<メッセージノート>

2015/8/30 テモテへの手紙 I 1:12-20 
あなたの「戦い」 永原アンディ


A. 神様に感謝する理由 (12-15)

12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。



1) 赦されたから (13,15)



2) 私たちに分裂をもたらす (51-53)



B. 赦され与えられた者の道 (16-20)


1) 赦され与えられる恵みを伝える道 (16,17)

16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


2) 戦いの道でもある (18-20)

18 わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、
19 信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。
20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。



メッセージのポイント
神様は過去がどのようなものであっても、それによって人を裁くのではなく、赦して、与えて、新しい道に歩ませてくださいます。人生はやり直せるのです。新しい道は、赦され、与えられた自分の経験をできるだけ多くの人に伝える道であり、気を抜くわけにはいかない戦いの道でもあるのです。

話し合いのために
1) 私たちが憐れみを受けたのは何のためですか? 2) 私たちはどのような戦いを求められていますか?

子供達のために
15節「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」を中心に、神様であるイエスが来られた理由をみんなが神様から大事にされ、愛されているだけでなく、神様の愛が愛されている人を通して、周りの人にも伝わることを教えてください。(15節の言葉は、聖書の引用ではなく、ルカ19:10などが根底にある当時の礼拝式文のようなものの引用っだと考えられています。)

<MP3 音声>

<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります

<メッセージ全文>

2015/8/30 テモテへの手紙 I 1:12-20 
あなたの「戦い」 永原アンディ


A. 神様に感謝する理由 (12-15)

12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

 不平不満ばかりが口から出てくる生活と、感謝の言葉が出てくる生活。あなたはどちらを望みますか?聞くまでもないことでしょう。不平不満が多ければ生活は愉快ではありません。自分ばかりでなく周りの人も不愉快にします。
 あなたの他者に対する態度は、あなたの神様に対する態度に基づいているということを知っていますか? パウロは自分の神様に対する態度が変わった時、人に対する態度も変わったことをここで告白しています。
 まだ若い、エフェソの教会のリーダー、テモテにぜひそのことを伝えておきたかったのです。テモテの目の前にはすべきことが沢山ありました。私たちもそうです。気をつけなければならないのは、目の前の問題に取り組む理由を忘れてしまうことです。私達が神様に与えられた働きを担うのは、自分の名誉のためでも、目標達成のためでもありません。ましてや、自分の怒りや憤り欲求不満を解消するためではなかったはずです。 パウロは自分の経験を引き合いに出して、神様の愛(恵みと憐れみ)を感謝し、それを忘れることなくて、それに応えるために生かされていることを忘れてはいけないよとテモテに伝えています。もしテモテがこの事を忘れてしまうなら、彼の働きはいつの間にか自分のためのものになってしまい、それに取り組む態度も自己中心的になって、人を悲しませたり、困らせたりすることにもなりかねない、と心配していたのです。皆さんも自分の活動の動機が、神様の愛に対する応答=感謝であるか時々、確かめてみてください。そこから逸れていなければ、イエスがあなたに望まれているような、周りの人にキリストの香りをもたらす人でいることが出来るからです。


1) 赦されたから (13,15)

13 以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。
15 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

