<メッセージノート>

2015/4/19 ルカによる福音書 9:57-62
イエス様に従う厳しさ  池田真理


A. 旅人であるということ (57-58)


57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」


B. 全てにおいて神様を第一とすること (59-60)


59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」


C. 前進を続けるということ (61-62, フィリピ3:10-21)

61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。

(フィリピ3章)10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。


メッセージのポイント
イエス様に従って生きることは、魔法のように私たちに苦しみも悩みもない生活を約束してくれるわけではありません。神様の支配が完全には及んでいないこの世界で、理想と現実に挟まれて苦しむことも、そのために疲れてしまうこともあります。また、時には、人に拒否されたり理解されなかったりして心が痛んでも、それが神様の示す道だと思うなら、前に進まなければならない時もあります。困難なことが襲ってきても驚かないで、将来約束されている希望を見失わないで、イエス様に従っていきましょう。


話し合いのために
1) 自分の生活の中で、イエス様に従う上で大変な(大変だった)ことは何ですか?
2) イエス様に従う者の最終目標(希望)は何でしょうか?

子供達のために
イエス様を知っているのと知らないのと、何が違うか、それぞれ何がいいのか悪いのか、話し合ってみてください。そして、イエス様を知っていても悪いことが起こらないわけではないこと、それでもやっぱりイエス様と共に歩むことが一番幸せなんだということを教えてください。

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<メッセージ全文>

2015/4/19 ルカによる福音書 9:57-62
イエス様に従う厳しさ  池田真理

 今日もルカによる福音書の続きを読んでいきますが、今日の箇所は、読み方によっては非常にがっかりするような内容です。私たちは、イエス様をまだ知らない友人たちに、イエス様を知ることは素晴らしくて、イエス様と一緒なら良い人生が送れるよといつも伝えています。でも、今日の箇所では、イエス様ご自身が「私に従ってくることは生易しいことじゃない」と言ってしまっています。イエス様も聖書も正直です。イエス様を知っても、イエス様と共に人生を歩もうとしていても、苦しみも悲しみもなくなるわけではありません。それは反対に言えば、イエス様に従っているからと言って、苦しいのに苦しくないふりをしたり、喜べないのに喜ぶ必要はないということです。イエス様に従うのが大変だと感じたことがあるなら、その感じ方は間違っていません。反対に感じたことがないなら、もしかしたらちゃんとイエス様に従えてないのかもしれません。イエス様自身が、「自分に従うことは厳しい」と言っているからです。少しずつ読んでいきましょう。

A. 旅人であるということ (57-58)

57 一行が道を進んで行くと、イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。58 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」

 狐にも鳥にも安心して眠ることができる場所があるが、私にはそんなところはない、とイエス様は言っています。イエス様についていくということは、心休まることのない旅のお供をするのと同じだということです。事実、イエス様は旅を続けました。旅の途中、人々に歓迎されることもあれば、拒絶されることもありました。でも、イエス様を歓迎した人々も、常に行動を共にした弟子たちも、イエス様が本当に何を伝えたかったのか、理解していた人は誰もいませんでした。イエス様は生きている間は常に、人々からの無理解と拒絶に苦しみ、伝えたいことが伝わらないもどかしさを感じていました。そして心の底から気持ちが休まることはありませんでした。イエス様についていくなら、私たちもこのイエス様の経験を共有することになります。私たちはイエス様を通して、神様が私たちのために死なれるほど私たちを愛してくださっていると知りました。この神様の愛を知らずに苦しんでいる人たちが、私たちの周りにはたくさんいます。私たちは、その人たちに神様の愛を伝えるために、それぞれの場所に置かれています。その中で、神様の愛が届いていない人々の現実にも触れることになります。そしてそれを神様がどれだけ悲しんでいるかも思わずにいられません。人からの無理解と拒絶に悩み、伝えたいことが伝わらないもどかしさを感じることもあります。それはイエス様が感じていたのと同じものです。イエス様と比べれば小さいかもしれませんが、イエス様ご自身が自分に従うとはそういう苦しみを味わうことだと言っているので、そう感じることを悪く思う必要はありません。反対にそう感じたことがないとしたら、神様の愛を伝えようとしていないか、人々の苦しみに鈍感だということです。神様の愛を、まずあなた自身がもっと受け取ることができるように求めて下さい。そして自分の周りで神様の愛を知らずに苦しんでいる人が誰か分かるように、祈って求めて下さい。あなたを通して神様の愛を知る必要のある人、神様の愛であなたが愛するべき人は、とても身近にいると思います。

 私たちはイエス様と同じように、旅をしていると言えます。神様の家から出発して、神様が呼び戻されるまでの間、この世界を旅しているようなものです。自分が帰るべき場所、本当に安心して休めるのは神様の元だと知りながら、期間限定でここに置かれています。家にいる時と違って、旅先では不安なことも不便なこともありますが、それが正しい感覚です。もし神様と共にいることよりもこの世界にずっと居続けたいと願うなら、黄色信号です。自分がいつかはここを離れる旅人であることを思い出してください。続きを読んでいきましょう。


B. 全てにおいて神様を第一とすること (59-60)


59 そして別の人に、「わたしに従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。60 イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」

