<メッセージノート>

2015/5/3 ルカによる福音書 Luke10:1-20
神様の働き人 池田真理


A. 名もない働き人たち (1-2)


1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。


B. 神様の働き人とは


1) 無防備になる (3-12)

3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」


2) 裁きを神様に委ねる (13-16)

13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。15 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」


3) 神様に名を覚えられる (17-20)

17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」


メッセージのポイント
神様の愛を伝える働きは、その愛を知った全ての人に委ねられています。これまでその働きを担ったほとんどの人の名前は、聖書にも歴史にも残っていません。でも、神様は私たち一人ひとりをこの働きのために任命し、それぞれの場所に遣わしています。私たちが目指すのは、有名になったり歴史に名を残すことではなく、神様に覚えていただくことです。自分の思いや判断よりも、神様のなさること、神様が見せてくださることに全てを委ねていきましょう。


話し合いのために
1) 神様のために働くとはどういうことですか?なぜ働くのですか?
2) 神様の働き人のすべきこと、すべきでないことは何ですか?

子供達のために
子供達も神様のために働いている(働ける)ことを教えてください。神様にやりなさいと言われたことなら、必要なものは全て神様が与えてくださるので、心配することはありません。できないことや失敗したことも、神様に委ねれば大丈夫です。

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<メッセージ全文>

2015/5/3 ルカによる福音書 Luke10:1-20
神様の働き人 池田真理


A. 名もない働き人たち (1-2)


1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

 収穫は多いが働き手は少ない。このことは世界中の教会で常に言われてきたことだと思います。表面的に受け取れば、信者は多いが牧師や司教になる人は少ないと言っているようですが、そうでないことはこの教会の皆さんはもうよくご存知だと思います。神様が求めるのは職業ではありません。牧師であろうとなかろうと、イエス様を知った全ての人が、それぞれ自分の周りにいる人たちにも伝えようとすることを神様は求めています。私たちはみんな神様の働きのために任命されているということです。今日の箇所で、イエス様は「他に72人を任命した」とあります。「他に72人」とは、12人の弟子以外に72人ということです。実は、12人の弟子たち以外に72人を任命して送り出したという内容は、他の福音書にはなく、このルカの箇所にしかありません。なぜそうなのかは今となっては分かりません。でも、ルカが使徒言行録の著者でもあることを考えると少し想像ができます。使徒言行録には、12人の弟子以外に、パウロをはじめとして多くの人が迫害に耐えながら活動を続けたことが記録されています。パウロのこともルカは個人的に知っていたので、パウロの手紙に出てくる色々な人たちのこともルカは聞いていたでしょう。だからルカは、イエス様自身も12人の弟子以外にも多くの人を信頼して自分の働きを担わせていたという言い伝えを聞いて、記録しないわけにはいかなかったのかもしれません。この72人の人たちについては、私たちは何も分かりません。使徒言行録に出てくる人たちの何人かが含まれていたのかもしれないし、全く関係ないのかもしれません。それは考えても仕方ないことです。でも確かなのは、この無名の72人をイエス様は任命したということです。神様の働きを担うために任命されるのは特別な人ではないのだということです。聖書にも名前は残されず、歴史にも名前は残らない、多くの人たちの働きによって、私たちにも神様の愛が伝えられました。その人たちのうち一人でもいなかったなら、私たちに伝わっていなかったかもしれません。神様の働き人は、突然外からやってくる天使ではありません。私たち一人一人が、神様から任命されて送り出されている働き人です。特別な人が特別なことをするのが神様の働きではなく、神様に愛されていると知った一人一人がその愛に生きること、自分の周りにいる人々を愛して生きることが神様の働きです。


B. 神様の働き人とは

1) 無防備になる (3-12)

3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

 ここには、神様の働き人がするべきことがまとめてあります。まず、「あなたに平和があるように」と祈ること。そして、病人を癒し、「神の国は近づいた」と伝えること。でも、それ以上に、私たちがどういう態度であるべきかということの方が大切です。まず「何も持って行くな」ということ。そして、寄り道をしないで、違うところをうろうろしないで、一つの場所に留まりなさいということ。さらに、そこで出されたものを食べなさいということ。この最後の「出されたものを食べなさい」という指示は、ユダヤ人にとっては簡単なことではありません。ユダヤ人の律法によれば、清い食べ物と清くない食べ物があったからです。それは彼らにとっては、自分と神様の関係を左右する重大なこととして守られてきたので、イエス様のこの指示は衝撃的だったはずです。ともかく、イエス様の指示をまとめて言うなら、自分の持ち物を持たず、迎えてくれる人を信頼し、そこで出された食べ物なら掟を破っても受け入れなさい、ということです。言い換えれば、自分の力に頼らず、自分の価値観を捨てて、相手に対して徹底的に無防備になるということです。それは「狼の群れに子羊を送り込むようなものだ」とイエス様は言っています。私は、この言葉は「だから気を付けなさい」という意味でとらえていました。そういう意味で言われている箇所もありますが、ここではそれは少し違っていたと思います。私たちは、狼の群れの中であえて羊にならなければいけないということです。私たちも狼になってしまったら、どうやって出会う人に「あなたに平和があるように」と言えるでしょうか?羊なら受け入れてくれる可能性はあっても、狼なら必ず追い払われてしまいます。私たちは色々な人と出会って、神様の愛を知ってもらいたいと願います。その中で私たちにできることは、相手を自分に似せたものに変えることではなくて、自分が相手に合わせて変わることです。それは自分の親しんでいるものを一旦手放して、その人が持っているものを受け取るために、その人と向き合うことです。それで初めて、神様が見ているようにその人のことを見て、神様がその人に伝えたいことが分かるようになります。それで伝われば嬉しいですが、伝わらない時もあります。そういう時どうすべきなのか、11節に既にヒントがありますが、続きを読んでいきましょう。


