<メッセージノート>

2015/5/17 (ルカによる福音書 10:21-24, 38-42)
神様に気を遣うのはやめよう 池田真理


A. マルタとマリア (38-42)


38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」


B. 神様が一番喜ばれること


1. 子供のように神様を信頼すること (21)

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。


2. イエス様によって神様を信頼すること (22-24)

22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」


メッセージのポイント
神様を信じる上で一番大切なのは、信頼です。小さい子供が、大人のすること全てを理解していなくても親を信頼するように、私たちが神様のなさること全てを理解できなくても信頼することを、神様は一番喜ばれます。私たちは様々な状況の中で心配したり疑ったりしてしまいますが、イエス様の十字架で示された神様の愛に戻ってきましょう。神様の前では「大人の気遣い」をする必要はありません。神様には、愛されている子供として率直に疑問を打ち明け、素直に喜びを伝えていきましょう。

話し合いのために
1) なぜイエス様はマリアの行動を喜んだのですか?
2) 子供のように神様を信頼するとはどういうことですか?

子供達のために
マルタとマリアの話から話してみてください。一般的に考えればマルタの行動の方が「客をもてなす」という意味ではふさわしい行動です。イエス様を招いたのはマルタですし、マルタはイエス様のことを慕っていたことは間違いないでしょう。旅に疲れたイエス様に食事を出し、休んでもらおうとしたことには良い動機しかありません。でも、実は神様の前にはそういう気遣いよりも、素直に自分の聞きたいことを聞き、辛いことは辛い、嬉しいことは嬉しいと言うことの方が大切です。神様の前には私たちは一生子供で、神様にはなんでも打ち明けていいことを伝えてください。

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<メッセージ全文>

2015/5/17 (ルカによる福音書 10:21-24, 38-42)
神様に気を遣うのはやめよう 池田真理

今日もルカによる福音書の続きを読んでいきますが、今日は二箇所読みたいと思います。最初に後半の38節から42節、有名なマルタとマリアのお話からです。

A. マルタとマリア (38-42)

38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 皆さん、自分は気が利く方だと思いますか、気が利かない方だと思いますか?家の中でも外でも、何かの作業の先を見越してさっとやっておくということは、得意な人もいれば、そんなこと気にしたこともないという人もいると思います。多分、気の利く方からしてみれば、気の利かない人の行動はいらいらするものなので、衝突の原因になったりもします。大人として社会で生きていくということは、多かれ少なかれ、気が利くということが必要になります。無人島でたった一人で生きている場合を除いて、私たちはみんな色々な人と協力しながら生活をし、仕事をしているからです。自分のやっていることだけに集中しないで、周りの状況をよく見て、大変そうな人を手伝うのが大人の気遣いというものです。自分のやりたいことだけやって、他のことには協力しませんという態度だったら、学校でも仕事場でも嫌われ者になってしまうでしょう。

 でも、だから皆さん、気の利く人になりましょう、というのが今日のメッセージではありません。正反対です。神様の前では、私たちは気が利く人である必要は全くなく、むしろ気が利かないくらいでいいのだというのが今日のメッセージです。マルタとマリアという姉妹が出てきました。マルタは、イエス様を家に迎え入れ、自分にできるあらゆるもてなしでイエス様を歓迎しようとしました。おそらく手足を洗う水やたらいを用意して、ふく布も用意して、さあさあこちらにお掛けくださいと席に案内し、何をお飲みになりますか、さあどうぞ。では食事を準備いたします、どうぞおくつろぎください、と一生懸命だったでしょう。それは全部、マルタがイエス様を慕っていたからです。マルタの行動は、気遣いのできる「大人な」女性として当然のふるまいでした。ところが、姉妹のマリアは、忙しくしているマルタを放って、イエス様のそばに座ってなにも手伝おうとはしません。自分だってイエス様の話を聞きたいのに、忙しくしているのは見ていれば分かるはずなのに。なんて周りが見えていなくて自己中心的な姉妹なのか。マルタのいらいらは募っていきます。でもイエス様そんなマルタに言いました。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」何もしないで、ただそばに座って、話を聞いていなさい、とイエス様は言います。本当に必要なのはただ一つ、私とただ時間を過ごすことだと言われています。マリアとマルタは生きているイエス様と会うことができましたが、私たちはできません。私たちが神様と時間を過ごすことができるのは、祈りを通してです。心の中だけでも、声に出してでも、紙に書いてでも、歌いながらでも、どんな形でも構いません。神様と自分たった二人だけの時間を作って、自分の思いを打ち明け、神様の思いを聞く時を持ってください。それが祈りの中心です。祈る時、私たちは社会で身につけた大人としての気遣いや責任を一旦忘れることが許されています。何歳になっても、私たちは神様の前では神様の大切な子供の一人だからです。神様は、私たちが神様の前に大人であるよりも、子供であることの方を喜ばれます。21節に戻って読んでいきましょう。


B. 神様が一番喜ばれること

1. 子供のように神様を信頼すること (21)

