みが止まらないように、「神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことも根気強く耐え忍ぶように」と祈るのです。この後の部分でパウロはこの祈りの根拠となる確信を紹介してくれます。13-17節を読みます。


B. 神とイエスと教会

1) 神とイエス (13-17)


御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。

 多くの人は言います。「神様というコンセプトはわかります。でもなぜイエスなのですか?」私たちは、ユダヤ教の人々と旧約聖書を共有しています。イスラム教は、イエスやモーセを「偉大な預言者」と認めています。これに私たちはどう答えることが出来るのでしょうか?今読んだのが、私たちの答えです。教会の歴史のはじめから、イエスが人となった神様であるということに対する挑戦がありました。立派な人間で従ってゆくべき方だが神様ではない、とか反対に、神としての霊的な存在であって肉体を持った人間ではなかったのだ、という主張が繰り返しなされてきました。しかしここに書かれていることは、全てを作られた神様が、イエスという一人の人となって私たちの中に入ってこられたということです。それは、私たちの神様との壊れた関係を十字架の犠牲によって赦すためでした。人としては死んだけれど、復活した事によって、私たちにも死に打ち勝つ、永遠の希望を与え、今は肉眼では見えないけれど、確かにおられるのだということを教えてくれています。それは私たちの希望の根拠です。わたしの主は生きておられる。私を導いておられる。ついて行くことが出来る。それがあなたに知ってほしいことです。いくら優れていても神ではない人間には与えることの出来ないものです。また、もし神様が人としてご自身を表わさなかったら、やはりついて行くことは出来ません。私たちのいただいている恵みと平和は、私たちの従っているイエスが真の神であり真の人であるということ以外に根拠はないのです。しかしそれを、信じていない人に強要しようとする必要はありません。イエスは誰かを改宗させよとは決して言われませんでした。クリスチャンにしなさいとも言われませんでした。イエスは「すべての民を私の弟子としなさい」と言われました。弟子とは自分で決めて従う人です。私たちが出来るのは、自分が喜んで従っていることを見てもらうことだけです。相手が自分の子供でも同じです。神様についての言葉で子供を従わせることは出来ません。神様に対するあなたの態度次第で、子供も神様に対する自分の態度を決めるのです。
教会とは何かということを言い表すのに最もふさわしい表現がここで紹介されています。「キリストの体である教会」 いつもお話しているとおりです。教会とは建物でもプログラムでもなく、このイエスを中心とした人間関係です。この事については次の3)でもう少し詳しくお話します。


2) イエスと私たち (18-22)


また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めの者、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一の者となられたのです。神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。

 教会とは何かということを言い表すのに最もふさわしい表現がここで紹介されています。「キリストの体である教会」 いつもお話しているとおりです。教会とは建物でもプログラムでもなく、このイエスを中心とした人間関係です。この事については次の3)でもう少し詳しくお話します。
 なぜイエスなのか、なぜ十字架なのかということも、ここでもう一度、前の部分に続いて論じられています。天使のように神から派遣されたものとしてではなく、ご自身が完全に宿られた人間として来られ、十字架でご自身と私たちとの和解となられた方です。このイエスと繋がって生きることが出来ることを何よりの幸せと確信するので、私たちは、イエスを紹介し続けるのです。わたしたちは皆、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし、イエスの十字架が私の生き方を変えました。あなたが望むなら、イエスはあなたの生き方を変えてくださいます。


3) 福音の希望から離れてはいけない (23) 

ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、世界中至るところの人々に宣べ伝えられており、わたしパウロは、それに仕える者とされました。

 神様をよく知ろうとせず、困難に対して耐え忍ぶこともなく、恵みを感謝することがなければ、信仰を失う事になります。最初に聞いた福音の希望から離れてしまうことになるのです。どれほど多くの人々が教会を“卒業”していったことでしょうか?彼らは、とりあえず天国行きの入場券が手に入ったので、もう私には教会は必要がないと思っているのでしょうか?しかし、それは私の人生にイエスは必要ないし、イエスを信じる仲間も必要ない、と言っているのと同じです。イエスは私を信じて天国の市民権を手に入れなさいと言われたのではありません。私に従って来なさいと言われるのです。あなたがどう感じようと、あなたにはイエスとその体の他の部分、共に従ってゆく仲間が必要であり、イエスもその体である私たちもあなたを必要としているのです。コリントの信徒への第一の手紙13章は愛の章と呼ばれ、よく読まれてますが、その13節に「信仰と希望と愛はいつまでも残る。その中でも最も大いなるものは愛である」と記されています。励まされますね。しかし実は直前の12章の内容を知らなければ、愛も希望も信仰もあなたの中には働かないというのが事実なのです。12章に書かれていることは、一言で言えば互いにキリストの体の一部分として愛しあうということです。(ぜひ今週は、今日のテキストと合わせて第一コリントの12,13章を読んで下さい。) 私たちは、一人で信仰に踏みとどまることは出来ません。福音の希望を手放さないために、しっかりとこの体につながってゆきましょう。


メッセージのポイント

神様をよく知ろうとせず、困難に対して耐え忍ぶこともなく、恵みを感謝することがなければ、信仰を失う事になります。最初に聞いた福音の希望から離れてしまうことになるのです。赦されたけれども、罪の性質は私たちの内に残っているからです。コロサイの教会では実際に、最初の福音から離れて偽りを教える人がすでに登場していました。私たちは互いに祈りあわなければ、この誘惑から身を守ることはできません。そして自分のことについては、ただ祈るだけではなくイエスをもっとよく知るための時間も惜しんではいけません。

話し合いのために
1) 私たちは互いにどのように祈ることを求められているのでしょうか?
2) 福音の希望とはどのようなものでしょう?