<メッセージノート>

2015/9/20 (ルカによる福音書13:10-21) 
解放されて成長する 池田真理

A. イエス様がもたらした「解放」(10-17)

10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。


1) 解放するイエス様 (12, 16)



2) 他人を束縛してしまう権力者 (14)



3) 解放された人々 (13, 17)


B. 小さな種から大きくなる神の国 (18-20)

18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」



メッセージのポイント
神様の愛と希望に満たしていただかなければ、私たちは気が付かないうちに罪と悪魔に支配されてしまいます。イエス様は、私たちを罪と悪魔の力から解放するために来てくださいました。病気は私たちを絶望させる意味で、罪と悪魔の力に属していると言えます。それでもイエス様に頼るなら、私たちには愛と希望の種が与えられ、それは私たちの想像をはるかに超えて広く人々に伝わり、大きく成長していきます。

話し合いのために
1) イエス様のもたらした解放とは何ですか?あなたはそれをどのように体験していますか?(体験していませんか?)
2) 神の国の成長と私たちの成長はどう関係していますか?

子供達のために
18-20節のたとえ話を想像しながら説明してあげてください。私たちにできることはわずかでも、イエス様に頼るなら、神様は私たちを祝福して、私たちにできる以上のことを、見えないところでしてくださるでしょう。

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<メッセージ全文>

2015/9/20 (ルカによる福音書13:10-21) 
解放されて成長する 池田真理

 イエス様が私たちにしてくださることをどう表現するか、色々な言い方があります。救ってくださる、赦してくださる、愛してくださる、癒してくださる、共にいてくださる。それは全部、イエス様が私たちのために十字架で苦しんで死なれたということが何を意味するかを表していて、イエス様の別々の側面というわけではありません。今日の箇所は、イエス様は私たちを解放してくださるということが中心になっていますが、このことも、イエス様の救い、赦し、愛、癒し、共におられるということの別の言い方とも言えます。

A. イエス様がもたらした「解放」(10-17)

10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」15 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。16 この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」17 こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。


1) 解放するイエス様 (12, 16)


10-17節全体を読んでいきましょう。 もう一度イエス様の言葉に注意を向けましょう。まず12節「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。」日本語では「病気は治った」と訳されていますが、原語では「あなたは病気から解放された」という表現で、英語の訳し方の方がより正確だと言えます。この「解放された」という言い方が、16節でも繰り返されています。16節「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」悪魔の束縛と言われても、私たちの多くは、自分は悪魔に束縛されていると感じたことはないかもしれません。悪魔の束縛、支配というと、恐ろしい響きがありますが、実際は甘いささやきの方が多いと思います。自分の人生を壊し、他人を傷つけるようなことでも、楽だし楽しいからやってしまおうというささやきです。私たちの中にある罪がそんなささやきを喜んで受け入れます。私たちの罪と悪魔が呼び合った最終結果は、神様から切り離された虚しい人生と死です。それは、神様を知らないまま問題なく過ごしているように見える人たちをたくさん見ていると、想像しにくいかもしれません。でも、どんなに立派と思われる人でも、人間である限り神様の前に罪があるというのが、聖書の教える現実です。その罪が他の人間の目に明らかに現れるかどうかは人によって程度は違います。でも、罪を自覚しているかしていないかに関わらず、その罪から私たちを解放したイエス様を知らないのは、とてももったいないことです。イエス様は、私たちを神様に愛されている者、神様のものとしてくださいました。イエス様の力によって、私たちは神様の計画に従って豊かに生きることができるようにされているということです。
 ただ、もう一歩踏み込んで考えなければいけないことがあります。それは、病気の癒しと悪魔からの解放の関係についてです。イエス様は、この女性は18年間も悪魔に縛られていたのだから、解放してやって当然じゃないかと言われています。今日の箇所だけでなく、新約聖書の色々なところにイエス様が病人を癒された話が記録されています。イエス様のもたらした解放というのは、病気の癒しを伴うものだということです。でも、それはいつも必ずというわけではありません。イエス様と同時代の人々で、イエス様を信じても病気を癒されなかった人たちはいたはずです。変な言い方かもしれませんが、そういう人たちの話は聖書には記録されません。聖書に記録されている病気の癒しは、それが奇跡だったからです。これは現代でも同じです。医学では説明できない方法で病気が治ったという奇跡は、今でも起こります。また、医学を通して癒されることも神様のわざと言えます。でも同時に、医学も及ばず、奇跡も今のところ起こらず、病気で長く苦しんでいる人たちはたくさんいます。身体的な病を抱えている人、精神的な病と闘っている人は、この教会の群れの中にもいますし、ここにはいない私たちそれぞれの家族の中にもいます。その人たちが苦しんでいるのは、まだ悪魔から解放されていないからではありません。その人たちの中には、自分の病気によって、または愛する家族の病気によって絶望しそうになる時があっても、神様の力によって希望を持ち続け、他の人に神様を紹介し続けている人たちがいます。その人たちが教えてくれるのは、イエス様がもたらした解放というのは、たとえ病気が癒されなくても取り消されることのないものだということです。肉体の死を超えて、神様と共に永遠に生きるという希望です。神様の目に、私たちの人生の長さは関係なく、社会的にどれだけのことを成し遂げたかも関係ありません。もしそうなら、一生ベッドに寝たきりの人や、生まれてすぐに死んでしまう赤ちゃんは神様の目に何も価値がないことになってしまいます。そんなことは決してありません。神様は私たちに様々な試練を与えますが、その全てにおいて神様に愛されるという自由は奪われることはありません。神様に希望を置くなら、裏切られることは決してありません。絶望することなく、その希望の元に生きるようにすること、それがイエス様のもたらしてくださった解放です。


