<メッセージノート>

2015/3/1 (ルカによる福音書 9:46-50)
無意味な競争をやめよう 池田真理


A. 個人の間で


1) 「誰が一番偉いか」ではなく… (46)

46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。


2) 誰が一番小さいか (47, 48)

47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」


B. 教会間で、異なる信仰の間で


1) 「私たちと一緒にいるかどうか」ではなく (49)

49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」


2) 神様の働きを担っているかどうか (50)

50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」


メッセージのポイント
イエス様を信頼し、神様の愛に感謝するなら、自分と他人を比べることの無意味さに気が付きます。優越感も劣等感も必要ありません。神様の愛は、私たちが知っているよりも、私たちが望むよりも、はるかに大きいのです。私たちにできるのは、神様の前に正直にへりくだることだけです。それは個人の間でも、教会同士の間、信じる人と信じない人の間でも同じです。

話し合いのために
1) イエス様の言う「最も小さい者」とはどういう人でしょうか?
2) 優越感や劣等感を持っていますか?どうすれば無くせるでしょうか?

子供達のために
子供達にも、友達と比べて自分は偉いと思ったり、逆に自信をなくしたりすることは日常よくあると思います。(子供達の経験を聞いてみてください。)でも一番大切なのは、他人と比べることではなくて、神様の前に、得意なことも不得意なことも、自分なりに頑張ったかどうかです。それは自分も友達も同じです。友達がどれくらい頑張っているかいないか、本当に分かるのは神様だけです。

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<メッセージ全文>

2015/3/1 (ルカによる福音書 9:46-50)
無意味な競争をやめよう 池田真理

  皆さん、他人と比べて自分はこの点では優れている、と思うことはありますか?学生なら誰でも、得意科目と苦手科目があります。私は図工は大好きでしたが、体育はいつも憂鬱でした。数学に関しては、−(マイナス)が出てきた時点でもういけませんでした。神様は私たちにそれぞれ違う個性を与えています。だから、それぞれの個性を喜んで生かして、健康な自信を持って生きていくことは大切です。でも、もし自分にできて他人にできないことを理由に他人を見下すなら、それは健康な自信ではなく、ただの傲慢です。
 反対に、他人と比べて自分は劣っている、と思うことはありますか?これは、競争ばかりの現代では、多くの人が日々多かれ少なかれ感じていることかもしれません。自分の能力のなさや経験不足を正しく受け入れることは、成長するために大切なことです。でも、一つの分野で苦手なことがあったり、失敗したりすると、それがまるで自分の価値全体を下げてしまうかのように、自信をなくしてしまうことがあります。他にたくさんできることがあるのに、必要以上に消極的になったり、卑屈になったりしてしまいます。それが小さい頃から積み重なれば、私たちの人生に与える影響は計り知れません。
 神様は、一人ひとりを違うように作り、私たちをそのままで愛しています。この真実を、私たちはいつも簡単に忘れて、自分と他人を比べて安心したり不安になったりしています。イエス様の弟子たちも同じでした。ルカによる福音書、9章46節からです。

A. 個人の間で

1) 「誰が一番偉いか」ではなく… (46)

46 弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。

 「自分たちのうち誰が一番偉いか」、おそらく弟子たちは色々なことを言い合ったでしょう。文字を読み書きできるか。律法をどれくらい知っているか。お金の管理ができるか。元々の職業は何か。どうやってイエス様と出会ったか。どれくらい人々を癒すことができたか。弟子たちはそんな風に互いを比べあって、誰が一番偉いかを決めて、どうするつもりだったのでしょうか。おそらく、一番偉い人が決まったら、その人はある程度彼らの間で権力を持つようになったでしょう。偉い人は、偉くない人を支配して良いのです。能力のある人は、能力のない人を従わせて良いと思われています。「誰が一番偉いか」は「誰が一番支配者にふさわしいか」と言い換えることができます。この問いにとらわれているなら、私たちはずっと勝ち組、負け組の世界から自由になれません。他人との違いを、神様から与えられた個性の違いと受け取ることができません。そのかわりに、不健康な優越感と劣等感を持ち続けることになります。ある人の前では自信たっぷりで傲慢になり、別の人の前では自信を喪失して自己嫌悪に陥ったり、卑屈になるということを繰り返してしまいます。神様から見ればこんな競争は、正にどんぐりの背比べです。イエス様は私たちの考え方をひっくり返すために次のように言いました。47節から48節です。


