<メッセージノート>

2014/9/21 ルカによる福音書 4:16-130
貧しい人のための「良い知らせ」


A. イエス様は「良い知らせ」を実現した (16-21)

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


B. 自分を「貧しい」と思わない人々

1) イエス様を利用しようとする (22-24)

22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ


2) 主を礼拝しない (25-30) (列王記上17章・列王記下5章)

25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。



C. 本物の愛は人の貧しさを明らかにする

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマ1:16)


メッセージのポイント
私たちは皆、イエス様を信じようと信じまいと、神様の愛を必要とする存在です。自分に罪があること、この世界の何によっても満たされないものがあると知ることが、イエス様を知る唯一の入り口です。でも同時に、十字架で大きな犠牲を払ったイエス様の愛を知らなければ、本物の愛が何であるか、自分がいかに貧しいかを知ることもできません。「良い知らせ」を届けるために、イエス様の愛に従って人々を愛し続けましょう。

話し合いのために
1) なぜイエス様は人々を怒らせることを言ったのでしょうか?
2) 自分に神様は必要ないと思っている人々に、私たちはどうやって「良い知らせ」を伝えることができるでしょうか?


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<メッセージ全文>

2014/9/21 ルカによる福音書 4:16-130
貧しい人のための「良い知らせ」

今日は先週読んだ箇所のほぼ直後の箇所を読みます。イエス様は悪魔からの誘惑を全て退けて、宣教を始めました。そして、宣教を初めてすぐに故郷のナザレで起こった出来事が、今日の箇所に書かれています。

A. イエス様は「良い知らせ」を実現した (16-21)

16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19 主の恵みの年を告げるためである。」20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。


今日の箇所の場面は、当時のユダヤ教の礼拝から始まっています。イエス様はユダヤ人として生まれ、ユダヤ人の習慣に親しんで生きていました。イエス様はその習慣に従って、話し始められました。イエス様が読まれたのは、イザヤ書の61章1-21節です。イエス様は人々に、この言葉は今実現したと言っています。つまり、自分こそがイザヤが預言していた救い主であるということです。もう一度読んでみましょう。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」福音というのは、良い知らせという意味です。そしてその良い知らせの内容が、捕われている人は解放され、目の見えない人には視力が与えられ、圧迫されている人は自由にされるということです。イエス様はそのために私は今ここにいると語りました。でもこの後イエス様は、まるで正反対のようなことを厳しい口調で語り始めます。続きを読んでいきましょう。

B. 自分を「貧しい」と思わない人々

1) イエス様を利用しようとする (22-24)

22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ

 ナザレの人々はイエス様の言葉に感動し、イエス様をほめましたが、彼らは次にこう言い始めました。「この人はヨセフの子ではないか。」その言葉を聞いたイエス様は、挑発的と思えるようなことを言って、彼らを非難し始めます。そんなに最初から怒らなくてもいいのにと思うほどです。でも、イエス様がそうされるのには理由があります。イエス様の言葉や行動を聞いて感動を覚える人はたくさんいます。ナザレの人々もそうでした。聖書でイエス様のことを読んで、イエス様は素晴らしい道徳者だと考える人は現代にも多くいます。でも、そういう人たちに共通するのは、イエス様を単に優れた人間としかとらえない点です。そして、イエス様の言葉が自分に向けて語られているとは考えません。あるいは、自分に向けられていると知った途端に拒否します。イエス様の生き方から道徳的な教訓を得ようとはしても、イエス様が救い主であるとか、神の子であるという話だけ、都合良く無視してしまいます。また、このナザレの人々のように、イエス様が病気を癒してくれることを望んだとしても、それ以上イエス様に従おうとは考えないで済ませてしまいます。自分に役に立つ範囲だけで、そして自分に理解できる範囲だけでしか、イエス様を見ないということです。それは自分の目的のためにイエス様を利用しようとしているのと同じです。今読んだ最後の節でイエス様は唐突に「預言者は自分の故郷では歓迎されないものだ」と言っています。でもイエス様はナザレで歓迎されていました。それなのにイエス様がこんな風に断定的な言い方をしたのは、預言者を預言者と受け入れられず、預言を預言と受け止められない人々への断罪の言葉です。そして更にイエス様は厳しい言葉を続けました。続きを読みましょう。

2) 主を礼拝しない (25-30) (列王記上17章・列王記下5章)

