<メッセージノート>

2015/2/8 (1テサロニケ 2:1-12)
宣教の正しい動機、正しい態度  永原アンディ


A. 宣教:神の福音を伝える


1) 神に勇気付けられて (1, 2)

1 兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。
2 無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。



2) 宣教の正しい動機 (3-6)

3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
4 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
5 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。
6 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。



B. 宣教者の態度 (7-12)
1) 母のように (7-10)

7 わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
9 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
10 あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。



2) 父のように (11, 12)

11 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に
12 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。



メッセージのポイント
イエスキリストを紹介することが私たちに委ねられたこの世界に対する働きの中心です。ただそれをすればいいのではなく、神様は私たちに正しい動機、正しい態度を求めておられます。私たちは時々、自分の動機や態度が神様に喜ばれるものであるかどうか、個人的にも、ユアチャーチとしても点検してみる必要があります。

話し合いのために
1) 私たちの宣教の動機はどのようなものであってはならないのですか?
2) 神様が私たちに求められる、伝える者の態度とは?

子供達のために
イエスは親しい友達の中でも最も親しい「親友」です。人間の友達のように目で見ることはできないけれど、誰も近くにいない時も、親しい友がいない人にも、いつも一緒にいてくれることを確認させてください。その媒介が祈りであったり、聖書の言葉であったり、子供の教会であったりすることを含めて、イエスが誰よりも近い方であることを、確信をもって伝えてください。その上で、イエスはどんな時でも、ご自身を紹介して欲しいと願っていることを伝え、誰かにイエスを紹介するチャンスが与えられるように一緒に祈ってください。アクションがすぐに怒らなくてもいいのです。子供達の心の中に、共におられるという確信と、紹介して欲しいという神様の願いが憶えられることが目的です。

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<メッセージ全文>

2015/2/8 (1テサロニケ 2:1-12)
宣教の正しい動機、正しい態度  永原アンディ

イエスキリストを紹介することが私たちに委ねられたこの世界に対する働きの中心です。しかし、ただ宣べ伝えればいいのではなく、神様は私たちに正しい動機、正しい態度を求めておられます。神様を知らせるという大義を掲げながら、実は自分の利益を求めることにならないように、宣教における自分の動機、態度を見直しましょう。

A. 宣教:神の福音を伝える


1) 神に勇気付けられて (1, 2)

1 兄弟たち、あなたがた自身が知っているように、わたしたちがそちらへ行ったことは無駄ではありませんでした。
2 無駄ではなかったどころか、知ってのとおり、わたしたちは以前フィリピで苦しめられ、辱められたけれども、わたしたちの神に勇気づけられ、激しい苦闘の中であなたがたに神の福音を語ったのでした。

 パウロは、テサロニケに意気揚々と乗り込んできたわけではありませんでした。もともと小アジアからギリシャ側に渡ることになったのは、神様が幻で教えてくれたからです。それなのにマケドニア最初の訪問地フィリピでは、投獄されてしまいます。神様の不思議な介入によって出ることはできましたが、それ以上、止まることはできませんでした。パウロの宣教は順調に進んでいったものではなく、困難に会うたびに神様の介入に勇気付けられて、再び立ち上がりイエスを紹介し続けたというものだったのです。私たちにとってその時その時がうまくいっている、いっていないということは重要ではありません。どんな時にも神様と共に歩み続けるということが重要なのです。神様は様々な方法で私たち一人一人の人生に今までも介入してくださったのではないでしょうか?しかし、このような恵みを自覚できる人は、神様の前に正しい動機と態度を持った人だけです。私は神様に従っているのに、神様はちっとも助けていてくれないと感じている人がいるなら、その人は正しい動機、態度によって神様に従ってはいないので感じられないにすぎません。神様のせいにしてはいけません。そこで、正しい動機と態度というものを確認して行きましょう。


2) 宣教の正しい動機 (3-6)

3 わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。
4 わたしたちは神に認められ、福音をゆだねられているからこそ、このように語っています。人に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくためです。
5 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、相手にへつらったり、口実を設けてかすめ取ったりはしませんでした。そのことについては、神が証ししてくださいます。
6 また、あなたがたからもほかの人たちからも、人間の誉れを求めませんでした。