 パウロはイエスに従って生きる人たちにとって危険な迫害者でした。パウロは間違っていましたが真剣でした。危険な異端と思われたイエスに従う運動を弾圧することが神の意志だと信じていたのです。ところがイエスはパウロに現れ、イエスこそ信じ従うべき方だと気づいて新しい人生を歩み始めました。(使徒言行録9章) これがイエスに従う者としてのパウロの原体験だったのです。「なんでイエスはこんな自分を選び、用いて、人々に近づこうとするのか」とパウロは思ったに違いありません。赦された罪が大きければ大きいほど、罪の自覚が確かであればあるほど、感謝も大きく確かなものとなります。皆さんなら13節をどう書いたでしょうか? わたしなら「以前、私は神はいないと言い張る者、神を信じる人々を馬鹿にする者、自分勝手に好きなように生きる権利があると思い込んでいる者でした。」と書きます。それは私がパウロと同様に罪人であったということです。だから15節は私にも当てはまり、そのとおりに思うのです。これに対する応答は「感謝」以外にはありません。
 あなたも赦されます。その赦しを受け取るかどうか?それはあなたの判断に任されています。私は今年60歳になります。わたしはその1/3を神様を知らずに生きてきました。もうその倍の時間をイエスに従って歩んできた事にもなります。
 私が正しい宗教を選びとる才能があってそう出来たのではありません。20歳を少し過ぎただけの私は今よりももっと無知で、自己中心的で、生意気で周りの人を愉快にするよりも、不愉快にさせることの多い者でした。ただ憐れみを受けて、引き寄せられ、赦され、呼ばれたのでそう出来たのです。
 あなたは「イエスは私を救うために世に来られた」と確信して感謝していますか?私たちがイエスに従って歩み始めるのは、この恵みに対する感謝に応えたいと思ったからです。この動機を他のものに置き換えてしまわないように、今朝も、このお話のあとで、心から感謝して歌い、礼拝を捧げましょう。


2) 私たちに分裂をもたらす (51-53)

12 わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。
14 そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

 イエスの愛の恵みは、私たちを赦し、もう一度神の子として認めるだけではありません。私たちを強くして務めを与えてくださるのです。それはあなたが人生の本当の目的を持つということです。主イエスの恵みは尽きることなく、生涯にわたってあなたに与え続けられます。それはあなたが生涯にわたってイエスを信頼して生きることができる。その愛に満たされ、その愛を与えて生きることが出来るということです。イエスがあなたに約束している恵みです。なんでこれを断る理由があるでしょうか?なんでこのような恵みを感謝せずにいられるでしょうか?
 世界には、この目的を知らずに生きている人がどれほど多くいることでしょうか?目的を見いだせずに無気力に生きている人、「自己実現」することが人生の目的だと思い込み他の人々を犠牲にして貪欲に生きている人、愛されていることも、愛することも知らずに生きている人。しかしあなたはそうではありません。目的を知っています。そして、あなたの周りのそのような人々に目的を伝えることが出来ます。このことが、神様が私たち一人一人に与えてくださった務めです。その内容について後半のテキストから見てゆきましょう。


B. 赦され与えられた者の道 (16-20)


1) 赦され与えられる恵みを伝える道 (16,17)

16 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
17 永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。
 

 パウロは憐れみを受けた理由を、「キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるため」と理解しています。この世界からイエスの恵みを知らない人がいなくなるまで、あるいは世の終りが来るその日まで、あるいは自分の命が取り去られるまで、私たちは真理を求める人々の手本として生きる、という務めを果たすためだということです。
 あなたの、感謝に動機づけられた人生の歩みを見て、誰かが人生の目的と歩み続けられる原動力を見つけ出せるのです。
アウグスティヌスという人の名前を聞いたことがあるかもしれません。400年代に生き、その1100年後のプロテスタント教会の誕生にも影響を与えた神学者です。彼はイエスを知らず、優秀な学者でしたが、自分の欲望にも忠実な人生を送っていました。彼の父親もそのような人で、家庭を顧みず妻に暴力をふるう人であったと伝えられています。しかし彼の母親は、息子の生き方を悲しみ、人生の本当の目的を知ってほしいと彼のために祈り、機会があればイエスを紹介していました。やがて彼は、母の生き方から、自分の人生の虚しさや、人の人生を自分の欲望のために犠牲にする罪深さに気づいてイエスに従うことを決意しました。イエスを伝えるということについて、私たちは相手がどのような人であるかを心配する必要はありません。自分より学歴が高い、多くの財産を持っている、人生経験が豊富、そんなことはイエスを紹介するのに何の障害にもなりません。また自分がどのような者であるかも心配してはいけません。アウグスティヌスの母モニカ(サンタモニカ)は、暴力をふるう異教徒である夫との生活に耐えながらも、息子にイエスを伝えることを大切にして生涯を過ごした人でした。聖人という考え方をするカトリック教会では、彼女はドメスティックバイオレンスに苦しむ女性の守護聖人とされています。相手がどうであれ、自分がどうであれ、イエスに従って歩いている人なら誰でも、誰に対してもイエスを紹介する事のできる特権と務めが与えられているのです。最後に18-20節を見てゆきましょう。