2) 誰が一番小さいか (47, 48)

47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 イエス様が注目しているのは、誰が誰より優れているか、劣っているかではありません。誰が誰を受け入れるかです。当時の社会は現代以上に成人男性が中心の世界です。女性も子供も、男性より劣っているとみなされていました。ですから、この子供は明らかに弟子たちにとっては劣った存在であり、「誰が一番偉いか」という議論の対象にもならない存在でした。イエス様は、その議論の対象外の子供を受け入れなさいと言っています。誰が上か下かを決めたいなら、上に立とうとするのではなくて、進んで自分から下に行きなさいということです。それは、イエス様がそうだからです。イエス様は、私たちのために十字架で苦しみ、誰よりも低く小さくなってくださいました。神様と私たちの関係は、もちろん神様が上で私たちが下です。でも、神様はそんな力関係にこだわりませんでした。上に留まらずに、下に来てくださいました。だから、私たちと神様の間には、上下関係があるようで、もうないも同然です。神様にとって、私たちはみんな等しく罪深く、同時に等しく尊い存在です。私たちに分かるのは、互いにどちらが優れているか劣っているかではありません。神様は大きく、私たちは小さいということだけです。神様の愛は、私たちがどういう人間かによって増えたり減ったりするものではありません。いつも同じように、誰に対しても、注がれています。イエス様の十字架の苦しみは限られた人のためではありません。全ての人のためです。この神様の愛を受け取るなら、自己評価も他人の評価も、意味を持たなくなるでしょう。そして、個性の違いによって互いに優劣をつけて、支配したり支配されたりする競争から自由になれます。神様は、私たちを互いの競争相手として造ったのではなく、助け手として造られました。私たちは、神様の愛を受け取るなら、互いを受け入れあい、補い合うことができます。私たちは支配する者・支配される者ではなく、みんな仕える者です。だから、神様の前に一番偉いのは、神様の大きさと自分の小ささを知っている者です。私たちが神様に「誰が一番偉いですか」と問うなら、神様は「誰が一番自分の小ささを知っているか」と問い返されるでしょう。

次に後半を読んでいきたいと思いますが、後半は前半の応用編と言えます。前半では、弟子たちのうちで起きた問題でしたが、後半は、弟子たちと外の人の間の問題です。私たちが個人として競争し合うのをやめても、集団として競争してしまう危険は残っているということです。それは特に信じる人たちの群れ、教会として気を付けなければいけない問題です。まず49節です。


B. 教会間で、異なる信仰の間で


1) 「私たちと一緒にいるかどうか」ではなく (49)

49 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」

 先々週、イエス様が悪霊に取りつかれた子供を救うというエピソードを読みましたが、悪霊を追い出すということ自体は良いことです。悪霊に苦しめられている人を救うことは、良いことでないはずがありません。でも、ここで弟子の一人のヨハネがこだわっているのは、その働きをしている人が自分たちと一緒に行動をしていない点です。イエス様の名前を使って悪霊を追放しているのだったら、イエス様に力があることは知っているはずなのに、なぜこの人は弟子にならなかったのかは実際のところ不思議です。ヨハネの気持ちも少し理解できるかもしれません。でも、その人を通して神様が働かれているのは事実です。そのことを見逃せば、私たちはヨハネと同じ間違いをします。イエス様と共にいるのは私たちなのだから、私たちと一緒にいない人は間違っていると考えてしまいます。それは、イエス様と共にいるということが、自分たちの優れた点の一つになっている状態です。そうなると、「信じている私たちは、信じていないあの人たちより優れている」と感じ始めます。「私たちの教会こそイエス様に正しく従っていて、あの人たちは従っていない」と思ったりします。イエス様を知って、神様の愛を受け取って、互いに競い合うのをやめたはずなのに、そのこと自体が新たな優越感を生んでしまうということです。そうなれば、また違う競争を始めるだけです。「私たちと一緒にいるかどうか」という基準は、結局自分たちが一番正しく優れているという傲慢の現れです。神様は自分たちを通してしか働かないと限定したいかのようです。イエス様の基準は違います。最後の50節を読みましょう。