2) 他人を束縛してしまう権力者 (14)


 では、イエス様に解放されていない、または解放される必要を感じていないとどうなるのか、次にお話ししていきたいと思います。そこで会堂長に注目したいと思います。彼の言動を読むと、権力を持つということが人間にとっていかに危険なことかを知ることができます。もう一度14節を読みます。

14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」

 当時のユダヤ教には、安息日には極力労働をしてはいけないと考える人たちがいました。どこまでが労働とみなされるかは解釈が分かれていたようですが、縫い物もしてはいけないし、灯りをともすこともダメだと言われていたようです。でも同時に生活はしなければいけないという矛盾の中で、何メートルは歩いて良いとか、例外を作っていたようです。この会堂長が安息日に病気を治してもらってはいけないなんてことを言ったのも、この議論の延長線上にあります。なんて滑稽な話だと思ってしまいますが、他人事ではありません。今日初めに、人間は誰でも神様の前に罪があるというのが聖書の教えだと言いました。だからイエス様に解放していただく必要があるのですが、解放されないまま、あるいは解放される必要を忘れると、私たちは誰でも罪と悪魔に支配されてしまいます。権力のある人がそうなると大変なことになります。自分の都合のいいように法律を作り、まるで合理的でない理屈でそれを正当化します。恐ろしいのは、本人はまるでそう思わないところです。安息日に関して細かすぎるほど議論するのも、この会堂長が怒ったのも、本人たちにとっては真剣そのものなのです。そして、彼らが仕えているはずの神様自身を、驚くほど見事に見落としてしまっているのです。もう一つ恐ろしいのは、ここでイエス様がいなければ、会堂長の命令によって人々は解散し、病気を癒されたはずの多くの人が癒されないままになってしまったということです。権力者が神様に従わず自分勝手に振舞う時、その人は自分だけでなく、他の多くの人まで神様の恵みから遠ざけてしまうのです。神様を認めなければ神様の働きを邪魔してしまうのは私たちは皆同じですが、権力を持った人間が神様の働きを邪魔をすると、その影響は多大だということです。多くの人が苦しまなくていいことで苦しみ、縛られなくていいことに縛られてしまいます。だから、権力というのは悪魔が入り込みやすい人間の弱みだと言えます。
 今の日本政府は、正に、神様を侮り、多くの人を苦しめる方向に進もうとしています。民主主義、平和主義、立憲主義という、人類が歴史を通して構築してきた共通の価値を、何のために壊すのでしょうか?学生団体SEALDs代表の若者が国会で訴えたように、政治家一人一人が孤独に考え、判断してほしいと願います。孤独に考え判断するというのは、私の解釈で言えば、唯一絶対の正義の方である神様が自分を裁かれるという畏れを一人一人が持つということだと思います。誰も死ぬ時には何も持っていけません。裸で神様の前に立つしかありません。
 ただし、権力の問題は今の政治家に限ったことではありません。私たち全てに関わる問題です。宗教家はもちろん、法律家、教師、医者、福祉支援者、上司、親、様々な形があります。他人に対して何かしらの優位性を持っている時こそ、私たちは自分の罪を強く自覚しなければいけません。