25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 イエス様は、エリヤとエリシャという旧約聖書の預言者二人を例に出して話しています。エリヤの話は列王記上の17章、エリシャの方は列王記下の5章にあります。ナザレの人々はエリヤとエリシャの話に親しんでいたので、イエス様が自分たちを非難しているのだとすぐに分かりました。エリヤとエリシャの時代のイスラエルの人々は、神様を礼拝せず、心から主を求めることをしなかったため、主から助けを得ることができませんでした。つまりイエス様は、ナザレの人々は真心を持って神様を礼拝していないので、主の助けを得ることはできない、と言っているということです。だから、ナザレの人々はイエス様を殺そうとするほど怒りました。彼らは、自分たちはあの時代の悪い人々とは違うと信じていました。彼らは確かにここでは安息日に会堂に来て礼拝をしており、聖書の話にも親しんでいたことが分かります。だから自分たちは真面目な正しいユダヤ教徒だと思っていたのかもしれません。でも神様が求めているのは、表面上の(人の目に見える)熱心さや正しさではありません。心の中心に神様を置いているかどうかが一番大切です。それは、自分の思いよりも神様の思いを優先し、それもそれが最善だと信じ、喜んでそうできることです。それが、神様を主と礼拝すること、神様を愛するということです。イエス様は、ナザレの人々がそのことを忘れていると知っていました。心が神様の方を向かず、別の方向に気を取られている状態、それが罪人の状態です。それが貧しいということで、目が見えず、捕われていて、不自由な状態だということです。イエス様は、そのことに気が付かない人々、そんな状態で満足してしまっている人々に、私はあなたたちのところには遣わされない、と警告しています。
 イエス様は、こうして故郷の人々と決別してしまったかのようです。でも、イエス様は憤っているのと同時に、嘆いていたのだと思います。あなたたちは自分が貧しいことを知らない。そのことをまず知らなければ、私はあなたたちと何の関係もないことになる。自分が貧しいこと、目が見えていないことを認めなければ、イエス様の良い知らせは結局その人にとって何の意味も持ちません。良い知らせを聞いても、私たちの罪がそれを受け取ることを阻むということです。


C. 本物の愛は人の貧しさを明らかにする

 最後にもう一度、最初のイエス様の良い知らせの宣言に戻ってみましょう。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」どうぞ今日の内容を誤解しないで下さい。貧しいことが悪いのではありません。目が曇っていることも、不自由であることも、罪にまみれていることも、イエス様は何も非難していません。イエス様は、正にそういう私たちのために来て下さいました。イエス様は十字架で自らを犠牲として捧げて下さいました。それによって、私たちの罪は既に神様に赦されています。ただ、罪は赦されているけれども、完全に消えてなくなったわけではありません。私たちは皆、自分の罪によって、一度はイエス様によって見えるようになったものが見えなくなったり、自由にされたのにまた捕われたりしてしまうのが現実です。そのことをイエス様はよく知って下さっているということを、先週お話ししました。怖いのは、イエス様に頼らなくても、自分で何とかなると思ってしまう時です。そんな時、私たちは自分の力を過信して、福音の力を拒否しています。自分が貧しいということを忘れてしまうのです。
 また、私たちの大切な人たちの中に、イエス様を知らない人たちがたくさんいます。その人たちは、イエス様を必要とせず、今の状態で満足しているように見えます。私たちが彼らのためにできることは、罪を断罪することではありません。罪人であるのは私たちも彼らも全く同じです。ただ、私たちは罪が赦されていることを知っています。そして、私たちを赦す神様の愛が、私たちを変え、生かして下さっていることを知っています。イエス様を必要としない人たちに私たちができることは、ただその神様の愛を自分の行動で代弁することです。神様が自分を愛して下さっているように、神様はその人のことを愛しているという確信を持って、その人との関係性の中で自分にできることをしていくことです。それはとても根気のいることだと思います。でも、神様の無条件の愛は、人間には与えることのできない愛です。それを私たちが不完全な形であったにしても、その愛に従って人々を愛し続けていれば、必ず誰かに届き、その人の人生を大きく変える助けをすることになります。 パウロはこう言っています。

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。(ローマ1:16)

私たちは皆、イエス様を信じようと信じまいと、神様の愛を必要とする存在です。自分に罪があること、この世界の何によっても満たされないものがあると知ることが必要です。でも同時に、十字架で大きな犠牲を払ったイエス様の愛を知らなければ、本物の愛が何であるか、自分がいかに貧しいかを知ることもできません。「良い知らせ」を届けるために、イエス様の愛に従って人々を愛し続けましょう。

メッセージのポイント
私たちは皆、イエス様を信じようと信じまいと、神様の愛を必要とする存在です。自分に罪があること、この世界の何によっても満たされないものがあると知ることが、イエス様を知る唯一の入り口です。でも同時に、十字架で大きな犠牲を払ったイエス様の愛を知らなければ、本物の愛が何であるか、自分がいかに貧しいかを知ることもできません。「良い知らせ」を届けるために、イエス様の愛に従って人々を愛し続けましょう。

話し合いのために
1) なぜイエス様は人々を怒らせることを言ったのでしょうか?
2) 自分に神様は必要ないと思っている人々に、私たちはどうやって「良い知らせ」を伝えることができるでしょうか?