<メッセージノート>

2015/1/25 テサロニケの信徒への第一の手紙 1:1-10
行動する信仰・愛・希望


A. 伝えられた福音が生きて働き始めた町 (1-3)

1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

1) 信仰によって務めを果たす

2) 愛のために労苦する

3) 希望を持って忍耐する


B. 聖霊によって思いは行動に変わる

1) 神から選ばれ、聖霊に満たされ、主に倣う者になる (4-7)

 
4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。


2) 偶像を捨て、まことの神に仕える人となる (8-10)
 
8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
9 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。



メッセージのポイント
聖書で大切な価値観として紹介される信仰、愛、希望は抽象的な概念ではなく、行動を起こす力です。神様は私たちを選んで、信仰、愛、希望を目に見える行動として現せるように聖霊で満たしてくださいます。イエスの歩みを真似て、従って行く者、まことの神に仕える者となりましょう。そのために、聖霊の助けによってあらゆる偶像を捨て去りましょう。

話し合いのために
1) 信仰、愛、希望はどのような行動となって現れますか?
2) あなたにとって偶像になりやすいものはなんですか?

子供達のために
好き、大切、信頼している、希望を持っているという気持ちをどのような行動に表してゆくか考えてもらいましょう。子供達も神様に選ばれてここにいること、神の霊、聖霊が力を与えてくれること、選ばれた私たちは、イエスの行動を倣い、従ってゆくことを期待されていることを伝えてください。

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<メッセージ全文>

2015/1/25 テサロニケの信徒への第一の手紙 1:1-10
行動する信仰・愛・希望

A. 伝えられた福音が生きて働き始めた町 (1-3)

1 パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。
2 わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。
3 あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。

 新約聖書に収められているパウロの手紙は、去年読み続けてきた使徒言行録と同時代の事が書かれています。パウロは紀元50年頃、つまりイエスが十字架に架けられた出来事から20年ほど後、シラス、テモテとともに第二回目の宣教旅行に出かけ立ち寄ったのがテサロニケです。テサロニケはローマ帝国マケドニア州の首都で、今ではギリシャ第二の都市です。この手紙は、パウロが来て始まった教会に起きた意見の対立に対する自分の考えを書き送ったもので、新約聖書の中で最も古い、つまり一番最初に書かれた文書です。 テサロニケを後にした数ヶ月後、コリント滞在中に書かれたと考えるのが一般的です。

 今朝、皆さんに注目していただきたいのは、三節の信仰、希望、愛という言葉です。この三つがセットで出てくる、ここよりもよく知られている箇所があります。コリントの信徒への第一の手紙13章です。そこには、「信仰と希望と愛はいつまでも残るもので、その中でも最も偉大なものは愛です」と書かれています。「信頼し続けること、望みを持ち続けること、愛し続けることができます。それらはとても大切なことです。」 確かに素敵なフレーズですが、では、それってどういうこと?と問われると、抽象的で言葉にしにくいことがわかります。ところがこの手紙を読むと、信仰と愛と希望が私たちに必要な行動を生み出す力であることがわかるのです。


1) 信仰によって務めを果たす

最初に確認したいことは、信仰とは私たちが与えられている働きをやり遂げるために必要な力だということです。神様に対する信頼なしに、神様に与えられている働きをやり遂げることはできません。自分の力や意志で神様のために何かをしようというのはおこがましい(conceited)のです。その人が信仰によって行っているのか、自分の力を頼っているのかは一見しただけではわかりません。しかし長い時間をかけて観察するなら、信仰によって働く人は、良い時も悪い時も一定のペースで堅実に進んで行く一方、そうではない人は問題が起これば放り出してしまったり、いつの間にか熱意が冷めたりするので違いがはっきりとわかります。あなたは何によって働いていますか?


2) 愛のために労苦する


 第二のことは「愛のために労苦する」ということです。コリントの信徒への手紙にも書かれていたように、愛は究極の目的です。私たちは愛するために生かされているのです。だから愛するためには犠牲を惜しみません。愛するということ自体にすでに、犠牲を払うという労苦を惜しまない、ということが含まれているのです。多くの人が誤解していますが愛は「好き」という感情ではありません。愛するということはその人のために自分の時間や労力や権利をよろこんで犠牲にするということです。時にはその命をさえ惜しまない形で表されます。愛し合うというのは、その人の重荷を共に担い、喜びも悲しみも共有するということです。それをしたくないなら「愛している」という資格はありません。問題は、どうしたらそのように愛を働かせることができるか?ということですがそれは後半でお話しします。