 イエスを誰かに伝えるのは、自分にとってそうであったように、その人にイエスが必要だからであり、その人に対する愛が動機であるはずです。パウロはそのような動機を持って宣教の旅を続けました。しかしパウロを信用せずに、3節に書かれているような不純な動機で伝えているのだろうと疑う人もいたのです。だからパウロはそれを強く否定しています。この時代、様々な哲学、信仰の教えを旅をしながら教える人々が多くいました。その多くは、神様の意思とはかけ離れた様々な教えに影響を受け(error, 迷って)た者や、自分の名声や利益のために活動する者や、初めから人から金銭をだまし取ることを目的とした者だったのです。一般の人には彼らとパウロの違いは分かりにくかったのです。そこでパウロは、そのような者たちと自分が決定的に異なることを4節で説明しています。「私は神様によって、福音を伝えるために派遣されているのです。その証拠に、神様にいつも心を吟味していただき、人にではなく、神様に喜んでもらえるように行動してきたことは皆さんもよくご存知です」と言っているのです。その言葉の通り。人の顔色を見てご機嫌をとったり、様々な理由をつけて金銭を要求したり、自分に対する尊敬も求めたりすることもありませんでした。私たちはこのような働きを教会全体としても、教会に連なる一人としても行っています。クリスチャンを自称しながら、悪い動機を持ち、それが行動として現れている人や団体はいくらでもあります。残念で悲しいことですが、私たちの責任はそれらを取り除くことではありません。イエスは終わりの日まで、良い麦畑の中に生えてきた毒麦をそのままにしておきなさいと勧めています。一つには私たちが判断を誤って無害な麦まで引き抜いてしまう恐れがあるからです。しかし、もっと重要な理由は、そんなことをするのは時間と労力に無駄であって、私たちの本来の働きがおろそかになってはならないからです。


B. 宣教者の態度 (7-12)


 これからお話しする二つのことは、どちらもイエスを伝える人でありたいなら身に付けていなければならない態度です。母親、父親のステレオタイプの役割を決めつけて、どちらかを身につければいいという話ではありません。

1) 母のように (7-10)

7 わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、
8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
9 兄弟たち、わたしたちの労苦と骨折りを覚えているでしょう。わたしたちは、だれにも負担をかけまいとして、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えたのでした。
10 あなたがた信者に対して、わたしたちがどれほど敬虔に、正しく、非難されることのないようにふるまったか、あなたがたが証しし、神も証ししてくださいます。

 興味深いことにパウロは、一般的に母性としてみなされる特性を先に説明しています。それは世話をする、大事に育てる、子供のために苦労することも、命を与えることさえ惜しまない、と言う態度です。今ちょうど息子夫婦は自分たちの生活のペースを大きく変え、子供に合わせて守り育てなければならない時期を過ごしています。肉体的には労苦ですが、魂にとっては大きな喜びを感じながら世話をしているわけです。子育ては、それぞれの成長過程ですることの内容は違いますが、本質は同じです。愛するということです。犠牲を払って世話をするということです。それが宣教の本質でもあることが、このパウロの説明から分かります。


2) 父のように (11, 12)

11 あなたがたが知っているとおり、わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に
12 呼びかけて、神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのでした。御自身の国と栄光にあずからせようと、神はあなたがたを招いておられます。


 父性についての説明が後になった理由、母性についての方が詳しく語られた理由は、最初から父のような振る舞いをしても受け入れてもらえないことを知らせる必要があったからだと私は思います。母のような態度で接するということが前提であることも重要であることも、今でも軽視されがちです。しかし、後から書かれていようと、短くあっさりしているとしても、母のように、と同様に、なくてはならない態度であることには間違いありません。父の態度がなければ宣教は完成しないのです。父の態度とはなんでしょう?それは書かれている通り、呼びかけて教えることです。何を教えるのでしょうか?神の御心にそって歩むように教えるのです。パウロはそのためにあらゆる努力を惜しみませんでした。励まし、慰め、強く勧めたと書かれています。
 
 まず第一に無条件に愛すること、それから、その信頼関係の中ではっきりと教えること、それが宣教者の求められるべき態度です。ユアチャーチにつながっている人なら、そんな誤解はないと思いますが、宣教は牧師たちやリーダーたちだけに向けられている言葉ではありません。イエスに従って歩みたいなら、その人はそれぞれが置かれているところ、家庭、職場、学校、コミュニティーで牧師であり、宣教師なのです。
 子育てということで付け加えるなら、愛に基づく子育てこそ、子どもに対する宣教の出発点です。大きくなってものを考えられるようになってから、口で神の御心にそって歩むように教えればいいのではありません。子供にとって最も重要な宣教者は、子供の教会のスタッフでも、牧師でもなく親なのです。


メッセージのポイント
イエスキリストを紹介することが私たちに委ねられたこの世界に対する働きの中心です。ただそれをすればいいのではなく、神様は私たちに正しい動機、正しい態度を求めておられます。私たちは時々、自分の動機や態度が神様に喜ばれるものであるかどうか、個人的にも、ユアチャーチとしても点検してみる必要があります。

話し合いのために
1) 私たちの宣教の動機はどのようなものであってはならないのですか?
2) 神様が私たちに求められる、伝える者の態度とは?

子供達のために
イエスは親しい友達の中でも最も親しい「親友」です。人間の友達のように目で見ることはできないけれど、誰も近くにいない時も、親しい友がいない人にも、いつも一緒にいてくれることを確認させてください。その媒介が祈りであったり、聖書の言葉であったり、子供の教会であったりすることを含めて、イエスが誰よりも近い方であることを、確信をもって伝えてください。その上で、イエスはどんな時でも、ご自身を紹介して欲しいと願っていることを伝え、誰かにイエスを紹介するチャンスが与えられるように一緒に祈ってください。アクションがすぐに怒らなくてもいいのです。子供達の心の中に、共におられるという確信と、紹介して欲しいという神様の願いが憶えられることが目的です。