<メッセージノート>

2015/5/24 ペンテコステ (使徒言行録 2:1-13)
私たちにも主の霊が降る 永原アンディ


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 


A. 聖霊はどのようなお方か?

1. イエスの上にも降った霊 (イザヤ書11:1-5)

エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。


2. 「あがない」の働きを担う霊 (イザヤ書59:19, 20)

西では主の御名を畏れ東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。


3. 私たちを導き、憩わせる霊 (イザヤ書63:12-14)

主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ民の前で海を二つに分けとこしえの名声を得られた。主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが彼らは荒れ野を行く馬のようにつまずくこともなかった。谷間に下りて行く家畜のように主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き輝く名声を得られた。


B. 私たちも聖霊を待ち望む (使徒言行録 2:1-13)


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。


メッセージのポイント
 聖霊は、父、子とともに世界を作られたお一人の神のご自身を表わされるひとつの在り方です。イエスの上に降った霊であり、私たちをイエスに従う者とする霊であり、導き憩わせる力の霊です。旧約聖書で預言されていた聖霊の現れがイエスの十字架と復活によって実現しました。私たちが一つとなってここに集い、心を合わせて礼拝を捧げているということは、私たちも聖霊に満たされる準備ができているということです。聖霊の満たしを求めましょう。

話し合いのために
1) 聖霊とは?と聞かれたらどう答えますか?
2) なぜ聖霊に満たされる必要があるのですか?

子供達のために
その日の出来事をシンプルに伝え、弟子たちがイエスの命令に従って、50日間、みんなで集まって、心を一つにして待ち望んでいたこと。その霊はイエスに下った霊であったこと。イエスを信じることが出来るようにしてくれる霊であること。私たちを生活の中で導いてくれ、心や体を休ませ力を与えて下さる方であることを知らせて下さい。

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<メッセージ全文>

2015/5/24 ペンテコステ (使徒言行録 2:1-13)
私たちにも主の霊が降る 永原アンディ

 今日はイースターから50日、7週後の日曜日です。ついこの間、イースターをお祝いしたように感じますが「もう」7週間も経ってしまいました。けれども、最初のイースターを経験した当時の人々にとって、この7週間はとても長く感じられたはずです。それは十字架の出来事の絶望的な衝撃、復活のイエスに会った今まで誰も感じたことのない大きな喜びから始まりました。それから断続的に40日間、イエスは彼らに姿を見せられましたが、「神様の力に覆われるまで待っていなさい」という言葉を残して見えなくなってしまいました。それから10日間、彼らはその約束の時を待っていたのです。まず、その日に起こったことを紹介します。使徒言行録 2:1-13です。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。 


 五旬祭、Pentecost とは、ユダヤ教の最大の祭り、過越祭 Passover から50日後の収穫の祭りのことです。イエスの十字架が過越祭の時に起こり、この出来事が五旬祭に起こったのは、神様の計画です。すべての人を罪の中から救い出すイエスの十字架は、ユダヤ民族を奴隷状態に置かれていたエジプトから救い出すという出来事として預言されていたのです。神様の恵みの対象は、ひとつの民族ではなくすべての人です。このことを実現させるために、神様はイエスという一人の人となって世界に現れました。そして聖霊の力を受けるように言い残してその姿を隠されたのです。それは神様が用意された素晴らしい計画を実現するためには、聖霊の助けが欠かせないということです。世界が変わるために、そして自分が変わるために私たちは聖霊に満たされることを望むのです。世界はこのままでいい、私自身もこのままで十分と思っている人には役に立ちませんが、変えたい、変わりたいと思っている人には、神様は今日のメッセージを通して、最初の一歩を踏み出させて下さいます。
 それでは、イエス時代の前に聖霊についてどのように預言されていたか、ということから見てゆきましょう。

A. 聖霊はどのようなお方か?

1. イエスの上にも降った霊 (イザヤ書11:1-5)

エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊思慮と勇気の霊主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行いこの地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし真実をその身に帯びる。

 これはイエスの登場をその700年前に預言した言葉です。特に今日、注目したいのは2,3節です。人として歩まれたイエスが、肉体の弱さに負けないで、神の知恵、思慮、勇気を保つことが出来たのは聖霊に満たされていたからであることがわかります。聖霊に満たされていなければ誰も正しく歩むことは出来ません。イエスはバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられた時に、聖霊が降り、満たされたことが福音書に記されています。イエスご自身が満たされた霊にあなた方も満たされなさいと、イエスが命じられたということは何を意味するのでしょうか?それは目に見えないイエスの体の一部として、この世界で「神様の仕事をする」ことを任されているということです。憎しみ、利己心ではなく、愛が支配する世界に変えてゆくのがその仕事です。私たちは自分の周りから聖霊の力によって愛の支配する「神の国」の領域を広げてゆくという務めを担っています。それは自分の周りの人間関係を愛に基づくものに変えてゆくということです。イエスの地上での30年の歩みを支えた聖霊に満たされることを皆さんも期待して下さい。 イザヤはまた別の箇所でこう預言しました。59:19, 20です。