 とても厳しいイエス様の言葉です。表面的に受け取れば、家族は大切にしなくて良いから、神様のために働きなさいと言っているようです。イエス様の真意を知るためには、「あなたは行って神の国を言い広めなさい」という言葉を考える必要があります。神様の国を言い広めるとは、神様の愛を伝え広めると言い換えられます。神様は私をこんなに愛して下さっていて、そして同じようにあなたのことも愛しておられると、言葉と行いを通して伝えることです。私たちが神様の愛によって愛し合う時に、そこに神様の国は実現します。注意を払いたいのは、イエス様はここで「あなたは行って」と言っていることです。イエス様は「私に従いなさい」と言いましたが、それは「私と共にここにいなさい」という意味ではありません。「出て行って、神の国を言い広めなさい」という意味で言っています。神様の愛を伝えるために世界に出て行きなさいということです。つまり、イエス様に従うとは、神様の愛を伝えるというイエス様の生き方に従うということです。

では、何がこの人の問題かというと、イエス様よりも家族を大切にしようとしたことです。父を葬るとは、文字通りの意味というよりは、家族としての責任を果たすと言い換えられます。それ自体が悪いことではありません。でもそれが神様の愛を伝えるよりも大切になってしまうなら、イエス様はノーと言います。なぜなら、神様の愛が中心にない人間関係は簡単に壊れてしまうからです。イエス様が「死んでいる者たちに自分たちの死者を葬らせなさい」と言っているのは、そういう意味でもあります。家族だけではなく、私たちが誰かを神様より大切に思うなら、黄色信号です。私たちがどんなに誰かを大切に思っていても、神様がその人を愛しているのに比べれば遠く及びません。その人のことを知っているつもりでも、神様が知っているほどは知っていません。そのことを忘れてしまえば、結局私たちのその人への愛は、自己満足になってしまいます。イエス様に従うなら、私たちは誰よりも神様を大切にしなければいけません。それは、その人が自分にとって大切であればあるほど難しいかもしれません。でもイエス様は、相手の希望に応えるよりも、自分の期待を押し付けるよりも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と求めています。それが結局はお互いを一番大切にすることになります。残りの部分を読みましょう。


C. 前進を続けるということ (61-62, フィリピ3:10-21)

61 また、別の人も言った。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」62 イエスはその人に、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われた。


 この人の希望は、前の二節に出てきた人の希望とほぼ同じです。家族への責任を果たしたい、家族を大切にしたいという希望です。イエス様がそのことに反対している理由も同じですが、今度はそれが「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」行為として注意されています。イエス様に従って生きると決心しながら、まだイエス様に出会う前の自分にとっての大切なものに気を引かれている状態です。文字通り、イエス様以外の大切なものとの別れを惜しんでいるということです。それではイエス様に従うことになりません。神様を一番大切にしながら、他の人も同じように大切にすることはできません。神様が一番と言ったら、どんなに大切な人でも、優先順位は神様より下です。神様が喜ばれることとその人が喜ぶことが一致していれば簡単ですが、そうでない時もあります。そんな時、私たちは心が引き裂かれそうに感じることもあるかもしれません。でも、よく祈り、聖書を調べ、信頼している人に相談して、それでも必要ならば、その時は相手を悲しませてもがっかりさせても、しなければならない時があります。自分と神様の関係の中で、それが神様の望みだと思うなら、神様は私たちにそうする力を必ず与えてくださいます。苦しくても、同時に神様への信頼によって喜びも与えられます。反対に言えば、喜びもなくただただ悲しいだけだとしたら、どんなに正しいことだとしても、する必要はありません。本当に必要なことなら、神様が私たちの心を変えてくださるので、それまで待っていればいいだけです。ただ、神様を一番と言いながら、この人との関係は特別だから、神様の願いよりも私の願いを優先させていただきます、というのはありえません。夫婦でも、恋人でも、親子でも同じです。それは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」行為で、神様の愛を伝えることにはなりません。

 最後に、今日のお話しをさらに広げて私たちが何を目指すべきなのか、パウロが勧めている箇所を読みます。ここから詳しくはお話ししませんので、どうぞ今週じっくり読んでみて下さい。フィリピ3章です。

(フィリピ3章)10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 私たちは誰も完全ではありません。神様もそのことをよく知っています。でも、イエス様を知って、何が完全なのか知りました。神様の愛は決して私たちを離れることはなく、それどころか神様と共に永遠に生きるという希望まで与えてくださいました。私たちの内にも、私たちの周りの人たちにも、この神様の愛と希望がいかに足りていないか、気が付いて愕然とすることもあります。でもそれは驚くことではありません。気が付いたところに基づいて、向かうべき方向を確かめればいいだけです。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けることです。


メッセージのポイント
イエス様に従って生きることは、魔法のように私たちに苦しみも悩みもない生活を約束してくれるわけではありません。神様の支配が完全には及んでいないこの世界で、理想と現実に挟まれて苦しむことも、そのために疲れてしまうこともあります。また、時には、人に拒否されたり理解されなかったりして心が痛んでも、それが神様の示す道だと思うなら、前に進まなければならない時もあります。困難なことが襲ってきても驚かないで、将来約束されている希望を見失わないで、イエス様に従っていきましょう。

話し合いのために
1) 自分の生活の中で、イエス様に従う上で大変な(大変だった)ことは何ですか?
2) イエス様に従う者の最終目標(希望)は何でしょうか?

子供達のために
イエス様を知っているのと知らないのと、何が違うか、それぞれ何がいいのか悪いのか、話し合ってみてください。そして、イエス様を知っていても悪いことが起こらないわけではないこと、それでもやっぱりイエス様と共に歩むことが一番幸せなんだということを教えてください。