<メッセージノート>

2014/10/26 メッセージノート コロサイの信徒への手紙 3:12-4:1
全てをつなぎ合わせ完成させる愛


A. 神様を愛する者の


1) 徳性 (3:12-13a)


12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。



2) 土台 (13b-14)


主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。


3) 感謝 (3:15-17)


15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。



B. 誰に対しても主に仕えるようにして愛を完成させよう (3:18-4:1)

18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。


メッセージのポイント
イエスを信じて従う者の内に育つ徳性はイエスの愛に基づくものですから、それらに個別の修得の方法があるわけではありません。ただイエスに愛されているように愛するということが私たちを完成に向かわせます。ここで様々な立場の人に分けて教えていることは、パウロがこの時代のコロサイの人々の状況に合わせているのであって、私たちにとっても固定的な枠組みで考える必要はありません。むしろ、どのような人間関係であっても、主の愛に応えて主に仕えるという土台を忘れないことが大切です。


話し合いのために
1) 私たちはどのようなことについて神様に感謝すべきなのでしょうか?
2) ここでは愛がどのようなものだと説明していますか?

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<メッセージ全文>

2014/10/26 メッセージノート コロサイの信徒への手紙 3:12-4:1
全てをつなぎ合わせ完成させる愛


 コロサイの信徒への手紙のシリーズも今日と次週の二回で終わります。パウロはコロサイの人々に、神様の愛に基づく生き方について、理屈だけではなく彼らが実際の生活の中で直面している状況に即して教えてきました。今日の部分では、特に人間関係において大切な事にフォーカスしています。パウロが言いたいことはとてもシンプルです。それは「神様を愛する者として、神様を愛するように愛し合いましょう」ということです。そして、それはシンプルですが難しいのです。難しいのは、神様の基準が高過ぎる、私たちのレベルが低すぎるからではありません。それは事実ですが、問題は私たちのアプローチの仕方にあるのです。自力ですることは出来ません。神様に頼るしかないのです。それを頭では多くの人が知っています。しかし生活の中では自分でやろうとしてしまい、その結果、うまく行かず絶望したり、自分をごまかしたり、正当化してしまうのです。そして、問題は自分の前に依然としてあり続けます。本当に良い人間関係を求めるなら、神様に頼るしかありません。今日のテキストで勧められていることは、その時その時、イエスの言葉や行動を思い起こし、今も私たちのうちに働いてくださる神の霊、イエスの霊である聖霊が力強く働いて、自分もイエスのように振る舞えるように求める事です。このことを念頭において聞いて下さい。そうでなければ私たちは、イエスの弟子ではなく、イエスの敵“律法主義者”になってしまいます。

A. 神様を愛する者の


1) 徳性 (3:12-13a)


12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。


 神様を愛する者の徳性のリストがここにあります。今日は、それらがどういうものか個別に説明することはしませんが、福音書のイエスの生き方を見ればよくわかるはずです。自分のことを考えると絶望的になってしまいますね。しかしこれらは全て、イエスに従って歩む者の内に、種蒔かれ育ってゆくものなのです。パウロは、「そうなりなさい」ではなく、「身に着けなさい」という言葉を使って、そのことをよく表しています。自分の意志で服を着る動物は人間だけです。神様は初めから服を着るものとして私たちを創造したわけではありません。神様に食べることを禁じられた善悪の知識の木の実を食べたアダムとエヴァは「自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(創世記3:7)のです。象徴的にいうなら、肉体的なことだけではない内面の醜さ、欠けを知る者となったということです。人間をご自身に似たものとして創られたのですから、神様はこうなることを知っておられたはずです。似姿といっても、神様には遠く及ばない私たちは、服で自我を守ることを覚えました。ペトロは、その第一の手紙で外面的に着飾ることよりも柔和など内面的な人柄を装いなさい、と勧めています。ペトロは女性にだけ向けて言っていますが、それは誰にでも当てはまるものです。私たちは、それが自分の内に欠けていることを知りながらも、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、赦しという徳性を神様に求ることができるのです。ただこれらは別々に求めるべきものではありません。ただ一つのことが様々な状況でこれらとして現れるのです。ですから、私たちが追い求めるべきものは、その一つのことです。それが何か?次の部分で明らかになります


2) 土台 (13b-14)


主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。
14 これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