3) 希望を持って忍耐する


 三つ目は希望が忍耐の力となるということです。そこから抜け出せるという希望があるから忍耐できるのです。希望がいつまでも変わらずにあるなら、私たちはどんなことでも忍耐できます。希望の根拠はどこにあるのでしょうか?希望が確かなものであることを願うなら希望の根拠が確かなものでなければなりません。私は、他の誰でもなく神様に希望をおきます。私に喜びを与えてくれる人はたくさんいます。誰かがいるから頑張れるという存在もあるでしょう。しかし、どのような人であれ誰もあなたのための希望の光であり続ける保証はありません。だから希望は神様に対する希望でなければならないのです。


B. 聖霊によって思いは行動に変わる

1) 神から選ばれ、聖霊に満たされ、主に倣う者になる (4-7)


4 神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。
5 わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。
6 そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、
7 マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。

 信仰、愛、希望が行動を起こす力であることがわかっていても、それらがどこから来て、私たちの中に備わるのかを知らなければ、依然として、信仰、愛、希望は私たちにとって素敵なフレーズのままです。私たちの内にはそれらを生む力がないからです。その意味では私たちは絶望的です。物事がうまくいっている時には、誰に対しても信頼感を持て、胸は希望に溢れ、余裕を持って思いやり深く接することができます。しかし物事がうまくいかなくなれば、それらは簡単に消え去ってしまいます。
テサロニケの人々の中では、ひどい苦しみの中にあっても、信仰、愛、希望が力強く働いていたことがわかります。それを可能にしたのは聖霊の働きです。神様の霊、聖霊はテサロニケの教会が誕生した時から、この時まで彼らのうちに豊かに働いたので、彼らは苦難の中でも信仰、愛、希望を思うだけではなく行うことができました。このことは今でも変わりません。立派な建物、楽しいプログラム、感銘を受けるお話があっても、聖霊が働かない教会は無力です。だから私たちも、それぞれが、そしてこの教会が神様の霊で満たされるように求めましょう。それは、私たちの礼拝の目的の一つでもあるのです。


2) 偶像を捨て、まことの神に仕える人となる (8-10)

8 主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。
9 彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、
10 更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。


 ご存知のように、ギリシャ神話にはたくさんの神様が出てきて、いたるところに神々の像があり人々に拝まれていたようです。日本と似ていますね。実際に木や石で人が作った偶像を拝むこと、それは人がその手で作ったのではなく、むしろ人を作った神様の目から見れば大変愚かなことです。人間は、神様に従わずに自分勝手に生きる口実として偶像を神と言い張るのです。現代人は昔ほど素朴ではありません。良いことがあったらいいな、悪いことは起こらないほうがいいなという気持ちで偶像に頭を下げることはあっても、心からその石や木で作られたものに信頼をおいているわけではありません。だからといって現代人が偶像礼拝から解放されているわけではありません。偶像の本質は「神ではないものを信頼し、希望を寄せ、愛する」ことであって、石や木で作られたものを拝むことではないのです。ある人にとっては「お金」、ある人にとっては特定の人間、地位や、名誉が偶像です。何かを大切にすることは悪いことではありません。しかし、それらが神様以上の存在になってしまっているなら、物事はそれ以上うまくはいきません。意識的にであれ、無意識のうちにであれ、神様の霊を拒絶しているのですから、信仰、愛、希望が働くことはできません。
 さあ神様を礼拝しましょう。これから何曲か歌ってゆきますが、これからが私たちの礼拝の中心部分です。私たちが信仰、愛、希望を行動できるように聖霊に満たされることを願い求めて歌いましょう。自分の中に建てられた偶像が破壊されて神様からくる信仰と愛と希望に満たされるように歌いましょう。


メッセージのポイント
聖書で大切な価値観として紹介される信仰、愛、希望は抽象的な概念ではなく、行動を起こす力です。神様は私たちを選んで、信仰、愛、希望を目に見える行動として現せるように聖霊で満たしてくださいます。イエスの歩みを真似て、従って行く者、まことの神に仕える者となりましょう。そのために、聖霊の助けによってあらゆる偶像を捨て去りましょう。

話し合いのために
1) 信仰、愛、希望はどのような行動となって現れますか?
2) あなたにとって偶像になりやすいものはなんですか?

子供達のために
好き、大切、信頼している、希望を持っているという気持ちをどのような行動に表してゆくか考えてもらいましょう。子供達も神様に選ばれてここにいること、神の霊、聖霊が力を与えてくれること、選ばれた私たちは、イエスの行動を倣い、従ってゆくことを期待されていることを伝えてください。