2) 裁きを神様に委ねる (13-16)

13 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。14 しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。15 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。16 あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」

コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、すべてイエス様の故郷であるガリラヤ地方の町です。特にカファルナウムは、イエス様が一時期拠点として住んでいたと思われるところです。反対に、ティルスとシドンは地中海沿岸の港町で、おそらく多くの外国人が住んでいて、ユダヤ人には嫌われていた町です。また、12節に出てきたソドムは、旧約聖書で罪深い町として出てくる町です。イエス様を拒んだガリラヤの人々は、イエス様を全く知らない外国人や異教徒よりももっと不幸だということです。イエス様が神様の計画を知らせて、多くの奇跡を起こしても、信じない人は多くいました。伝えたいのに伝わらない、頑張っても通じないということは、イエス様自身が最初から経験していたことです。そして、イエス様はその人たちはいずれ裁かれ、罰を受けることになるとはっきり言っています。先週のメッセージでも終わりの日のことについて聞きましたが、神様はその時が来れば裁きを行う方です。私たちには、それがいつ来るのか、どのように行われるのかは分からないので、いつ来てもどのように行われてもいいように今を生きることが大切だと、先週のメッセージでも聞きました。今日のこの箇所も同じです。裁きは神様に委ねて、私たちは今できることを続けるだけです。私たちが担うのは、神様に委ねられた働きであって、最終責任者は神様です。私たちが羊のように無防備になって、神様が愛するように相手を愛そうとしても、拒む人は拒むでしょう。でもその人は私たちを拒んでいるのではなく、神様を拒んでいるのだとイエス様は言っています。私たちが相手に対して無防備になって愛することに全力を尽くしたなら、あとはその人と神様の問題なので、神様に委ねて私たちは身を引いてもいいということです。身を引くべきなのに引けないとしたら、自分のやっていることが第一に自分のものではなくて神様のものだということを忘れているのかもしれません。私たちが他の人を愛するのは、神様に委ねられた働きです。私たちには、愛することにも限界があり、愛されることにも限界があります。だから、自分のできることを怠けず、同時に焦らず続けるためには、私たちには神様が必要です。


3) 神様に名を覚えられる (17-20)

17 七十二人は喜んで帰って来て、こう言った。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」18 イエスは言われた。「わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。19 蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つない。20 しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」

72人を通して不思議な力が働いて、人々を救い、驚かせました。彼ら自身も驚きました。それは神様に任命されて神様のために働くなら、それほど大きな力と権威を与えられているということだとイエス様は言います。そしてその権威は神様に逆らう者を追い出し、従う者たちを守るとも言っています。でも同時にイエス様は、不思議な力が自分に働いているということだけに集中してはいけないと注意しています。悪霊を追い出し、病気を癒すことができると、そのことに気をとられて、本来一番大切な愛するということを忘れてしまいます。悪霊の追放も病気の癒しも、神様がその人々を愛していることの表現の一つに過ぎません。だからイエス様は、私たちが一番気にかけるべきことは何か、とても分かりやすく教えてくれました。私たちが何を喜ぶべきかということです。「あなたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」です。神様に良い働き手として覚えられることを喜ぶということです。私たちは神様に用いられて、誰かを助け、喜ばすことができます。それは私たちにとっても励ましであり慰めでもあります。でも、自分の働きが他の人にとってどうであろうと、私たちが目指すのはひたすら神様に覚えてもらうことです。自分に何ができたか、どれだけうまくできたかではなく、神様がその全てを見てくださっていると知ることです。間違えていただきたくないのですが、神様は私たちの成績表をつけているわけではありません。誰かのことを他の誰かよりもよく覚えているということもありません。この72人は、悪霊を追い出せる力に心を奪われていましたが、それでもこの人たちの名前は神様に覚えられているとイエス様は言っています。神様は私たちの小さな頭で想像するような厳しい方ではありません。私たちの小さな挑戦を喜び、しっかり覚えていて下さる方です。だから、安心して、神様に送り出されているそれぞれの場所で、歩み続けてください。


メッセージのポイント
神様の愛を伝える働きは、その愛を知った全ての人に委ねられています。これまでその働きを担ったほとんどの人の名前は、聖書にも歴史にも残っていません。でも、神様は私たち一人ひとりをこの働きのために任命し、それぞれの場所に遣わしています。私たちが目指すのは、有名になったり歴史に名を残すことではなく、神様に覚えていただくことです。自分の思いや判断よりも、神様のなさること、神様が見せてくださることに全てを委ねていきましょう。


話し合いのために
1) 神様のために働くとはどういうことですか?なぜ働くのですか?
2) 神様の働き人のすべきこと、すべきでないことは何ですか?

子供達のために
子供達も神様のために働いている(働ける)ことを教えてください。神様にやりなさいと言われたことなら、必要なものは全て神様が与えてくださるので、心配することはありません。できないことや失敗したことも、神様に委ねれば大丈夫です。