 先に、持つべき徳はイエスを見れば分かると言いましたが、イエスこそ私たちに示されている基準であることが「主があなたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」という言葉でもよくわかります。パウロは「それらに加えて」という言い方で「愛」を勧めていますが、後半で言っているように、加えるというよりは、キリストに従う者の徳性の全てが機能するためのきずな、ベースとなるものなのです。それぞれの徳性の共通する本質だということです。私たちが求めるべきことは徳性の一つ一つに、自分の完成度を測って自己評価することではありません。神様が愛していてくださるように愛するということを追い求めるなら、あなたは心に、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、赦しの心を着る人になるのです。
 このことが私たちの内に実現するために、もう一つだけ私たちが知るべき大切なことを紹介します。それは神様の恵みを感謝ということです。「神様に対する感謝が、私たちの人間関係を豊かにする」というあまり知られていない事実を、次の部分で確認します。


3) 感謝 (3:15-17)


15 また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。
16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。
17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

 ここで言われているのは、「キリストの平和のうちに生きられるように、招かれてキリストの体の一部とされたことへの感謝」です。イエスは求めに応じて豊かに与えてくださる方です。求めるのは、もちろん今日お話してきた「愛」です。この愛が私たちのうちに豊かになるように、パウロは、イエスの言葉を心に満たすこと、互いに励まし合うこと、教えあうこと、共に礼拝することを勧めています。それが私たちが共に集まる一番の理由なのです。それが体の一部とされているということです。礼拝やミニチャーチが必要なのは、イエスが与えたいと思っているものを十分に受け取るためです。この恵みを知れば、感謝は私たちの心から湧いてきます。不思議ではありませんか?私たちの内には良いものはないのに、神様の恵みが豊かなので、感謝は湧いてくるのです。感謝の気持は私たちの魂の健康のバロメーターです。心から「ありがとう」と思得るなら、必要な物を豊かにいただいているということです。いただけていないと感じるとしたら、それは「一つの体に加えられた」実感が乏しいということです。それを解決するのは簡単な事です。16節、17節に書かれていることを実践すればよいのです。最後に、パウロがコロサイの人々に具体的な人間関係について与えているヒントを学びましょう。


B. 誰に対しても主に仕えるようにして愛を完成させよう (3:18-4:1)

18 妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。
19 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。
20 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。
21 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。
22 奴隷たち、どんなことについても肉による主人に従いなさい。人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。
23 何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
24 あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
25 不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう。そこには分け隔てはありません。
4:1 主人たち、奴隷を正しく、公平に扱いなさい。知ってのとおり、あなたがたにも主人が天におられるのです。

 聖書のこのような具体的な指示がなされている部分を読むときには少し特別な注意が必要です。書かれた時代、文化の背景と普遍的な神様の意思を意識して読まなければならないということです。例えば、夫婦の教えですが、夫が支配者で妻は神様に仕えるように夫に仕えるべきだとあります。当時の文化を反映したものです。パウロはその時代文化の人であり、彼の言葉が文化時代を超えた普遍性を持っていないのはしかたがないことです。しかし同じ時代に生きたイエスの言葉や行動に女性蔑視は見られません。イエスは、互いに仕え合うこと、互いに愛し合うことを命じていて、男女の尊卑が決まっているとは一言も言っていません。親子の関係を扱う20-21節も表面的に読むなら矛盾しています。無条件にどんな命令でも従えと言われているのでもないし、母親なら子供を苛立たせてもいいということになってしまいます。文字通り読まなければいけないなら、神様は奴隷制度を許可していることになってしまいます。ここで私たちが文字通り受け止めなければいけないのは23,24節です。

何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
  
 さあ、ついに私たちは、人間関係の極意のすべてを知りました。しかし知識として知ったにすぎません。自動車の運転と同じです。何時間教室で勉強しても運転できるようにはなりません。実際にハンドルを握り、アクセル、ブレーキの操作を身につけてドライバーになるのです。今週も一日一日愛の完成を目指して、キビキビと、しかし安全運転で進んでゆきましょう。

メッセージのポイント
イエスを信じて従う者の内に育つ徳性はイエスの愛に基づくものですから、それらに個別の修得の方法があるわけではありません。ただイエスに愛されているように愛するということが私たちを完成に向かわせます。ここで様々な立場の人に分けて教えていることは、パウロがこの時代のコロサイの人々の状況に合わせているのであって、私たちにとっても固定的な枠組みで考える必要はありません。むしろ、どのような人間関係であっても、主の愛に応えて主に仕えるという土台を忘れないことが大切です。


話し合いのために
1) 私たちはどのようなことについて神様に感謝すべきなのでしょうか?
2) ここでは愛がどのようなものだと説明していますか?