2. 「あがない」の働きを担う霊 (イザヤ書59:19, 20)

西では主の御名を畏れ東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。

 イザヤはまた別の箇所でこう預言しました。これも直接には、やがて来られる救い主イエスについての預言です。しかしそのイエスに寄り添うようにここでも聖霊が登場しています。贖うとは、買い戻すという意味です。奴隷に売られた人を代金を払って自由にするということです。ユダヤ人は救い主の登場を期待していましたが、それは権力、財力、武力によって捕虜を取り返しイスラエルを強い国にしてくれる王でした。しかし神様の計画はそれよりもはるかにスケールの大きな計画だったのです。民族、国家を超えてすべての人を、罪から解放するためにイエスは来られました。しかし、イエスはお金も、権力も持たずにそのことを十字架の死という方法で行いました。支払われた代金は、ご自身の命です。イエスは復活されましたが、地上の支配者として生き続けるのではなく天に帰りました。時間と空間に制限される在り方を終えて永遠の存在に戻るためです。わたしたちが聖霊を受けなさいと言われているのは、天に帰られたイエスに代わって「贖い」の働きを続けるためです。前の預言のところで愛の関係を作り上げるのが私たちの働きと言いましたが、愛の関係の原点は罪を赦されて自由になる、ということです。親切にすること、その人の必要を満たすことが愛することですが、その人がイエスを知りイエスを主と信じてイエスに従わない限り、その人の思い煩いはいつまでも無くなりはしません。究極の愛はイエスを伝えることなのです。私たちは十字架にかかれとは言われていませんが、自分の十字架を背負ってついてきなさいと言われています。ついてきなさいと言われてもイエスの姿は見えません。しかし聖霊として、いつでもそばに居てくださるのです。心の耳を済ませて、聖霊に従いましょう。


3. 私たちを導き、憩わせる霊 (イザヤ書63:12-14)

主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ民の前で海を二つに分けとこしえの名声を得られた。主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが彼らは荒れ野を行く馬のようにつまずくこともなかった。谷間に下りて行く家畜のように主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き輝く名声を得られた。

 今まで聖霊に満たされて、私たちができるようになることについて話してきましたが、聖霊に満たされる事を求めるもう一つの理由がここにあります。それは聖霊が大きな力をもって、私たちを保護し、導き、憩わせてくれるからです。私達自身の弱み、痛み、不安、自分ではどうすることも出来ない問題を取り除いてくれるのは、聖霊としての神様の働きです。ですから、自分の問題で精一杯で、とても神様の働きを担うなんて考えられないという人も、聖霊に満たされることを期待してほしいのです。


B. 私たちも聖霊を待ち望む (使徒言行録 2:1-13)


 今までお話してきた理由で、皆さんに是非このペンテコステの体験をしていただきたいの
です。使徒言行録の最初の4節をもう一度読みましょう。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 こういう雰囲気を人工的に作ることは簡単です。そのような集会を沢山見てきました。それが人工的なものだと分かるのは、結局よい実を実らせることができなかったからです。一方で、数人の人々の変わりたい、変えたい、愛したいという心の飢え渇きに主の霊が臨んで、誰にでも分かるような聖霊の著しい働きが起こったことも経験して来ました。私たちのルーツの一つであるヴィンヤード教会はそんなふうにして始まったのです。それは世界中に広がって今も、愛の働きに用いられています。 私たちももっと求めてもいいのではないでしょうか?
 あなたがもっと愛したいなら、聖霊に満たされることを求めて下さい。あなたがもっと神様の働きを担いたいなら聖霊に満たされることを求めて下さい。あなたがイエスは主であるということを伝えたいなら、聖霊に満たされることを求めて下さい。あなたが自分の現状を変えたいと思うなら、聖霊に満たされることを求めて下さい。あなたが癒やされたいと願うなら、聖霊に満たされることを求めて下さい。
 それが目に見えたり聞こえる形で現れなくてもいいのです。皆さんに心に起これば良いのです。さあ、聖霊を待ち望みましょう。



メッセージのポイント
 聖霊は、父、子とともに世界を作られたお一人の神のご自身を表わされるひとつの在り方です。イエスの上に降った霊であり、私たちをイエスに従う者とする霊であり、導き憩わせる力の霊です。旧約聖書で預言されていた聖霊の現れがイエスの十字架と復活によって実現しました。私たちが一つとなってここに集い、心を合わせて礼拝を捧げているということは、私たちも聖霊に満たされる準備ができているということです。聖霊の満たしを求めましょう。

話し合いのために
1) 聖霊とは?と聞かれたらどう答えますか?
2) なぜ聖霊に満たされる必要があるのですか?

子供達のために
その日の出来事をシンプルに伝え、弟子たちがイエスの命令に従って、50日間、みんなで集まって、心を一つにして待ち望んでいたこと。その霊はイエスに下った霊であったこと。イエスを信じることが出来るようにしてくれる霊であること。私たちを生活の中で導いてくれ、心や体を休ませ力を与えて下さる方であることを知らせて下さい。