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

この直前にあるのは、先々週読んだ箇所です。イエス様に派遣された72人が喜んで帰ってきたというところです。72人は悪霊が自分たちに従ったのを喜んで報告しましたが、イエス様はそれを認めながらも、神様に覚えられることの方を喜びなさいと注意しました。その直後、イエス様は今読んだ箇所にあるように、喜びにあふれています。イエス様の名前によって悪霊が追い出されることに単純に感動し、喜んで報告した弟子たちを、イエス様は喜びました。先週は母の日でしたが、カーネーションが嫌いなお母さんでも、子供が一生懸命貯めたお小遣いで買ったカーネーションを喜ばないお母さんはそんなにいません。たとえ人間のお母さんがそうだとしても、神様は絶対に違います。子供のように、嬉しかったことを報告し、率直に自分の思いを告げることを、神様はなによりも喜んでくださいます。間違いを恐れることはありません。神様を困らすことをしても、ただ神様の前に正直で一生懸命であるなら、必ず助けてくださいます。私たちはみんな、神様の前には愛されている子供の一人だからです。でもこれは、失敗を恐れる必要はないといういい面だけではありません。子供に、親の考えていること全ては分かりません。それと同じように、私たちに神様のなさること全てが理解できるわけではありません。私たちは、目の前で起こってくる色々な出来事の理由を探してあれこれ考えます。でも、すぐに答えが出ることばかりではありません。なぜですか!と神様に叫んでも、すぐには答えてくださいません。私たちの心が乱れているからでもありますが、時が過ぎて、状況が変わって初めて神様の計画に気がつくこともあります。本当の答えが与えられるのは、この世を去って神様に直接会う時まで待たなければならないこともあります。だから、どんな状況でも、神様は良い方で、神様のなさることに間違いはないと信じることは、そんなに簡単ではありません。子供のように神様を信頼するということは、安心感があって簡単なようでいて、同時に時にとても難しいということです。神様に率直に疑いと不満を打ち明けることを、神様はとがめません。これまでお話ししてきたとおり、分かったふりをする大人であるよりも、分からないことは分からないと言って困らせる子供を、神様は喜んでくださいます。ただ、どんな時でも忘れてはいけないポイントが一つだけあります。これがなくなってしまえが、私たちの神様への信頼は簡単に崩れてしまう大切なポイントです。それは、イエス・キリストの十字架です。22-24節を読みましょう。


2. イエス様によって神様を信頼すること (22-24)

22 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」23 それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。24 言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

この部分に直接十字架は出てきません。でも、イエス様が言おうとされていることは、ご自分を通して父である神を知りなさい、ということです。今日はこれまでずっと、神様は私たちを自分の子供として愛してくださっているとお話ししてきましたが、そう断言できる証拠はイエス様です。神様は、イエスという一人の人としてこの世界に来られ、十字架で苦しんで死なれました。他でもない神様が私たちのために死んでくださったということは、いつも新鮮な感動を私たちに与えるんじゃないでしょうか。神様は私のために死んでくださるほど、私を尊い者として、私に何ができるかできないかに関わらず愛してくださっているということは、いつでも信じられないくらい驚くべきことです。だから、この十字架で苦しまれたイエス様を知るなら、神様という存在がなんとなく頼れる父親のような温かい存在で終わることは決してありません。イエス様を通して示された神様は、私たちの弱さや間違いを全て知っていて、それを許し、行くべき道を教えてくださる方です。全てのことを計画のうちに良い目的のために用いられる方です。私たちには神様の計画全体が見えないので、目の前で起こった出来事に一喜一憂しそうになりますが、十字架の愛はどんな時も揺るぎません。こんなに辛い思いをさせられて、神様は本当に私を愛しているのか、と疑問に思う時、神様はあなたのために十字架で苦しまれたことを思い出してください。今はその辛いことの理由は分からなくても、なぜですかと問い続け、不満を隠さず、それでも十字架の愛から離れなければ、必ず神様はいつか答えてくださいます。そして、それは個人のことに留まりません。自分の周りの人の身に起こること、世界で起こっていることがあまりに酷すぎて、結局この世界は生きるに値しないんじゃないか、と絶望しそうになることがあります。それでも、2000年前に、イエス・キリストという人がこの世界を生き、十字架で苦しんで死なれたという事実は変わりません。神様は確かにこの世界のことを気にかけていて、私たちのことも、私たちの大切な人たちのことも、よく知っていて下さっています。神様と二人っきりの時間を作って、よく祈って聞いてください。ただ、一人っきりで神様との信頼関係をいつも100%健康に保てる人はいません。私たちが弱いことを神様は知っているので、直接聞いて話せる仲間が必要なことも知っています。助けを求めるのは勇気がいることですが、必要な時に必要な人を、神様は私たちの周りに置いてくださいます。もしそういう相手が今いないなら、そういう人を求めることも含めて神様に祈ってください。私たちの願いも思いも全て知っている神様に、今週の歩みも委ねていきましょう。

これから何曲か歌いますが、歌う気にならなければ歌わなくても構いません。きれいに歌うことも気にしないでください。私たちは他の人に聞かせるために歌っているのではなく、神様に向かって歌っています。神様が一人一人に出会ってくださることを願います。


メッセージのポイント
神様を信じる上で一番大切なのは、信頼です。小さい子供が、大人のすること全てを理解していなくても親を信頼するように、私たちが神様のなさること全てを理解できなくても信頼することを、神様は一番喜ばれます。私たちは様々な状況の中で心配したり疑ったりしてしまいますが、イエス様の十字架で示された神様の愛に戻ってきましょう。神様の前では「大人の気遣い」をする必要はありません。神様には、愛されている子供として率直に疑問を打ち明け、素直に喜びを伝えていきましょう。


話し合いのために
1) なぜイエス様はマリアの行動を喜んだのですか?
2) 子供のように神様を信頼するとはどういうことですか?

子供達のために
マルタとマリアの話から話してみてください。一般的に考えればマルタの行動の方が「客をもてなす」という意味ではふさわしい行動です。イエス様を招いたのはマルタですし、マルタはイエス様のことを慕っていたことは間違いないでしょう。旅に疲れたイエス様に食事を出し、休んでもらおうとしたことには良い動機しかありません。でも、実は神様の前にはそういう気遣いよりも、素直に自分の聞きたいことを聞き、辛いことは辛い、嬉しいことは嬉しいと言うことの方が大切です。神様の前には私たちは一生子供で、神様にはなんでも打ち明けていいことを伝えてください。