2) 戦いの道でもある (18-20)

18 わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、
19 信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。
20 その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。

 テモテがこの教会の牧師になるにあたって、預言による励ましがなされていたことが記されています。それは、テモテを力づける内容のものでした。パウロはこの預言から力を得て「戦いなさい」とテモテを励ましています。私たちは愛するという働きを委ねられています。それがなぜ戦うという表現になるのでしょうか? 皆さんは、イエスに従って歩む人生が、戦いでもあるということを実感していますか?それは人を傷つけるため、裁くための戦いではありません。人を神様から引き離そうとするサタンとの戦いです。サタンは正面切って襲いかかってくるわけではありません。様々な状況、人間を用いて、巧妙に私たちをイエスの愛に近づけないように、あるいはイエスの愛からから引き離し、イエスに従うことをやめさせようとしているのです。ですから、私たちの敵は誰か他の人、他の宗教、他の文化、価値観ではないのです。私たちの敵がサタンであるということは自分の心がその誘惑に負けないように気をつけるということでもあります。今日最初にお話した、神様の恵みに対する感謝をいつも忘れずに歩み続ける努力と言い換えることが出来ます。このことを、自分が簡単に忘れてしまうことを知っている人なら、これが困難な戦いであるということがよくわかっていると思います。人に熱心にイエスを紹介していた人が、それをやめてしまうばかりかイエスに従うこと自体をやめてしまう。さらにはイエスから人の魂を引き離すようなことまでし始めてしまう。そのようなことがエフェソでは起こっていたのです。20節で実名をだされた二人をサタンに引き渡したと恐ろしい表現がなされていますが、教会は出来るだけのことをして思いとどまらせようと努力をしたあと、神様に任せたということです。同じことはここでも起こります。だから私たちは、互いに励まし合い、必要なら戒めあって、この戦いを共に戦うのです。礼拝は、私たちの愛の働きの出発点であり、この戦いの出発点でもあります。だから、思いを尽くし、心を尽くし、力を尽くして捧げて下さい。歌って下さい。本気で神様に向かって歌い祈り願い叫んで下さい?魂が生きるか死ぬかを左右する戦いのスタートです。長い説教のあと、肩の凝りをほぐすためのストレッチではありません。歌っている、そのさなかにイエスが何かを教えてくれることがあります。癒してくださることがあります。力や勇気が与えられます。悔い改めなければならないことが示されます。期待して礼拝を捧げましょう。


メッセージのポイント
神様は過去がどのようなものであっても、それによって人を裁くのではなく、赦して、与えて、新しい道に歩ませてくださいます。人生はやり直せるのです。新しい道は、赦され、与えられた自分の経験をできるだけ多くの人に伝える道であり、気を抜くわけにはいかない戦いの道でもあるのです。

話し合いのために
1) 私たちが憐れみを受けたのは何のためですか? 2) 私たちはどのような戦いを求められていますか?

子供達のために
15節「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」を中心に、神様であるイエスが来られた理由をみんなが神様から大事にされ、愛されているだけでなく、神様の愛が愛されている人を通して、周りの人にも伝わることを教えてください。(15節の言葉は、聖書の引用ではなく、ルカ19:10などが根底にある当時の礼拝式文のようなものの引用っだと考えられています。)