2) 神様の働きを担っているかどうか (50)

50 イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

 「やめさせようとしました」というヨハネに対して、イエス様は「やめさせてはならない」と強い調子で言います。それは、神様がその人を通して働く可能性を排除してはいけないからです。神様は、神様を信じて慕う私たちを通して働かれますが、私たちを通さなくても働かれます。もしかしたら、この悪霊を追い出していた人は、本当にイエス・キリストの名前を都合よく利用していただけかもしれません。使徒言行録に出てくる偽祈祷師たちのように、後で悪霊に「イエスは知っている、パウロも知っている、しかしお前は誰だ?」と言い返されて、逆に襲われてしまうのかもしれません。(Acts19:11-) それか、イエス様の名前を利用しているうちに、本気で信じるようになるのかもしれません。結末はどちらか分かりません。それでも、今は、この人を通して悪霊から救われてイエス様を知る人がいるなら、神様はそこで働いておられ、この人は神様の働きを担っているということです。

 世界には色々な教会があります。ユアチャーチと似たような教会も、全然違う教会もあります。でも、どの教会も一つの神様の体に属していて、頭はイエス様です。どの教会が優れているか問うなら、神様は弟子たちに答えたように答えるでしょう。自分たちの小ささを知っており、神様にだけ信頼を置く教会です。そういう教会は、自分たちと一緒に働いているかいないかに関わらず、誰を通しても神様の愛が伝えられることを喜ぶことができます。それは、イエス・キリストを信じる信仰を持っているか持っていないかの差も超えるものです。信仰を持たない人、または別の信仰を持つ人を通しても、神様はイエス・キリストの愛を伝えることができます。神様の愛は、私たちが知っているよりも、時には私たちが望むよりも、はるかに大きいです。宗教が争いを生んだり、教会の間で対立が起こるのは、神様の愛の大きさを忘れた人間の傲慢さが原因です。自分たちの陣地に人を呼び込もう、自分たちの仲間を増やそうとするから、互いに衝突します。それは全て、「誰が一番偉いか」「私たちの仲間かどうか」という問いにとらわれているからです。神様の愛がこの世界でもっと表されるように求めましょう。そのために、まず私たち自身が神様の愛で満たしていただけるように求めましょう。そして、個人としても教会としても、他の人々と競争するのではなく、受け入れあい、助け合うものになりましょう。


メッセージのポイント
イエス様を信頼し、神様の愛に感謝するなら、自分と他人を比べることの無意味さに気が付きます。優越感も劣等感も必要ありません。神様の愛は、私たちが知っているよりも、私たちが望むよりも、はるかに大きいのです。私たちにできるのは、神様の前に正直にへりくだることだけです。それは個人の間でも、教会同士の間、信じる人と信じない人の間でも同じです。

話し合いのために
1) イエス様の言う「最も小さい者」とはどういう人でしょうか?
2) 優越感や劣等感を持っていますか?どうすれば無くせるでしょうか?

子供達のために
子供達にも、友達と比べて自分は偉いと思ったり、逆に自信をなくしたりすることは日常よくあると思います。(子供達の経験を聞いてみてください。)でも一番大切なのは、他人と比べることではなくて、神様の前に、得意なことも不得意なことも、自分なりに頑張ったかどうかです。それは自分も友達も同じです。友達がどれくらい頑張っているかいないか、本当に分かるのは神様だけです。