<メッセージノート>

2014/12/14 アドヴェント第三日曜日 (マタイによる福音書1:18-25)
天使、ヨセフにも語りかける


A. 正しい人に起こった厄介な問題 (18, 19)

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。



B. 天使の語りかけ

1) マリアを妻としなさい (20)

 
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。


2) 生まれる子をイエスと名付けなさい (21-23)

 
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。



C. ヨセフの決断 (24, 25)

24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた



メッセージのポイント
マリアに天使を通して語りかけられた神様はヨセフにも語りかけ、ヨセフはそれに応えて大きな決断をしました。見えない神様の言葉を信頼して自分の理解できないことでもついて行くという備えを、神様は夫婦両方にしてくださり、インマヌエルが彼らに、そして私たちに実現しました。

話し合いのために
1) イエスという名前にはどのような意味がありますか?
2) あなたは誰に、このインマヌエルを知ってもらいたいですか?

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<メッセージ全文>

2014/12/14 アドヴェント第三日曜日 (マタイによる福音書1:18-25)
天使、ヨセフにも語りかける

 ルカはマリアの態度に注目していますが、マタイは夫ヨセフに焦点を当てています。マタイは、人々の期待がダビデのような救い主の誕生にあったことを意識してその福音書の書き出しに系図を置き、イエスの直前の男性、父ヨセフのことから語り始めます。

A. 正しい人に起こった厄介な問題 (18, 19)

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。


 先週お話しした、天使がマリアに知らせたことを彼女はヨセフに説明したのではなさそうです。「マリアから聞いた」ではなく「明らかになった」という言葉が使われています。ヨセフはマリアの体の異変に気付いたのでしょう。ヨセフはそれをどう受け止めたのでしょうか?注意してほしいのはまだこの時点では、ヨセフは誰からも真相を告げられていないということです。ヨセフは「正しい」人だったとあります。素直に読めば、律法を忠実に守る人ということです。しかしヨセフは律法的に正しい人というより神様に対して正しい人であったことが19節でわかります。普通に正しい人であるなら、律法を破った婚約者を人々の前に引き出し石打ちを要求するところです。裏切られた夫にはそのような権利があったのです。当時のユダヤの婚約は、法的にはほぼ夫婦の関係にありました。婚約者の姦淫を理由に婚約破棄をしようとすれば証人の前で「離縁状」を渡さなければなりません。ヨセフは、マリアが石打ちになることはもちろん、出来事が公になることも望まず、密かに去らせようとしました。それで、正しい人と表現されています。神様の前に正しい人とは、法律を守っている人ではありません。それよりも基準は高いのです。もちろん神様の助けによってでなければ不可能ですが、それが私たちにとっての正しさの基準です。恨みに思って石打ちの場に引き出すのではなく、自分の人生から静かに出て行ってもらうことにしたのです。結婚の希望に満ちた、まだ十分に若い男性にとっては、自分の人生が今までと全く変わり酷いものとなってしまうことを意味する決断です。しかし、絶望的な中でも正しくあろうとする人に、神様は必ず手を差し伸べてくださいます。20節の天使の語りかけを聞きましょう。


B. 天使の語りかけ

1) マリアを妻としなさい (20)

 
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。

 ダビデの血統とはいえ、この時代では普通の市民であったヨセフです。普段は自分がダビデの末裔ということを意識することはなかったでしょう。主の天使は彼の子としてして生まれるのが、ダビデの再来として期待されている特別な人であることを認めさせるために、ヨセフにそのルーツを確認させてから、二つのことを指示します。どちらにも簡単にですが重要な根拠が述べられています。第一のことは「妻マリアを迎え入れなさい」です。受け入れなければならない根拠は、これ以外にはありえないでしょう。「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」です。この言葉に信頼したので、ヨセフは人にどう見ようとマリアを妻に迎えることができるのです。しかし、どうしてヨセフは信頼することができたのでしょう。ヨセフの場合にはマリア以上に困難だったはずです。マリアには、理解はできなくても良心の呵責は全くありません。しかしヨセフにはマリアに対する疑いと戦わなければなりませんでした。マリア以上に聖霊に満たされる必要があったのです。


2) 生まれる子をイエスと名付けなさい (21-23)

 
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 第二の指示は「その子をイエスと名付けなさい」です。これは第一のことを受け入れるなら、困難なことではありませんが、続いて語られたその理由は、ヨセフとマリアだけではなく、すべての人にとって重要な意味を持つことなのです。「イエス」の名の意味は「主は救い」「救う者」です。私たちが子供につける名前には、私たちの願いが込められていますが、イエスの名には、神様の願いが込められているのです。しかも、それは預言者によって知らされていた事の実現だとイザヤ書 (7:14) を引用して説明されています。ここでイエスの名「主は救い」「救う者」と「インマヌエル」が結びつけられます。それは私たちに「救い」の本質を教えてくれます。救いとはインマヌエル、すなわち神が共にいてくださるという状態であり、それをもたらすのが「救う者」イエスだということです。ですから何度もお話ししてきたように、救いとは天国行きの切符ではありません。地上であろうと地上から去った後であろうと神・イエスと共に生きる恵みなのです。


C. ヨセフの決断 (24, 25)

24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた

 ヨセフは天使の指示を受け入れ、その通りにしました。 ルカによればイエスは12歳の時にエルサレムで学者達と話をしたり、両親と別行動をとって驚かせましたが、その時までヨセフと、マリアの保護の元に人の子として育っていったのです。皆さんの心に留めていただきたいことは、神様の意思は必ず、信じる人々を用いて、通して、現わされるということです。まだ現実となっていない、将来現わされる神様の意思は、私たちの心の中に受胎し、誕生し、成長し、時が満ちて現実となります。私たちは神様の意思をやどす体、ゆりかごでもあるのです。神様の意思が見えない時、わからない時は信頼するしかありません。だから、ザカリアとエリザベトを、マリアとヨセフを包んだ聖霊に、私たちも満たされることを切に願いましょう。そして、私たちを通して神様の愛の働きが現実となるように、特に神様の憐れみを信じることが困難な状態に置かれた人々の上に表されるように祈り求めて行きましょう。

メッセージのポイント
マリアに天使を通して語りかけられた神様はヨセフにも語りかけ、ヨセフはそれに応えて大きな決断をしました。見えない神様の言葉を信頼して自分の理解できないことでもついて行くという備えを、神様は夫婦両方にしてくださり、インマヌエルが彼らに、そして私たちに実現しました。

話し合いのために
1) イエスという名前にはどのような意味がありますか?
2) あなたは誰に、このインマヌエルを知ってもらいたいですか?