3) 解放された人々 (13, 17)

 さて、ここまで、イエス様のもたらした解放とは何か、また解放されていないとはどういうことかについてお話ししてきました。最後に、解放されているとはどういうことか確認したいと思います。もう一度、今日の箇所で女性と群衆に起こったことを読み返してみましょう。11-13節と17節を読みます。

11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。
17 … 群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

解放された人は、神様を賛美します。また、その人を見た周りの人も一緒に喜びます。それがイエス様に救われ、解放された人たちの状態です。イエス様に解放されているかどうかは、神様をほめたたえているかどうかで分かるということです。そして、自分の人生だけでなく、他の人の人生の中にも神様の様々な働きを見、喜んでいるかどうかです。イエス様と出会っているはずなのに、神様をほめたたえられないとしたら、あなたに解放されなければいけない部分があるからです。また、イエス様が誰だかまだ分からないけれど、自分は何かから解放されなければいけないと思っている方もいるかもしれません。そういう方たちは、どうぞ今日そのままにしないで、礼拝の中で神様に聞いて解放してもらってください。他の人の助けが必要だと思ったら、勇気を出して誰かに声をかけてみてください。声をかけられた人は、聞いてあげてください。もし言うべきことがあれば、神様に教えてくださるように求めて、励ましてあげてください。そうやって、私たちは互いに解放の手助けをし、成長していきます。それが神様の国を実現するということです。最後に18-20節を読みます。



B. 小さな種から大きくなる神の国 (18-20)

18 そこで、イエスは言われた。「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。19 それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」20 また言われた。「神の国を何にたとえようか。21 パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」


 最初にお話しした通り、私たちは人間である限りどんな人でも神様の前に罪があります。そして、イエス様に出会った後でも、油断をすれば罪の性質が息を吹き返して、神様の愛から遠く離れてしまうこともあります。そして、イエス様に出会っていてもいなくても、権力を握れば、神様の働きを積極的に邪魔し、多くの人を苦しませることもあります。そんな中で、ただ神様の愛と希望に望みを置き、神様の正義を正しく畏れて生きるということは、実際そんなに簡単なことではありません。神様は良い方だと分かっていても神様をほめたたえられないような苦しい時は、人生で何度もあると思います。それでも、神様の国はからし種から始まるのです。粒マスタードの中に入ってる茶色いつぶつぶ、あれがからし種です。直径1ミリくらいです。最初はそれくらい小さくてもいいのです。大きく成長させるのは神様です。あるかないかくらい小さくても、イエス様に望みをかけるなら、神様は必ず答えて、今まで見えなかった景色を見せてくださいます。あるかないかくらいの乏しい愛でも、イエス様のため、他の人のために捧げるなら、すぐには結果は見えないかもしれませんが、私たちには想像もつかないくらい広く、神様はその愛を用いてくださいます。小さくても大丈夫と思わせてくださるのも、イエス様が私たちを解放して、神様の愛に引き寄せくださるからです。もっとイエス様に解放されて、もっと大きく神様の愛に成長させていただきましょう。


メッセージのポイント
神様の愛と希望に満たしていただかなければ、私たちは気が付かないうちに罪と悪魔に支配されてしまいます。イエス様は、私たちを罪と悪魔の力から解放するために来てくださいました。病気は私たちを絶望させる意味で、罪と悪魔の力に属していると言えます。それでもイエス様に頼るなら、私たちには愛と希望の種が与えられ、それは私たちの想像をはるかに超えて広く人々に伝わり、大きく成長していきます。

話し合いのために
1) イエス様のもたらした解放とは何ですか?あなたはそれをどのように体験していますか?(体験していませんか?)
2) 神の国の成長と私たちの成長はどう関係していますか??

子供達のために
18-20節のたとえ話を想像しながら説明してあげてください。私たちにできることはわずかでも、イエス様に頼るなら、神様は私たちを祝福して、私たちにできる以上のことを、見えないところでしてくださるでしょう。