<メッセージノート>

2014/9/14 ルカによる福音書 4:1-13
人間の弱さを持った神


A. 悪魔が狙った人間の弱さ


1) 体を持っている(1-4) (申8:3)

1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。


2) 王になろうとする (5-8) (申6:13)

5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」


3) 神より偉くなろうとする(9-13) (申6:16)

9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。


B. 私たちはイエス様によって弱さを乗り越える

さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:14-15)


メッセージのポイント
イエス様は人間になられた神様です。それは、あらゆるものを超越する全能者である方が、同時に私たちと同じ肉体を持ち、人間である弱さを自ら経験されたということです。イエス様ご自身は決して罪を犯しませんでしたが、私たちと同じ弱く限界のある存在にあえてなって下さいました。神様が私たちを愛するあまり、自ら私たちと同じ姿になって、私たちの罪と弱さを引き受けて下さったということです。それは、神様と私たちが愛し合う関係を取り戻すためです。 


話し合いのために
1) イエス様はどうやって悪魔の誘惑を退けましたか?
2) 私たちはどうすれば誘惑を退けられるでしょうか?


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<メッセージ全文>

2014/9/14 ルカによる福音書 4:1-13
人間の弱さを持った神

 今週からルカによる福音書を読んでいきたいと思います。中でも、イエス・キリストが十字架で死ぬ前に、この地上でどのように生きたのかが書かれている箇所を中心に読んで行きたいと思っています。最初の今日は、4章1-13節です。イエスは、30歳頃から宣教活動を始めたと言われています。今日読む箇所は、その宣教活動が始まる直前の出来事についてです。最初に全体を読みたいと思います。

A. 悪魔が狙った人間の弱さ


 イエス様は宣教を始める前に悪魔から誘惑を受けたが、それに屈しなかった、というのが今日の箇所の内容です。でも注意したいのは、イエス様はまだ悪魔を完全に負かした訳ではないということです。最後の13節には、「悪魔は時が来るまでイエスを離れた」とあります。悪魔はまた戻ってくるということです。この時点ではイエス様は悪魔に勝利した訳ではありません。完全な勝利は、十字架の死と復活の出来事によってもたらされることになります。だから、ここでイエス様が悪魔の誘惑をことごとく退けたと書かれているからと言って、イエス様が何か特別な人間に格上げされているわけではありません。イエス様は悪魔の誘惑に負けなかったから立派な人間だったんだ、ということが言われている訳でもありません。むしろ、このエピソードは、イエス様が神様でありながら、私たち全てが持っている人間としての弱さを共有して下さっていたということを教えてくれています。
 悪魔はイエス様に対して、「もしお前が神の子なら」と言っています。人間であるのに神の子だというなら、そのことを証明したらどうだ、とイエス様に挑戦しているということです。悪魔が挑戦できたということ自体が、イエス様が人間であるということを示しています。イエス様は、悪魔から誘惑を受けるほど、全く完全に人間となったということです。イエス様は決してその誘惑に負けませんでしたが、悪魔にしてみれば、イエス様も誘惑する対象であり得たということです。イエス様が単に神様であるならば、悪魔にイエス様を誘惑する余地はありません。イエス様は、神様でありながら、悪魔が狙う人間の弱さ、私たちの持つ弱さを共有していました。イエス様が神様であり人間であるということは、同じ1枚のコインの表と裏のような関係で、どちらか一方だけ切り離すことはできません。ただ、今日の箇所では、イエス様が人間であったということの方がより強く語られているので、今日はそのことを中心にお話したいと思います。今日の箇所を読むと、イエス様が悪魔に試されたのは、人間である限り誰もが持っている弱さだと分かります。一つずつ見ていきましょう。


1) 体を持っている(1-4) (申8:3)

1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

 まず1-4節では、悪魔は空腹のイエス様に、石をパンにしたらどうだ、と誘っています。体の状態によって、私たちの心も左右されることを、私たちは皆よく知っていると思います。体が疲れれば、誰でも短気になったり弱気になったりします。飢えていれば体も心も元気がなくなるのは当然です。イエス様も、40日の断食の後でお腹が減って飢えていました。イエス様が私たちと同じ体を持っていたから当然です。また、悪魔は「石をパンにして食べればいい」と誘っています。それはつまり、自分の空腹を満たすことを最優先したらいい、という誘いです。私たちはこの肉体を持っている限り、食欲や性欲を持っています。運動することも、寝ることも必要です。健康な体を持っていれば当然のことです。この体が必要とするものを満たし続けなければ、私たちは肉体を保つことはできませんし、生きていくこともできません。だから、体の必要を満たすということ自体は、何も悪いことではありません。でも、この体は神様によって造られ、この世界の神様の働きを担うためにあるのだということを忘れてしまえば、私たちはいつの間にか、自分の体の要求を満たすことに集中してしまいます。そして、決して満たされることのない自分の欲望を満たそうと、自分も他人も傷つけます。食べ過ぎて自分の健康を害します。性的搾取の対象となる子供たちや女性、男性が絶えないのも、人間の欲望のためです。この悪魔の誘惑は、私たちが皆生きるために必要な体の必要を、間違った方向に導こうとしている言葉です。悪魔はイエス様が体を持っている弱さを知っていました。イエス様が人間だったからです。イエス様は、体を持っているという点で、私たちと全く同じ弱さを持って下さいました。


2) 王になろうとする (5-8) (申6:13)

5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」8 イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

 次に5-8節です。悪魔は、この世界を治める王になりたいなら私を拝まなければいけない、と言っています。私たちは皆、できるだけ物事を自分の思い通りに進めたいという願いを持っています。そして、思い描いた通りに成功することを望みます。それが、悪魔の言う、「この世界を従わせる権力と繁栄」です。世界中の国を実際に治める王になりたいと願う人はそんなにいないと思います。それよりも、私たちはそれぞれが生きている群れの中で、王になろうとします。大人も子供も同じです。家族の中で、教室で、職場で、友人の間で、そして教会で。神様を知らなければ、神様を自分の主と礼拝していなければ、私たちは自分を王にしてしまいます。それは、実は悪魔に仕えていることになります。自分の目的を達成するために、他人を従わせ、他人を犠牲にする生き方だからです。神様に仕える生き方とは正反対です。これが、人間全てが持っている罪の性質です。助け合うよりも、殺し合ってしまうという性質です。それは実は、人間は一人では生きられないように造られていることへの、間違った応答です。神様に求めなければ満たされない部分を、他の目に見える何かで満たそうとしてしまう弱さです。そして、神様に座っていただくべき場所に、自分自身を置いてしまいます。イエス様も、同じこの性質を持っていたので、悪魔はそこを狙いました。イエス様は決して罪を犯しませんでしたが、この罪の性質を持つところまで、私たちと同じ立場になって下さったということです。


3) 神より偉くなろうとする(9-13) (申6:16)

9 そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10 というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11 また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」12 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。13悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。

 最後に、9節から13節です。人と神様の間で、一番邪魔になるのは、人が神様より自分を上において、神様に力を見せてみろと要求することです。神様を信じるということが、力に圧倒されて信じるということなら、神様はとっくにそうしているはずです。神様が私たちに望んでいるのは、私たちが神様を求めることです。あなたが必要です、と神様の前にただ叫ぶことです。それなのに、私たちは思い上がって、神様さえも自分の思い通りに動いてくれなければ、いないも同然だとしてしまいます。自分の思い通りになる神様なら、最初から神様ではないのではないでしょうか。でも、私たちはそうやって自分に分かりやすい証拠を神様に求めようとします。そのことを悪魔は知っていて、イエス様に対してもそこを狙ってきました。それが成功すれば、イエス様と神様の間を壊すことができたからです。ここからも、イエス様が私たちと同じ弱さと罪の性質を持っていたことが分かります。神の子でありながら、徹底的に人間の側の問題を自ら持って下さいました。


B. 私たちはイエス様によって弱さを乗り越える

 では最後に、なぜイエス様はこれほど私たちと同じ弱さを持ったのかということを考えたいと思います。それは、私たちの罪を神様ご自身が背負うためでした。神様ご自身というのは、イエス様のことでもあります。イエス様は神様ご自身であり、同時にイエスという一人の人間です。神様ご自身が人間の罪を背負うためには、神様ご自身が人間になる必要がありました。そして、罪を背負って十字架で死なれることによって、私たちの罪が神様に赦されるためでした。私たちは、イエス様が人間であったことによって、神様が私たちの弱さと罪を全て知っているという証拠を与えられています。また、そのイエス様が十字架で死なれ、復活されたことによって、神様はその罪を自分で背負って、赦して下さったのだと知ることができます。そして何より、そこまで私たちと同じ立場にご自分を置いて、私たちとの関係を取り戻そうとして下さっていると知ることができます。イエス様ご自身は決して罪を犯しませんでしたが、私たちと同じ弱く限界のある存在にあえてなって下さいました。神様が私たちを愛するあまり、自ら私たちと同じ姿になって、私たちの罪と弱さを引き受けて下さったということです。それは、神様と私たちが愛し合う関係を取り戻すためです。
 最後にヘブライ人への手紙を少し読んで終わりたいと思います。今日の内容をまとめていると思います。(ヘブライ4:14-15)

14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

メッセージのポイント
イエス様は人間になられた神様です。それは、あらゆるものを超越する全能者である方が、同時に私たちと同じ肉体を持ち、人間である弱さを自ら経験されたということです。イエス様ご自身は決して罪を犯しませんでしたが、私たちと同じ弱く限界のある存在にあえてなって下さいました。神様が私たちを愛するあまり、自ら私たちと同じ姿になって、私たちの罪と弱さを引き受けて下さったということです。それは、神様と私たちが愛し合う関係を取り戻すためです。 


話し合いのために
1) イエス様はどうやって悪魔の誘惑を退けましたか?
2) 私たちはどうすれば誘惑を退けられるでしょうか?